vendredi 30 novembre 2012

第4回 「科学から人間を考える」 試みの二日目も無事終わる



週末にも拘らず、多くの方が参加され、会場が狭く感じられた

参加のきっかけを伺ってみると、インターネット経由、わたしの講演を聴いた方、友人から紹介された方など

今回新しく参加された方は全体の1/3であった

会場にはいつも偶然の組み合わせが現れ、興味が尽きない


今日も講師の話がやや長くなり、討論の時間が十分に取れなかった

しかし、専門家も参加されていたためか、興味深い議論が展開

懇親会でも熱い議論が続けられていたようである

全体として見るとよかったのではないだろうか

この試みにおいて、懇親会は欠かせないステップになりそうである



お忙しい中、ご参加いただいた皆様に感謝いたします

今後ともよろしくお願いいたします。



jeudi 29 novembre 2012

第4回 「科学から人間を考える」 試みの初日、無事終わる


2年目を迎えた 「科学から人間を考える」 試みの第4回が無事終わった

いつものように開始寸前まで準備をするという情けない状態

ただ、参加の皆様の活発な議論で会は盛り上がり、時間内には収まりきらなかった

講師の話をもう少し締まりのあるものにしなければならないだろう

あまりの盛り上がりだったためか、会場での写真撮影をすっかり忘れていた


何人かの方を除いた皆様が懇親会に参加され、多様な話題に花が咲いていたようである

 人間が本来使うべき専門を超えた脳の領域が刺激されるような感覚が嬉しさを運んできてくれる

望ましい言語空間とでも言うべきものが広がっているのではないだろうか 

講師の話はさておき、懇親会でいろいろな方とお話することを楽しみに参加するのも面白いかもしれない

明日も 「脳と心、あるいは意識を考える」 をテーマに話す予定だが、どのような展開になるのだろうか

いつもスリリングである



お忙しい中、ご参加いただいた皆様に感謝いたします

今後ともよろしくお願いいたします。



mercredi 28 novembre 2012

東京でもパリのやり方


明日、明後日と「科学から人間を考える」試みが控えている

今日はその準備に忙しかった

やり方はパリにいる時と同じで、気分がしっくりくるカフェを探しては考えを纏めるという繰り返し

明日もそのために使いたい


今夜はパリ時代の友人と一献傾ける

これから日本で新しい道を模索中とのこと

希望が満たされることを願うばかりだ







mardi 27 novembre 2012

懐かしの学友と広く語り合う

池田和郎氏(東京海上日動火災保険)と深津亨氏(埼玉医科大学)


今年は学生時代以来の再会を果たした方が何人かいる

今夜はその中のお二人と今年2度目の顔合わせとなった
 
長い仕事の時間を経て、これから人生後半に向かう時には相応しい出会いであった

深津氏は目に見えないものを相手に仕事をされているので、哲学とは近い関係にあるのかもしれない

9月に帰国の折、わたしの話を聴くためにわざわざ足を運んでいただいた

 神経心理学会で話が繋がり、驚く (2012-09-15)


今夜の話題は、人生のこの時期には自然に出てくるのだろうか、歴史や哲学が中心であった

その中には日本社会の特徴をどう見ればよいのかということも含まれていた

日本の哲学のあり方についても話が及んだように記憶している

ポイントになるのは、日本の文系世界のあり方、文化ではないかというところに落ち着いた

その背景には、理系に比べ世界に向けての開かれ方が遅れているという認識があるように感じた


科学や医学の中だけではなく、そこから出て専門を相対化してみることがやりやすくなるのはこれから

少し視野を広げてみると、そのような年代の人間の見方を活用することは社会を重層的にするのではないか

 単に労働力として使おうとするのではなく、彼らの頭の中を活用すること

ひょっとすると、未来を拓く切っ掛けがそこから生まれるかもしれない

そんな考えも浮かんでいた


話の中で、わたしをエピキュリアンだ評する声が聞こえたことを思い出した

自分の観察もそれほど離れていないので、その見方には異論はない

ただ、正しい意味でのエピキュリアンという条件付きでのことだが、、、


 
今夜のような時空を超える話はわたしの脳を喜ばせてくれる

これからもこのような機会を大切にしていきたいものである




lundi 26 novembre 2012

「それらしく」 ならないために



今年からフランスと日本の距離をあまり感じなくなってきた

ほとんど水平方向の移動になってきている

フランスにいる時には日本での状況を想像できなくなっているという意味で、遠く感じられる

しかし、日本に帰ればすぐに元の感覚が戻ってくると思っているので、ほとんど気にならない

逆に、日本にいる時の方が、フランスがすぐ横にあるように感じられる

どこか時空を超えるという感覚がある

体は同じなのだが、半日で体を取り巻く環境があっという間に変わる

そういう移動の中で異なる環境に体を置くと、その機能が変わってくることにはすぐに気付く

ただ、その中身に関しては、なかなかわからない

 

