lundi 15 août 2011

穏やかなこの日、「日本のいちばん長い日」 を観る



昨日はどんよりとした鼠色の空から始まった。お昼に少しだけ青い空が覗いたが、午後もはっきりしない天気だった。

今朝は一転晴れ上がり、太陽がまぶしく目を開けていられないほどだった。そして、特に大きな変化もなく、一日中穏やかな日和だった。その空に合わせるように、のんびりとこの秋のことを考えたり、本をひっくり返したりしていた。これは先週の会のオーガナイザーだったベルシニさんの本ではないか、という思い掛けない発見もあった。ご本人を知る前に気になって買っていたようだが、今の今までその繋がりに気付かなかったのだ。こういうのは好きな瞬間になる。




先日の日本で手に入れた映画 「日本のいちばん長い日」 (1967年) の DVD (2005年) を観る。懐かしい顔が大勢出てくる。映画としての質はわからないが、少なくとも当時の空気を感じるにはよい作品ではないだろうか。そこには今とはまるで違う日本と日本人が現れる。逆に当時の日本人から今を見れば、ここまで変わるのかと思うほど変り果てた姿があるはずである。当時のあの雰囲気の中に身を置いたとすると、一体何を考え、どんな判断をしたのだろうか。天下泰平にも見える今この時から当時を見てものを言う時には相当の想像力と注意が必要になるだろう。

そんな中、一つだけ今にも通じると思われたのは、広い視野から構造的にものを見て、科学的に考えることが苦手だということだろうか。フランス語のイメージで言えば « lucidité » に当たる頭の中が澄み切った様が透けて見えるようなところがないような気がしている。小さな穴に潜り込んだり、どこかミスティークなところに身を委ねやすく、しかもその姿を批判的に見るのではなく、時に美化する習性があるように見える。それが日本独特の感性や芸術を生み出すことがあるのかもしれない。その世界に生きる人にとっては、それでよいのだろう。ただ、大部分の人はこの習性を考え直す必要があるのではないだろうか。

上層部の苦悩や悲喜劇が描かれた映画だったが、一方の庶民は戦争中意外に楽しんでいたと証言する人もあれば、悲惨な目に合っていたと言う人もいる。一方的に総括することなどできそうにない。塊の平均値をもとに一刀両断にすることなどできないだろう。医学がそうでなければならないように、最後は一人ひとりに起こったそれぞれの物語を拾い上げて考えるしかないのだろうか。






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