mercredi 24 août 2011

学問的哲学と生き方としての哲学


昨夜のこと。
寝入ってしばらくして、これまで気になっていたことの意味がわかり目が覚める。

科学と哲学が対比される。それぞれの特徴を明らかにし、両者の関係を考えるのは大変な作業だ。それはそれとして、同様の対立が哲学の中にもあると気付く。大学で教えられる学問的とでも言うべき哲学と自らの存在に照らした省察を主とする哲学との対比。それは、頭の中だけと体全身、専門職と日常生活、個別と全体と言い換えることができるような対比に見える。

この乖離に最初に気付いたのは、こちらの大学に来てすぐのことである。形而上学なるものが一体どういうものなのかに興味を持ち、自分の存在そのものに跳ね返ってくるような哲学が語られることを期待して講義を受けていた。もちろん、これまでの経験と照らしながら話を聞くことにより、省察や瞑想の世界に入ることはできた。しかし、講義そのものの中にその要素を見つけることは稀であった。大学における哲学というものが生き方としての哲学から大きく離れているためだろう。全体への視線が薄れ、科学者同様に哲学者と雖も小さな領域の専門家にならざるを得ない状況があるのだろう。それは哲学が大学で教えられるようになってからの宿命かもしれない。

わたしがこれまで哲学をやる中で感じていたアンビバレントな精神状態は、この対比をどう調和させるのかについて曖昧にやり過ごしていたことに原因があることに気付く。そして、われわれの生を全なるものにするためにはどちらか一方を諦めるのではなく、この二つとも思う存分打ち込めばよいだけだと決めることができたのだ。


そんなことを考えている時、こちらに来る前にパリを訪ねた折に出遭ったピエール・アドーさんの 「生き方としての哲学」 のことを思い出す。早速、関連本を読んでみたが、こちらに来る前の感覚が蘇ってくる。そこにわたしの求めていたことがある。自らの専門としての、謂わば頭だけの哲学に加え、実践に結び付く哲学、自らの全存在に跳ね返ってくる哲学がそこで語られている。哲学書を読み、それを華麗な言い回しで解説することで満足するのではなく、生きることを考え、生き方やものの見方を変えるために選択し、心を決めることが行われているかどうかがそこでは問われるのだ。このエピソードは、科学と哲学の関係についても改めて考えさせてくれる。



ところで、今日読んでいた本の中にアトピー atopie という言葉が出てくる。アレルギー疾患の中で遺伝的素因のあるものに使われるが、この語源になっているギリシャ語の atopos (場所 topos がない、場所を超えて) について触れている。この言葉はソクラテスの特徴を記述するためにプラトンが使っているという。場所がないという原意から、奇妙な、変わっている、常軌を逸した、非常識な、型に分けられない、度を越した、などなどいろいろに翻訳が可能な言葉でもある。

過去の哲学者はこの言葉をどのように解釈していたのだろうか。モンテーニュはすべての生の形の普遍性や自由闊達さ、キェルケゴールは宇宙や個人の実存の表現、ニーチェは時代精神に対抗する哲学者の態度、ルソーは奇行や狂気などを考えていたという。atopos を 「場所を超えて」 の意味に解釈すると、わたしの考える哲学者の基本的な態度にも繋がっている。と同時に、哲学が正規に教えられている場所から離れたところから、新しいものを産み出すもとになる時代精神に抗する姿勢や自由闊達さなどが生れる可能性が高いのかもしれない。


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jeudi 25 août 2011

昨日の本には、プラトンがソクラテスのことを atopos と言っていると記されている。その一例として、「饗宴」 (Le Banquet ; Symposium) がある。宴の最後の方に登場するアルキビアデスがこんなことを言っている。手元にあるバージョンと拙訳を。
"But this man here is so out of the ordinary that however hard you look you'll never find anyone from any period who remotely resembles him, and the way he speaks is just as unique as well."

Plato, Symposium (translated by Robin Waterfield)

「しかし、ここにいるこの男 (ソクラテスのこと) はあまりにも常軌を逸しているのでどんなに厳しく見たとしても彼に少しでも似ている男を見つけ出すことは時代を超えて難しいでしょう。そして、彼の話し方もまたどこにも見られないものなのです」 (強調と註は訳者)


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