jeudi 31 décembre 2015

妙に落ち着いている大晦日



いろいろな出来事があった2015年が暮れようとしている

わずか数時間で新年を迎えるが、数時間で何かが変わるとは思えない

今年は久しぶりにパリで新年を迎えることになった

正月のブリュッセルでの出来事を思い出したわけではない

落ち着いて新たな仕事を始めたいという気分なのだろう

外に出向きたいというよりは、気持ちが内に向かうようになっている

これまでにも触れたとは思うが、この状態になるのに8年を要したことになる


今年最後のカフェの後、スーパーに入ってみた

これまでは入口で荷物検査をやっていたが、今日はそれがなくなっていた

 帰りのメトロでは、どの入り口を試してもチケットが入って行かない

暫くして、窓口の女性が明日の正午まで無料です、と教えてくれる


来年はどんな年になるのか

今年を振り返ってみても、全く想像できないことが分かる

今年の教訓から言えることは、すべてを受け入れて進むしかない、ということだろうか





mercredi 30 décembre 2015

今年最後のビブリオテークにて



今日は、今年最後のビブリオテークとなった

最初の数年は、このような閉じた場所で過ごす気分には全くならなかった

最初は観光客として、それから世界内存在として外を飛び歩きたい気分だったのだろう

それからかなり時間が経ってから、この広々として空間に身を置くことが稀ではなくなった

当時は、変われば変わるものだと思ったものである

ある意味、心地よさもあったのだろう

この空間の広さだけ自分の思考の空間も広がっているような錯覚を齎してくれたからだろうか

実にいろいろな思索が巡る場所となった

そして、苦しみの場所でもあった

これからも折に触れて、ここでの時間を欲することがあるのではないだろうか

そんな予感がしている





mardi 29 décembre 2015

次回のSHEとPAWLのご案内



長い間中断されていました会を、以下の要領で開催することに致しました

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


第1回サイファイ・カフェSHE札幌

2016年3月2日(水) 、18:30~20:30
科学にとっての哲学、哲学にとっての科学
札幌カフェ
案内ポスター


 第3回カフェフィロPAWL 

2016年3月8日(火) 、18:20~20:00
エピクテトスの人生と哲学
恵比寿カルフール
案内ポスター

第9回サイファイ・カフェSHE
2016年3月10日(木)、11日(金) 、18:20~20:00
科学と宗教:オーギュスト・コントの場合
 恵比寿カルフール
案内ポスター


