vendredi 13 mai 2011

免疫学・哲学セミナーとヴィム・ヴェンダース監督の Pina



今日は免疫学・哲学シリーズのセミナーへ。講師はブリュッセル自由大学のベルシニさん。彼は免疫学者ではなく、生物の新しい見方を提示したフランシスコ・バレーラさん (1946-2001) の仕事に感化され、バレーラさんがアントニオ・クーティンオさん (1946-) とともに免疫系の解析を始めた時にコンピュータ・サイエンスの方から参加したという。

われわれの世界を内と外に峻別し、免疫系の働きを外に対する内の反応として見る直線的な因果性に基づく見方がある。それに対して、内と外の関係は絶対的なものではなく、時と場所の違いにより両者の関係が変化し得る環状の因果性によるとする考え方もある。この場合、確固たるものとして存在するシステムが外のものを見るだけではなく、システムの状態も反応の決定過程に関与することになる。前者は長い間優勢であった見方になり、最近では後者の見方を示唆する結果が出されている。ベルシニさんも古典的な見方は硬直していて、豊かなものを齎さないと考えている。

彼は人工の免疫系や人工生命の研究にも携わっている。そこでの基本的な考え方は、すべてのモデル(あるいは仮説)は何らかの役割を果たす、というもの。カール・ポパー(1902-1994)という20世紀を代表する科学哲学者は、科学を特徴付けるものとして「反証可能性」 (falsifiability / refutability) という概念を提唱した。大雑把に言えば、それが間違いであるかどうかを証明できないような仮説は科学ではないとするもので、科学哲学を知らない科学者にも知られている有名な概念である。この考えに従うと、モデルはそれが正しいかどうかの試験を受けるために存在しているかに見える。しかし、ベルシニさんたちはもう少しゆったりした見方を採っている。つまり、モデルの存在価値はその成否だけによって決まるのではなく、モデルが生み出すいろいろな領域への影響など、モデルが存在したことにより起こった波紋を見る必要があるのではないか、ということになる。ベルシニさんの考えの底を流れているものは、あまりにも厳密な二律背反的な見方は非常にわかりやすいが、実際には複雑で陰影に富む生命現象の理解を貧しくしているのではないかという思いではないだろうか。



セミナーの始まる前、いつものカフェに寄るためサンジェルマンを通る。
この経路はマスターの時からのもの。
いろいろな気分で渡ったものだ。
この何気ない景色の中に身を置く時、ほんの一瞬の幸福感が訪れる。

セミナーの後はビブリオテークへ。
疲れが溜っているのか、高い太陽の光が降り注いでいるためなのか。
さっぱり集中できないので、いつもより早く出る。
丁度、普段は観る気にならないだろう映画を3Dでやっていたので入ることにした。




ヴィム・ヴェンダース監督の最新作 Pina
ドイツの舞踏家ピナ・バウシュさん (1940-2009) へのオマージュになる。

彼女はヴッパータール舞踊団 (Tanztheater Wuppertal Pina Bausc) を40年近く率いてきた。ここで紹介されている踊りは、彼女の振り付けになるものがほとんどなのだろう。人間の体がこんなにも多様な動きをし得ることに驚く。同時に、その動きにより人間の内面が剥き出しになってくるようにも見える。われわれの体は何かによって常に抑制されていることに気付く。

途中、メンバーが自らを振り返りながら、ピナさんとの関わりを語る。その時、一人ひとりが大写しになる。Le Grand Silence の最後の場面を思い出させる。いろいろな話があったが、ピナさんが語ったという言葉が印象に残った。正確ではないが、こんな内容だった。

「探しているものが何か分からず、それが正しい道かどうかも知らず、ただ探し続けること。それが大切だ」

バルテュス (1908-2001) の 「わたしは常に格闘してきました。それはどうすればよいのかわからなかったからです」 (2007-06-23) という言葉を思い出す。そして、映画の最後は "Dance, dance... otherwise we are lost." だった。ダンスを他のものに置き換えると、それぞれの人生に対する言葉になるかもしれない。団員にはAzusa Seyama という日本人舞踏家がいた。予告編で逞しい女性を踊っている方だろうか。音楽も素晴らしく、予想以上に楽しむことができた。


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