 フランス生活は6年目に入ったところである

 自分では何も変わっていないと思っているが、実際にはどうなのだろうか

日本で抑制されていた何かがある

それが今、解放されているように感じる

この感覚のさらに強いものをアメリカ滞在中に感じたことを思い出す

 より正確には、何かが解放されていると感じることで、以前には抑制されていたことに気付いたと言うべきだろう
 

それから、科学から哲学という専門の転換も大きな変化を齎しているはずである

今はまだ、はっきりと意識はできていないのだろうが、、、

それが時の流れに伴う自然な変化を超えるものであることを願うばかりだ

そんなに変わりたいと思っているのか

それは、「それらしく」 はなりたくないという思いとどこかで繋がっているのか


 もしそうだとしたら、転がるしかないのではないか



samedi 24 novembre 2012

山形の銘酒と東北の海の幸を肴に古き友と語る


 福永浩司先生(東北大学)と田村眞理先生(東北大学)


 今日は仙台に足を伸ばした

 山形は米沢の九郎左衛門・雅山流という酒を味わいながら旧交を温める

その昔、研究でご一緒させていただいた田村、福永、小林のお三方とともに心置きない時が流れた

酒の肴には東北の海の幸がたっぷり

十分に堪能させていただいた


小林孝安先生(東北大学)と田村先生


田村氏は定年が間近で、これからに向けて身の回りの整理、再構築にお忙しそう

福永氏は大学や学会での仕事が増えているご様子

小林氏も研究だけではなく、教室の仕事を一手に引き受けていてなかなか大変そうだ

皆さんの様子を見ながら、プー太郎などを揶揄されているわが身を思わず振り返る



mercredi 21 novembre 2012

アルベール・ジャッカールさんの言葉

Albert Jacquard (1925-)


シャルル・ド・ゴール空港でのこと

ル・モンドラ・ヴィによる 「ユートピア」 に関する特集 L'Atlas des Utopies に出会う

来月には87歳になるアルベール・ジャッカールさんのインタビューがあった

ユートピアを提唱するのが義務になる年齢に達したと語る科学者にして哲学者である

これまでに Mon utopie も含めて何冊か手に入れているが、ゆっくり読む機会は訪れていない

このインタビューで、こんな言葉を残している


年をとる、経験を積む

それは、現在に満足するのではなく、未来を考えることが自然になることである

若い時には言えなかったことを、言わなければならなくなることである

ユートピアを信じる者(utopiste)であるということは、小さな断片ではなく、すべてを要求すること

常に理性を持つこと

新しいユートピストは極限まで行く人

歴史的に見ても、中途半端なユートピストは裏切るのである


エティエンヌ・ド・ラ・ボエシー (Étienne de La Boétie, 1530–1563)の哲学を瞑想した人たちがいた

若くして亡くなったラ・ボエシーは、モンテーニュの極めて親しい友人だった

前ブログAVFPに記事がある


 ラ・ボエシーの哲学は、他者と出会うことを極限まで欲する

『自発的隷従論』(Discours de la servitude volontaire)にはこう書かれているという

人間は強制されるからではなく、自ら欲するから奴隷になるのである

したがって、自発的隷従と闘わなければならない

そこに制限があってはならないのである


ジャッカールさんのユートピアでは、学校が中心的な意味を持っている

その役割は職業教育ではなく、それぞれが自分自身になり、自ら選択することができるようにすること

つまり、人間をつくること

真の人格をを持った人間をつくること

その人格は、人生の全行路における冒険から生まれる

そして、冒険の中心にあるものは、出会いである



samedi 17 novembre 2012

霧に霞むパリとミュンヘン、そして三日月のウィーン


東方の国に向かうため、シャルル・ド・ゴール空港

外を見ると、これまでには経験のない濃霧が広がっている

まず出発が1時間半以上遅れた

それがこの日を決めることになろうとは

乗り継ぎのウィーンでは成田の便はすでに飛び立っていた

以前であれば少しは苛立ちが生まれるはずなのだが、完全な凪

この偶然を楽しむかのように、これからどうなるのかを待つ

未来の時が消え、「いま・ここ」 を味わうことができるようになっているのである

このところの症状だ

 月末の29日、30日に予定している4回目の 「科学から人間を考える」 試みには影響がないこともある

結局、航空会社を変え、夕方ミュンヘンに向かってから成田便に乗ることになった

久しぶりに 「ミュンシェン」 と発音してみる

たっぷり時間があったので、パソコンに向かう



ミュンヘン行きに乗り込むシュヴェヒャート空港

鋭い月が目に入る 

わたしのカメラでは月の輪郭はぼけるのが常だが、この日は違った

 