皆様のご理解とご支援をよろしくお願いいたします




lundi 28 décembre 2015

人生のプログラムの設計者



今日は人生を振り返ることになった

以前、人生の時間についてのエッセイを書いたことがある

今の状況では大学、大学院まで行けば、教育に20年ほど費やす

それから60歳定年とすれば、35年ほど働くことになる

平均寿命が80歳だとすれば、それから20年ほどの時間が残っている

 その時間をどう過ごすのかが、問題になり始めている

これからさらに寿命が延びるとすれば、その時間の過ごし方については今以上に問題になるだろう


わたしは想定する必要がないだろうが、仮に寿命が120歳まで延びたとする

そして、これも仮に70歳まで仕事をすることになったとする

その場合、半世紀の時間が残されることになる

その時間をどう過ごすのかという問題である

仕事人間にとっては、この時間が視野に入っていないことが多い

 世界的に見ても、人生の時間割に関する哲学は弱いようである


今日なぜこの問題が浮かんできたのか

それは、期せずして第二の教育期間になったほぼ10年に区切りを付ける時が来ているからだろう 

妙に真面目になっているようである

大袈裟に言えば、教育を受けた者の責任のようなものをどこかに感じ始めているからではないか

もし教育の区切りを付けずにいたとしたならば、このような問いが浮かんできたかどうか分からない

今よりはずっと自由な感覚で居られた可能性もある

今年に入ってから、何かに縛られるような感覚が付いて回っているのである


平均寿命は分かっても、自分の寿命は分からない

しかし、ここでは仮に120歳までの時間が与えられているとする

その残りの時間をどう使うのかについて考えてみたい

いろいろなオプションが浮かんでくる


一つは、最初のサイクルと同じように、教育の後の時間を社会的な活動に使ってみること

今のところ、最初のサイクルと同じような活動の幅は社会に用意されていない

人それぞれが活動の様態を考える必要があるだろう

 活動の期間も人それぞれだろうが、これを続けるとすれば半世紀にもなる

学びに興味のある人は、適当なところで第三の教育に向かっても良いだろう

 つまり、教育と社会的活動、あるいは静的生活と動的生活を周期的に繰り返すのである

周期の長さにより、多様なライフスタイルが生まれるだろう


第二には、仕事や社会活動の後、静的な生活に入ることが考えられる

この時間の使い方も人それぞれになるだろう

 ただ、半世紀を退屈せずに過ごすには、それ相当の工夫が求められるだろう

第三、第四の可能性もあり得るだろう

しかし、社会に定型を提供するだけの哲学がない現状では、次のようなことしか言えないだろう

人生は、仕事が終わってからも続く

死ぬまで続く

死ぬまでの人生のプログラムをどうするのか

それは、結局のところ、それぞれの創造性に委ねられているのではないか

つまり、それぞれが自らの哲学を生み出す必要があるということである






dimanche 27 décembre 2015

7年前からの省察



このところ、振り返るという作業が自然に行われている

今、7年前のブログを読み返していた

そこから二つほど


ブログを書くという作業では、対象を目の前に出し、それを観察し、それについて考える

その点では、わたしの考える哲学的な要素がある

もう10年ほど続けてきたことになる

その間に感じていることは、生きることを後押ししてくれていたのではないかということだ

これは先日触れたこととも関係がある

つまり、ここでの営みが生きることに直接関わっていたということである

哲学的営みが、より善く生きる上で必須であることを示す証左になるだろう


 もう一つ

丁度マスターの2年目に入った今頃、ある壁が消えて行ったと記されている

それは、こちらに来てから付き纏っていたクールの中でフランス語を話すことの恥ずかしさである

 しかし、ある日突然、その抵抗感が消えていたとある

今となっては思い出さないが、おそらくこのような大小の壁が何度も崩れていたのではないだろうか

つい最近の経験で言えば、スートゥナンスがそれだろう

この場でも紹介したが、一年前にスートゥナンスに参加している

しかし、その時はその場に自分が立っている姿を想像さえできなかった

そして一年後、抵抗感なく当事者になっていた

大きな壁が崩れていたのだろう

少し離れて見れば、それは信じられないことである


いずれにしても、このような状態になるのには8年の時が必要だったということになる 

その時間が長かったのか短かったのかは分からない

今はただ、そうであったとしか言いようがない

こちらに来た時点から今を眺めれば、想像もできなかった世界が広がっているのだろう

今の時点から眺めれば、それは現実にしか過ぎないのだが、、、





samedi 26 décembre 2015

悲劇から奇跡へ



今年も残すところ僅かになった

今年は特に、知らない間に時が過ぎているという感覚が強かった

未だに年の瀬を迎えていることが信じられない

スートゥナンスが3週間前だったこともである


思い返せば、今年は悲劇的な出来事から始まった

それにも拘わらずなかなかやる気にならず、それは最後まで続いた

大きな試練ではあったが、今では奇跡としか思えないような経過で終えることができた

真面目に見直せば、それがどうして可能だったのか分からないの一語である


この一年の歩みは、いろいろなものを齎してくれた

その一つは先日も触れたが、自分のやり方の癖をやっと理解できたということである

そういうことになっている、あるいはそれ以外にはないのだと理解したということである

その効果だと思うが、以来それほど苦しまずに「こと」に当たれるようになってきたようである

理性によって感情をコントロールできるということなのだろうか

これは、これからにとって大きな発見であった






vendredi 25 décembre 2015

外国語の恐ろしい力



こちらに来て長い間、最初のブログ「フランスに揺られながら」は記憶の彼方であった

それが蘇って来たのはここ1-2年のことである

こちらでの動きが緩やかになり、振り返る余裕が出て来たということだろう

最初のブログをやっていた当時から不思議に思っていたことを改めて書き留めておきたい

それは、フランス語を日本語に移し替えている時に体に活が入るような感じを覚えたことである

 訳しながら心の中で繰り返したり、実際に声に出してみる

その時、その人間の声が、精がこちらに乗り移るように感じたのである

フランス語から姿を変えた日本語がこのわたしを目覚めさせ、立たせ、前に進めさせたとも言える


