dimanche 14 août 2011

詩人の感性、そして日本人の討論力



先週の会でお会いしたポール・ブルギヌさんにブログの記事をお知らせしたところ、お礼のメールが返ってきた。そこにはこのブログの標語であるポール・エリュアール (1895-1952) の言葉が大いに気に入ったとあり、これは生物学やエコロジー、ひいてはソーシャル・ネットワークにも当て嵌まるのではないかと続いている。詩人は科学者以上に真実に迫ることができる証かもしれないとも書かれてある。

 « Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)

  (偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ)


ブルギヌさんからのメールで会のことをひとつ思い出した。それは日本の若い方の発表を聞いての印象になる。今回の発表が初めてなのかもしれないが、人に聞いてもらおうとする気持ちが薄く、自分の中だけで話しているように見えた。質疑応答もままならないので、その場に参加しようとする姿勢も見られない。日本に戻れば別世界が待っているので、この時間だけ凌げば何とかなると考えても不思議ではないのだが、会場は白けてしまう。

一方、中国人の発表には小さく纏めようというところが見られず、言ってみれば open-ended な姿勢で、どこか決然としたところがある。質疑応答でも、わからない時にはわからないなりにその場を凌ぐ術を知っている。外国でトレーニングを受けている最中かもしれないので、その場合は割引きしなければならないが、、、

これらのやり取りを聞きながら、この問題は英語という言葉をどう操るかの問題ではないような気がしていた。それ以前に、自分の意見をどう発表し、それに対する討論にどう対応するのかという基本的なところがしっかり鍛えられていないという印象を持った。つまり、研究生活の日々が科学者の日常になっていないのではないかということである。そこを押さえた上での英語でなければ、まともな討論にはなかなか辿り着かないだろう。事実を見つけて発表するだけではなく、そのことについて討論することは科学の重要な要素であるが、そこが等閑にされていないだろうか。長く息づく日本の伝統を垣間見るだけではなく、自らを振り返る機会にもなった。



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