何故そうなるのか

それは分からない

しかし、その効果は慣性をもってこちらに来てからも現れていたのではないだろうか

もしフランス語をやっていなければ、これまでの時間はどんなものになっていたのか

想像するだに恐ろしいことである


フランス語の効果はそれだけではなかった

実は、こちらに来る何年か前から、英語の世界に飽きを感じ始めていた

英語の本を読むことに意欲が湧かなくなっていたのである

こちらに来ておそらく4-5年はフランス語の中に浸っていた

そこから徐々に出てくる過程で、英語の世界がこれまでとは違って見えてきたのである

以前に感じていた英語に対する倦怠感は消え失せ、新たな興味が湧きつつある

これも外国語の恐ろしい力と言えそうである

フランスに来たのは、実は英語に対する愛を再び呼び覚ますためだったのではないか

そんな思いも湧いてくる





jeudi 24 décembre 2015

リンカーン・センターからの贈り物





ニューヨークのリンカーン・センターから上質の贈り物が届いた












mercredi 23 décembre 2015

最良だった学生という選択



今朝、用事があり町に出る

担当者が新しく若い人になり、話すスピードが速い

聞いているだけだときびきびしていて気持ちよい

しかし、中身が分からないと後で大変なことになる

半分諦めて、何とか終わらせることができた

それから少し歩き回ってから帰って来た


この間、なぜこれほど長きに亘ってこちらにいることができたのかを考えていた

少し引いてみれば、異常にも見えかねない隠遁者のような生活だったからである

こちらに来る前の思いは、自分の時間のすべてを使って考えてみたいというものだった 

学生になるというオプションは考えてもいなかった

しかし、長期滞在にはそれ以外に方法がないと判断し、このようなことになった

もし学生以外でも長期滞在が可能だったとしたならば、どうだったろうか

その場合、これほど長く滞在することになっただろうか

学生という立場にあったからこそ、それができたのではないか

 いつか書かなければならない論文を待つ、という精神状態に置かれていたからである

実際に書く書かないは別にして

そして、その縛りを感じていたからこそ、それまで自由に動き回ることができたのではないか

望んでなったわけではなかったが、結果的には最良の選択をしたように思えてくる 

それを選択と言えるかどうかは、分からないのだが・・・





samedi 19 décembre 2015

ネガティブ・ケイパビリティ再び



今年を振り返り、先日のネガティブ・ケイパビリティに関連して浮かんできた考えがある

そう意識していたとは思えないが、これまでのやり方を見ると一つの特徴がある

大袈裟に言うと、締切りのぎりぎりまでなかなかやる気にならない

その時まで形にするのを待つようなところがある

対象についての自らの見方を最後まで決めず、熟するのを待っているかのようである

こういうものにしようと作るのではなく、対象が自ら形を作るまで待つという感じだろうか

自らの意志ではなく、対象の意志が生まれるまで待つと言い換えることができるかもしれない

これまでこのメカニズムがはっきりと見えていなかったため、常に苦しむことになった

こういうものだと理解してしまうと、あとはネガティブ・ケイパビリティにお願いすることになる

苦しみがなくなることはないだろうが、少しは軽減しそうな予感がしている






vendredi 18 décembre 2015

永遠の学徒



本日、これが本当の最後になるはずの手続きをするために大学に行く

皆さん、ヴァカンス前のためか、いつになく明るく見えた

秘書のSさんからは、大変なスートゥナンスも終わった今、ゆっくり休んでくださいと労われた

自分の中では新たな始まりにしか過ぎないという意識があるためか、いつもと特に変わらない

スートゥナンスでそのような話をした時、審査委員長から次の言葉が返って来たことを思い出した

「あなたは永遠の学徒ですね」

わたしとしては、有難い言葉として受け取った

これからもどこにいようが、その気持ちに変わりがないことを願いたいものである


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dimanche 20 décembre 2015


「永遠の学徒」 という響きには記憶を刺激するものがあると思い、古いブログを調べてみた

やはり初めてではなかった

永遠の学生 "Tu es un éternel étudiant !" (2009-10-09) 

一学徒として (2008-02-07)

このことは、自分でも当初から感じていたということが分かった

もう一つの総括の言葉となりそうである




 

mardi 15 décembre 2015

なぜ哲学はマイノリティなのか、あるいは哲学と宗教



先日、「こと」の終わりを迎え、これまで不確実、不確定の中に居続けたのではないかと感じた


ネガティブ・ケイパビリティにも通じるこの能力は、何事をするのにも重要になるだろう

中でも答えの出ない問いに向き合うとも言われる哲学においては、特に重要になるように見える

 そのことを体得したのも今回の滞在の一つの収穫になるのだろうか


そこで気付いたのは、宗教との関連、より正確には違いである 

宗教の場合には、何かを求めるよりは先に信が来ると聞いている

信が先にあれば、ネガティブ・ケイパビリティなど必要なくなるのではないか

不確実性の中で苦しむことから救うのが宗教であるとするならば


人類のほとんどが何らかの宗教に関わっていると言われている

この事実は、この世界そのものが苦しみに満ちていることを示しているのだろう

それでなくても不確実な生の中にいる人間が、更なる不確実性を求めるだろうか

なぜ哲学をやる人がいつの時代も圧倒的な少数派に属しているのか

その理由はこんなところにあるのかもしれない





lundi 14 décembre 2015

スートゥナンスの総括



本日、事務的な話のため指導教授のところに顔を出す

スートゥナンスから丁度1週間ということで、当然のことながらその話が出た

かなりレベルの高い質問がいずれの審査員からも出ていて、良いスートゥナンスだったとの総括

 わたしも同様の印象を持っていたが、これまでいろいろと見てきた方の評価だったので納得した


思い返せば、ドクターの始まりには運命的なものがあった

マスターの後、1年ほど休むつもりだったが、ドラマチックな展開でドクターに進むことになった

不思議な出会い、そして再び学生に (2009-12-04)

もう6年も前のことになる

その時に指導教授がどう言って説得したのかも笑い話として出ていた

在り来たりな言い方だが、この人生が筋書きのないドラマであることがよく分かる


 このところ庵暮らしを自認してやってきたが、書いているものを読めばわかるのだろう

何人かの審査員からそのことが指摘されていたことを思い出す

今日も、そろそろ庵から出て人と交わる時期に来ているのではないかというような話が出ていた

 これからどうするのか、という質問も出ていた

 現在、審査委員長が皆さんの意見を集めて最終報告書を作っているところだという

それが出たところで、ドクターは一応の修了となるようだ






dimanche 13 décembre 2015

パリから見えるこの世界 (35) 国立自然史博物館で、「生命を定義する」 ということを考える



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ『パリから見えるこの世界』を紹介いたします

医学のあゆみ (2014.12.13) 251 (11): 1099-1103, 2014

つい最近書いたばかりかと思っていましたが、もう1年経過していたとは時の流れが信じらせません

ニュートンの言うようには時は流れておらず、すべてがそこら一面に散らばっているようです


 ご一読、ご批判をいただければ幸いです






samedi 12 décembre 2015

再び海の底へ


今週初めに「こと」が終わったばかりなのに、もう遥か彼方の出来事に感じる

海の底に沈んでいた身が海面に出たのはほんの一瞬で、また海の底に沈みつつあるように見える

元々の生活から見ると、異質な出来事を経験していたとも言えるだろう

週が明けるとこの感覚に変化が出てくるのだろうか






jeudi 10 décembre 2015

区切りの後で見えてくる隙間



今朝、用事があり町中に出る

用事はすんなり終り、カフェに落ち着く

今年の初めの出来事を当時の記録から振り返ってみる

今の時点で浮かんでくる情景とは違い、生々しくも切実な感情が表れている

あれから11か月

このような状態になるとは、当時のわたしには想像さえできていなかった

それは当然のことだろう

ただ、今ではあの出来事はなくてはならないものとして捉えられるようになっている

決定論者としては当たり前なのだが、その認識は手品師による巧妙なツイストに見える


ここ数日よく訊かれるのは、これからどうするの?ということだ

 具体的には未定だが、今回一つの区切りを付けたことで見えてきた埋めるべき隙間がある

それを埋める作業をやってみたいということになるだろうか

完成することなどないのが人生だとすれば、適宜区切りを付けるのはそれなりの智慧かもしれない

今回のが一つの区切りだとすれば、次の区切りはいつ来るのだろうか





mardi 8 décembre 2015

一夜明け



すべてが終わって、と言いたいところだが、いつもと何も変わらない朝を迎えている

一夜明け、気持ちの僅かな変化に気が付いた

外から見ると、わたしは所謂科学哲学の専攻ということになるのだろう

しかし、この領域とは関係なく、庵に籠り、独自に(独善的にもなり得るが)考えてきたように見える

専門に入ることに抵抗を覚え、広く考えるためにこちらに来たからである

 科学哲学が対象としている問題に大きな興味を覚えることもなかった

わたしの興味は専門の中にはなく、科学と哲学の境界からの視点にあるからだろう

その意味では、遠くから観察するという姿勢を採って来たことになる

これは最初の学生時代ではあり得なかったことである

ただ、今回一段落を迎え、その姿勢に微妙な変化が現れているのを感じている

それはこんな感じだろうか

科学哲学とはどのような領域なのか、その中に入って見直す時間を取ってもよいのではないか

その中にいる時には抵抗があり、そこを離れて改めて観直そうという気になる

不思議なものである





lundi 7 décembre 2015

スートゥナンス終わる

審査員の諸先生
(右から) Prof. Geoff Butcher (UK), Prof. Anne Marie Moulin, Prof. Alain Leplège, 
Prof. Anne Fagot-Largeault, Dr. Thomas Pradeu


本日、朝からスートゥナンスが行われた

いつものようにぎりぎりまで準備に追われた

わたしの発表は30分程度

その後に審査員との質疑応答が一人20-30分ほど続いた

これまでに見たものよりは物理(ニュートン)的な時間は短かった

これは審査員の数による違いではないだろうか

いずれにせよ、かなり厳しい質問が次々に出され、こちらは大いに勉強になった

学問の規範だけを基にした純粋に批判的な言葉は、普通の会話では聞かれないからだ

このような中身が密に詰まった時間は久しぶりで、それを経験できたという幸せを感じている

いつもの後付けで言えば、この時間を味わうためにわざわざ論文を書いたのでは、とも思える

終わった後に解放感が訪れるのかと思ったが、テーズの時と同じで全くなかった

これからの課題が山積という状態になったと感じているためだろうか

いずれにしてもこれからいろいろな意味を持ってくるだろう一日が終わろうとしている


 ところで、今回も出来事があった

朝、pot のための飲み物のビンを持って校舎に入ろうとすると、ビンの持ち込みは禁止だという

預かってくれないかと言っても何を言っても駄目

最後には、外にあるごみ箱に捨てるしかないと判断して会場に向かった

そのことを施設のパソコンなどを管理するサービス部に言うと、先週は何の問題もなかったという

 再び警備の人に食い下がったが、やはり駄目

そうこうしていると、サービスの屈強の男性が現れ、飲み物を一緒に取り返そうという

そして彼が警備の人に声を掛けると、先ほどの態度が一変、持ち込みOKという

かなりいい加減である

幸い、タバコの吸い殻とコーヒーの飲み残しに塗れたボトルをすべて回収することができた

 お蔭様で、すっきりした気分で「こと」に向かうことができた


振り返れば、先々週と先週会場を見に来た

その時に、彼とざっくばらんに話していたことがこうなった大きな要因ではないかと想像している

やはりヒューマンコンタクトは重要だと庵から出て改めて感じている

残ったものはすべて彼のセクションで処分してもらうことにしたのは、言うまでもない




dimanche 6 décembre 2015

スートゥナンス前日、ネガティブ・ケイパビリティが浮かぶ




今日は終日うす曇り

明日にスートゥナンスを控え、実に不思議な感じである

このような状況に自分が置かれていることが、信じられないとも言える

何でまた、という気分でもある

これまで日本にいたとしたならば、考えられないことだろう

昔のわたしが日本から見ているとしたならば、どんな感想を抱くだろうか

興味が湧いてくる


今回も最後まで準備に追われそうである

最後の最後にならないと纏まりそうにない

これは何のことはない、いつも不確実、未確定な状況に居続けるということである

意識しているわけではなく怠惰の成せる業だが、その状態に耐えざるを得なくなっている

これこそ以前に触れたネガティブ・ ケイパビリティが試されていたのではないか

ひょっとすると、特に今年一年、この能力を鍛えていたことになるのだろうか






samedi 5 décembre 2015

今朝のパリの空



久しぶりに朝の空を味わう

冬の空は突き抜けるようで素晴らしい

その中を静かに進む飛行機雲は今日も健在だ

どんな一日になるだろうか











jeudi 3 décembre 2015

スートゥナンスの許可が下りる

(Sebastião Salgado, 1944- )


本日、スートゥナンスを行ってもよろしいとの通知 convocation が届いた

このようなシステムになっていたのだということを初めて知る

まさに、コツが分かった時にはすべて終わっている、である

今回もそれを痛感した

最後だけは、文句を言わないで静かに準備したいものである





mercredi 2 décembre 2015

「水木しげるという人 QUI EST SHIGERU MIZUKI ?」 再掲

(Sebastião Salgado, 1944- )


漫画家の水木しげる氏が11月30日、93歳で亡くなったことを知る

作品には触れたことはないが、最初のブログに記事を書いていたことを思い出す


当時の記事分類は、「自由人」 となっている

追悼の意味を込めて、以下に再掲したい


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週末の夜中にテレビをつけると、NHK アーカイブスが流れていた。その日は漫画家の水木しげるが取り上げられていた。彼の作品を読んだことはないし、ご本人についても何も知らない。しかし、話を聞いていると面白そうな人なので、途中からだったがついつい最後まで見てしまった。彼が60代中ごろの映像とのことなので、もう20年も前のことにな る。

水木しげる: 大正11年 (1922年) 3月8日 -

第二次大戦中、南の戦地でマラリアに罹るが、隊を抜け出しては土地の人と付き合っていた。彼らの生活が 「木の生活?」 (自然とともにあるということか) で、人間が大らかで言葉は分からないものの気持ちのよい付き合いであったという。言葉だけではないコミュニケーションができそうな人である。むしろ言葉でない方が人間の中身が出るような人とお見受けした。いずれにせよ、土地の人との付き合いのお陰で病気もよくなり、引き上げる時にはそこに留まりたいと本気で思い上官に申し出たが諭されて日本に帰ってきたという。彼の心の底には今でも、その生活が息づいているように見えた。

日本に帰ってからの生活は苦しく、貸し本作家として6-7年を過ごすが、この時の収入は微々たるもので食うや食わずの生活が続いたという。本当に苦しかったようだが、彼の顔にはその間に刻まれたはずの証拠が全く見て取れなかった。日常の苦境をどこか別のものとして処理できる何かがあったとしか思えない。そのことにまず驚いた。根っからの楽天家で、マイペースで生きるのが自分に一番心地よい生き方とでも思っているかのようだ。南洋での生活が何かを与えたのか、あるいは現世にありながら別世界を見ることのできる視界の深さがあったのだろうか。その理由はわからないが、お顔が特に印象に残った。

もう一つ印象的だったのは、60になったら仕事をしないで、のんびりぼやーっとして生活するのが最高という考え方。仕事をしないということはすべてから解放されるということ、解放されながら生きる、そんないいことがどこにありますか、という調子である。最後まで見てしまったのは、おそらく彼の中に何か共通するものを見たように感じたからではないだろうか。

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mardi 1 décembre 2015

やっと事務手続き終了



 今年もいよいよ最後の月に入った

知らない間にここまで来てしまった、という感覚である

今日は大学に行き、学生としての最後の手続きを終えることができ、やっとすっきりした

残るは本人の問題だけになった


ついでに、スートゥナンス終了後のちょっとした懇親会(pot)の準備を考える

これはフランスの大学の伝統になっているので避けられないらしい

ということで、大学近くのブランジュリーに行ってみた

マネジャーが現れ、機関銃のようなフランス語で多様な出し物を説明してくれる

今日の写真の方である

しかし、残念ながらイメージが湧かない

当日のお楽しみということで、当てずっぼうで注文した

きびきびした対応で、気持ちよく店を出た


実はどこのお店に注文するのか、これまで迷っていた

先日、そう言えば・・・ということでこのお店のことを思い出したのだ

2007年春、これからを模索するためにパリを訪れた時に入ったお店である

以下の記事に使ったのが、その時の写真である

フランスからのメール (2007-05-27) 

まさに先日の製本所と同じで、8年の時を隔てて新しい意味が現れたことになる

どうということはないのだが、なぜかこちらの方も気持ちがすっきりする出来事であった






dimanche 29 novembre 2015

作家の作法



7年前のブログを読んでみる

その中にあった1968年10月18日放送の「川端康成氏を囲んで」という放送を観直してみた






まず、最近では見かけることのない個人の間の礼儀正しく端正な距離感に打たれる

このような姿勢はいつの間にか失われ、個人の間がだらしなくなっているように見える

アメリカの影響なのかどうかわからないが、砕けすぎているように見えることが多い

幼くなり、個人として相手に対する真剣さや敬意が薄れているように見える

恰もそれが良いことのように


7年前はマスター2年目のミニメモワールを書かなければならないと意識していた時期に当たる

7年後は学生生活の総仕上げとも言えるスートゥナンスが迫っている

これがどうように終わるのか、全く分からない

上の鼎談で、川端氏の仕事振りについて三島由紀夫氏が解説している

それを聞き、一つの考えが巡っていた


それは、何かに向かう時、やたらと騒ぎ立てるのは余り美しいことではないというものである

やれ大変だとか、やる気にならないとか、苦しみの結果終えることができたなどという類のことである

孤独の中で苦しんで書いているだろう川端氏も、それは当然と言わんばかりに飄々としている

書くことを仕事にしている人にとって、これは一つの美学になるのだろうか

最近の自らを振り返ると、まだまだ修行が足りないようである





samedi 28 novembre 2015

これは不治の病か



今日も快晴の朝である

Le Grand Jour が迫っていると言われるが、困ったことに未だピンと来ていない

なかなか手を付ける気にならないのだ

外は素晴らしいが、 また最後まで苦しむことになるのだろうか

この病、どうも治りそうになさそうである






jeudi 26 novembre 2015

事務処理未だ終わらず



昨日は雨の一日だったが、今朝は雲一つない快晴となった

本日、新年度の事務処理を終えるため、大学に出かける

しかし、担当の方が1週間の病欠とのことで来週以降になりそうである

なかなかぴしっと決まらない


大学に寄ったついでに、スートゥナンスの部屋を覗いてきた

それなりの広さがある

スートゥナンスはソーシャルイベントとのこと

社会性を断ち切って庵暮らしをしてきた身なので、突然世の中に放り出されるような感じだ

 ご都合のよろしい方のご参加をお待ちしております





vendredi 20 novembre 2015

スートゥナンスのご案内



スートゥナンスの詳細が決まりましたのでお知らせいたします

(フランス語版はこちらです)


日時: 12月7日(月)、9:30~

場所: 264 E 号室, Halle aux Farines

Université Paris Diderot 

16 rue Françoise Dolto 75013 Paris 

大学の地図はこちらです

アクセス: Métro 14, Bibliothèque François-Mitterrand


テーマ

 「免疫学が問い掛ける哲学的・形而上学的諸問題」

Philosophical and Metaphysical Problems Posed by Immunology
Problématiques philosophiques et métaphysiques posées par l’immunologie


MEMBRES DU JURY 

Pr Alain Leplège, Directeur de thèse, Professeur, Université Paris Diderot  
Pr Geoffrey Butcher, Chef de groupe, Institut Babraham, Cambridge, U.K.  
Pr Anne Marie Moulin, Directeur de recherche CNRS, UMR SPHERE CNRS/Université de Paris   
Pr Anne Fagot-Largeault, Professeur, Collège de France 
Dr Thomas Pradeu, Chargé de recherche au CNRS, UMRD5164



終了後に簡単な懇親会(pot)が予定されています

興味をお持ちの方のご参加をお待ちしております






mercredi 18 novembre 2015

自らの産物を直視できるのか

Paysage


10月初めに論文を書き終えた

殆ど奇跡的としか言いようのない展開で、形だけは作ることができたと言い換えることもできる

ということで、恥部に触れるような感じがあるためか、これまで読み返す気分にならなかった

しかし、そうも言っていられない時期に入って来た

読み返した時、どのような感想が湧いてくるのだろうか

興味津々である

大切なことは、目の前にあるものこそが今の自分の姿であると理解すること

こうもできたのでは、と考えても仕方がない

それをできなかったのが、今の姿なのだから




mardi 17 novembre 2015

ゆっくりしたフェードアウトか

Vue de Flandre en hiver (partie)
anonyme, Holland, 1653


再登録のため本日も大学へ

しかし、「こと」はすんなり進まない

その前にやることがあることが判明

必要書類を揃えてから再び出向くことになった



振り返ってみると、不思議なものである

今の状況は、元はと言えば正月の悲劇的な出来事の一つの帰結である

本来であれば、論文の如何に関わらず学生生活はバカンス前に終わっていたはずだからである

出来事にはいろいろなものを生み出す力がある

すぐに結論を出さず、その出来事を抱きしめて過ごすことが重要なのだろうか

その波紋を観察し味わうことで、この生を楽しむことができるからだ 

プラスとマイナスを受け入れながら


まだ手続きは終わっていないのだが、ある気分の変化に気が付いた

このところ終わりを迎える時に感じるセンチメンタルな気分が漂っていた

しかし、それが少し薄らいできたようなのだ

 急激な終わりではなく、ゆっくりとしたフェードアウトになりそうだと感じたからだろうか

実際どうなるのか、暫く様子を観察したい





lundi 16 novembre 2015

パリ市内を動き回り、無垢の欲求が蘇る



本日は朝からパリ市内を動き回った

まずソルボンヌ前にある論文製本所へ

こちらに来てから何度もその前を通っているが、わたしにとって何の意味もないところであった

ほんのひと月ほど前までは

不思議なものである


今日のソルボンヌ界隈は人が溢れて、すんなり歩けない

大学の入り口が厳しくなっているのとお昼の沈黙の時間を持つためだろう

「広場」が哀悼の意を表するために集まった人で溢れている

如何にもパリらしい景色だ

報道陣も目に付く

残念ながら、今日もカメラを忘れた


この製本所は朝出すとお昼までに作ってくれるので、そこで注文してから大学へ

大学に出す書類の確認のためだ

入口は一か所になり、荷物検査も行われていた

早速秘書のSさんに尋ねると、想像とは違い論文の内容に関する書類だけでよいとのこと

お昼に製本所に戻り、出来上がったものを審査員に発送

 結構時間がかかった

ポストで静かにしてくださいと言われる

丁度沈黙の時間だった


それから論文を提出するため、再び大学へ

残念ながら担当者が不在だったが、通りかかった人が棚に置いていくように言ってくれる

今回は少し遅れてのスートゥナンスになるので、再度学生として登録しなければならない

今朝そう教えてくれたSさん

もう一年、学生でいられるんですね、と言ってにっこり

何と登録の担当者も不在で出直すことになった

 いずれにせよ、形だけは何とかなりそうな様子である

行ったり来たりを繰り返したせいか、ぐったりした感じがある

この感じ、久し振りである


ところで、今朝マスターを過ごした辺りに足を運んだ時、8年前の新鮮な感覚が蘇って来た

おそらく、朝早かったせいだろう

これから大学に向かって行くという昔の感じと重なったものと思われる

無垢の好奇心、あるいは純な学びの欲求とでも言うべきものが湧き上がってきて止まらなくなった

なぜそんなことになるのか、未だに分からない

苦しみに溢れたマスターを支えたのは、ひょっとするとこの欲求(デジール)だったのかもしれない








samedi 14 novembre 2015

とんだ早とちり



この辺りはいつも静かなので、外の世界を推し量ることができない

そんな風には全然見えないが、都会の中の庵となっている

この静かな環境にかくも長きに亘って生活していたものである

昨日の出来事に対する反応なのか、夜、若者たちの大きな声が響く


ところで、学生生活も終わりが近づいている

昨日、論文審査に当たったイギリス人とフランス人のコメントが大学から転送されてきた

つまり、この判定が来るまではスートゥナンスがあるかどうかは未定だったことになる

ない可能性もあったのである

そのレポートには、未熟な論文に対する建設的なクリティークが書かれてあった

そして、スートゥナンスは開かれることになった


大体30分のプレゼンテーションをした後、3時間の質疑応答が予定されているようだ

当日、どんなことになるのか予想もできない

 これからの3週間、その準備をしなければならない

本当の最後だと思って、諦めるしかなさそうである





これからの世界をどう生きるのか

Près de nous
 Wolf Bröll (2010)


今朝、メールボックスを開けると日本からのメールが目に付いた

無事確認のお見舞いメールであった

日本のテレビ画面を見ていると、ショッキングなものに映ったのではないかと想像している


こちらに来てからは、テレビ・新聞のない庵暮らしである

世の中の動きには疎くなり、日本からこちらの状況を知ることが稀ではない

昨夜の事件も大使館からの連絡で知った

思い返せば、今年も同様の事件で幕を開けた

そして、今回の事件である

ひょっとすると、これは21世紀に特徴的な戦争の一形態になるのかもしれない


このような状況をどう生きるのか

政治には政治の役割があるだろう

それをわたしが考えても知的営みだけ、お題目だけに終わる可能性がある

寧ろ、日々何を考えて生きるべきなのか、という問いに向かう方が実効性があるのではないか

今回の事件の後では、いつ死が訪れるかもしれない世界にどう生きるのか、という問いに変容する

こう問いを立てることができれば、その答えは自ずと決まってくるのではないだろうか

いつ死んでも良いように生きること、とならざるを得ない

しかし、忘れがちなわれわれの生の本質とは、そもそもそういうものではなかったのか

そう気付く時、哲学の遺産が視野に入ってくる






dimanche 8 novembre 2015

パリから見えるこの世界 (34) ジョルジュ・カンギレムの考えた治癒、あるいはこの生への信頼



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ『パリから見えるこの世界』を紹介いたします

第34回 ジョルジュ・カンギレムの考えた治癒、あるいはこの生への信頼

医学のあゆみ (2014.11.8) 251 (6): 525-529, 2014

ご一読いただければ幸いです





mercredi 4 novembre 2015

クリスティーヌ・レヴィさんから 「日本人は何を考えてきたのか」 へ



どうしたことか、「21世紀のマルクス」というセミナー・シリーズの案内が届いた

今回はクリスティーヌ・レヴィさんが 「日本におけるマルクス主義とフェミニズム」について話すという

Christine Lévy さんはボルドー第3大学モンテーニュの日本文化の専門家

特に、フェミニズムと社会主義、平和主義に興味がおありの様である


活動の中に、NHKへの出演が紹介されていたので彼女との繋がりが蘇った

その番組を以前に観たことがあったからである
 
シリーズ「日本人は何を考えてきたのか」の第4回、「非戦と平等を求めて」~幸徳秋水と堺利彦~

セミナーには参加できないので、この番組を観ることにした







以前にも観た番組だが、内容は新鮮であった

これからは観たことは覚えているが、その内容は?という状況が続くのだろうか

特に印象に残ったのは、レヴィさんの「体制の外から発言するのがインテリ」というニュアンスの言葉

日本人の教授が、戦争という状況ではそのような発言は難しいと言っていたのとは対照的であった

「枠の中の思考」と「枠の外からの思考」という問題は、わたしのテーマにもなっている

つまり、枠の外に出てものを観み、考えることができるのか、という問題になる

それは哲学という営みとも深く関連している






lundi 2 novembre 2015

カミュの言葉からフランス生活を総括する



カミュの言葉に「思考が止んだところ、そこから表現が始まる」というのがあるという

この言葉をわたし流に解釈すると、フランス生活の全体が見えてくるように思った

例えば、先日纏めたテーズである

この場で何度も触れてきたが、最後まで筆が進まず苦しんでいた

そして、最後で最後の数時間で不可能と思われた纏めに一気に向かって行った

自分でも信じられないような異次元の世界に入っていた

これはひょっとすると最後の数時間まで考えていたことになるのではないか

カミュの言葉を読み、そんな考えが浮かんできた


さらに時間軸を長く取ると、フランス生活の流れが理解できたように思った

全体で8年に亘る時間の内、最初の7年ほどはこの世界に身を晒していた

カミュの言葉で言えば、思考していた

そこではどんなに努力しても表現には至らなかった

まだ体験すべきもの、思考すべきものがあると感じていたからだろう

そして、最後の1年で体験あるいは思考が一つの閾値に達した

この段階でやっと表現に向かって行くことができたのではないか

こう理解すると、これまでの生活がよく見えてくる

これ以外にはあり得なかったのではないかと思えてくる






dimanche 1 novembre 2015

8年を超えてループ状に繋がる



今日はToutsaint (万聖節

今年も知らないうちにあと2か月となった

本日、日本にいる時の仏版ブログにコメントをよく頂いたASHITA様からコメントが入り、驚く

最近ナントに行った時の記事に対するもので、嬉しい驚きであった

ご本人はブルターニュ在住で、日本文化にも造詣が深いことはブログでも分かる


一つの終わりを控えて、その始まりにあったものとループ状に繋がったという感じがする

昔と繋がったことで益々「こと」の終わりを意識させる





samedi 31 octobre 2015

秋の週末、ニーチェの核に触れる



秋晴れの週末

午後から外に出た

今日は落葉と紅葉が美しく感じられた

写真にすると凡庸な景色に見えるが、主観的には至福を感じるものであった

その中に身を置くことで、景色が変わってくるのだろう

その感覚を思い出せるように掲げてみた


途中ル・ポワンを買い、カフェでニーチェ特集を読む

ニーチェの現代的意味がテーマになっている

最近、意識しているわけではないが、こちらでの生活の総括が浮かんでくる

その中で纏まりつつあるいくつかの塊がある

この特集で指摘されているニーチェの思想の核となるところと重なるものが多いのに驚く

わたしが関わったところでは殆ど意識していなかった哲学者なので、実に興味深い


読みながら、フランス語の習得を怠って来たつけがここに来て顕著になっていることにも驚く

よく理解できないのだ

語彙の不足がその原因になっていることは分かった

思い返せば、語学の勉強はしないことに決めてこちらの生活を始めた

アメリカの経験から、言葉の習得に集中すると考えることが疎かになることに気付いたからである

目を覆うべきフランス語しか身に付いていないが、最初の判断に間違いはなかったと思っている

今度はフランス語を学ぶ時が来ているのかもしれない




jeudi 29 octobre 2015

BBC "The Trouble with Tolstoy" を観る



昨日の関連記事を読んでいるうちに、もう少しトルストイの世界に浸っていたくなる

素晴らしいドキュメンタリーが見つかったので、観ることにした








mercredi 28 octobre 2015

トルストイの 『人生論』 を読む

 

先日、アンジェに向かう直前にトルストイの『人生論』を持って出た

アパルトマンの出口には書棚が付いている

そこに置いているのは、殆ど日本語の本である

外に出る前に、目に付いた本を手に取って立ちながら読むことがある

それが意外に深い印象を残すことに気が付いた

短時間だと分かっているからなのか、立って読むからなのか

いずれにせよ、その時の気分に合うものの場合、そのまま持ち出すのが習い性となった

問題の『人生論』は、数年前に帰国した折、古本屋で手に入れたものである

若い時に読んでいたのかもしれないが、記憶に残っていない

いつものように、いつの日か読むことになるだろうと思ったのだろう


これは多くの人が指摘しているが、所謂人生論とは一味も二味も違う

生命論や科学論(より正確には、科学批判か)から始まっているからである

それが今の自分にはよく入ってくる理由だったのかもしれない

以前にトルストイと科学者メチニコフの対比を取り上げたことがある


メチニコフはトルストイに深い尊敬の念を抱いていた

そして、科学こそ、病める人類を救い出す唯一のものであると考えていた

一方のトルストイは、科学ですべてが解決できると考えているメチニコフを浅はかな人間と見ていた

この視点の違いは、こちらに渡る前に自分が抱いていた疑問とも深く関わるものであった

 『人生論』では、なぜトルストイがそう考えたのかが力強く展開されている

やや執拗に過ぎるとも思えるが、彼の考えは手に取るように分かる


人生(生命)とは、人が生まれてから死ぬまでの間だとわれわれは考えている

しかし、トルストイはこの考えに真っ向から反対する

人間として歩み始めるのは、理性的な意識が生まれた時である

そう言うのである

まさに、人間として生まれるのではなく、人間に成るのである

意識の問題もこれまでに触れてきた

外界に反応するだけの状態は、一次意識に留まっている

その状態を振り返ることができるようになると、二次意識が現れたことになる

そのことを意識し、そこに理性を持ち込むことが重要になる

彼が言う「理性の法則に従属させる」とは、二次意識、理性を伴った内省の強化のことではないか

それが達成した時、時間と空間は消えるという

そこでは自分一人の幸福を求めることにはならない

そう考えるのは理性的ではなく、人生の目的でもないからだ

そう考えることができるようになった時、初めて人間に成る

そこから真の人生(生命)が始まると言いたいようである


途中までしか読めなかったが、トルストイの言いたいところは掴めたという感触を持った




トルストイ幻想 (2010-10-29)













mardi 27 octobre 2015

スートゥナンスが見えてきた



今週から冬時間が始まった

夏の明るい時間も好きだが、冬時間も捨て難い味がある


ところで、スートゥナンスの予定が決まりつつあるようだ

連絡によると12月初旬で、審査員の都合に合わせて最終決定されるとのこと

審査員は5名が予定され、内お一人はイギリスの方になる

一体どんなことになるのか、予想もできない


これまでは現実感なく、実際に見たのは2回ほど




振り返ってみれば、2年続けていずれも年の瀬に参加している

そして、今度は自分がその当事者になる

やはり、年の瀬に

何とも不思議な巡り合わせである