そして、ミュンヘンのフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港に着くと、この景色が待っていた

ここでも出発が遅れる

今回の日本では、神戸大学(12月3日)と免疫学会(12月6日)でもお話をすることになっている

未だ霧に霞む頭の中を象徴するような風景

その日までにこの霧は晴れるのだろうか




jeudi 15 novembre 2012

世界哲学デーで日本人芸術家 Toshi さんと遭遇


今日は朝からユネスコ本部で開かれる 「世界哲学デー」 に出かける

このようなものがこの世に存在することを知ったのは、2年前の11月

全くの偶然であった


 今年のテーマは、「未来の世代」(Générations futures)

未来の世代への責任と特に子供に対する哲学教育が問題になっていたようである

哲学は自立した批判精神を教え、自らを世界に開くことにより世界の理解を深め、寛容へと導く

このメッセージを若い世代に伝えることを目指しているようだ

さらに、今年生誕300年を迎えたルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)を考え直す意味もあるようだ

「ようだ」 とばかり書いたのは、そちらの方には参加しなかったからである

 
会場に入ると、La vie - l'art pour l'avenir de l'homme という展覧会のポスターが目に入った

日本人アーティスト Toshi (石井敏美) さんによる 「生命-人間の未来のための芸術」

 早速会場に向かうと、2つのスペースを使って作品群が展示されていた


そのすべての前に立ち、写真に収める

人間の像を見ていると、内に秘めたものを自らの限界を超えて吐き出そうとする生命が持つエネルギーを感じる

そのエネルギーで人と繋がろうとしているようにも見える

それは生命に内在する力へのオプティミズムであり、希望なのか

自らを閉じ込めているこの体からの解放を求める叫びなのか

作品をいくつか紹介したい

 そこに宿る生命の力がこの写真から伝わるだろうか



 







 これは2002年に寛容と非暴力推進のためのUNESCO/Madanjeet Singh賞のトロフィーに採択された

 会場に入ってすぐに目に付いた作品になる


こちらは人権文化向上のためのUNESCO/Bilbao賞に採択された像である



 今回は子供に向けた哲学教育が一つのテーマになっているためか、やんちゃな小学生が多く見られた

その中に混じっている方が Toshi さんである

日頃はアトリエに籠もって創作の日々とのこと

福岡のお生まれで、女子美とパリのエコール・デ・ボザールに学び、若き日には世界中を旅されている

パリに落ち着いてからも、世界各地で展覧会をされているようだ

 お話を伺いながら、埴谷雄高さん (本名 般若豊、1909-1997)の言葉を思い出していた


------------------------

これからはね、人間が人間として話をできるのは、芸術家だけですよ

社会的に偉そうな奴はみんな駄目ですよ

事務的なことしかしゃべれないから、人間と人間の話をしないですよ

芸術家は人間を考えているわけだから、男と女の話をする

芸術をやってる人、しかも苦労して人間のことを非常によく考えている人は、お互いに知識の交換みたいなことをするわけですよ

芸術とは、公表してお互いに思うことを話し合うことなんですよ

何千年の歴史の中でね、芸術のいいところはね、くだらないことを書いても軽蔑しないこと

人間は神様じゃないからできない

しかし全体として、自由業で生きてる者に悪い人間っていうのはいないですよ

というのは、自由を求めてる人だからね

満たされない魂を持ってる人だから(笑)

------------------------


会場で西日本新聞のパリ支局長をされている国分健史様にお会いする

Toshi 様が福岡出身とのことで、すでに取材をされていたようである

TOSHIさんの作品展、ユネスコ本部で開幕
(西日本新聞、2012年11月13日)



mercredi 14 novembre 2012

科学と哲学の重なるところ、そして知の変容


今夕、講演会を聴きに出かける

L'observatoire du réel というシリーズで、今日は Jean Staune さんのお話

タイトルは Vers un ré-enchantement du monde 

科学が生み出す知の変容に合わせ、この世界の見方を新しくしようとする意図が込められている

初めての参加で、場所も初めての Musée Dapper であった

ストーンさんは以前から科学と哲学と宗教が交わるところで活動されている方である

日本にいる時から科学と哲学を絡めた本を書いている人として存じ上げていた

最初のブログ 「ハンモック」 にも記事がある

われわれの存在の意味 LE SENS DE NOTRE EXISTENCE (2007-05-10)


会の形式は講演会で、ホームページとメールで参加者を募っている

アフリカ関連の展示を見てから会場へ

100名くらいの方が参加されていた

この講演会を少人数の意見交換会に置き換えると、わたしが東京でやっている会のやり方に近い

テーマは量子力学、天体物理学、生物学(進化論)、神経生物学、数学と多岐に渡っていた

1時間半ほどの話で、それぞれの領域での知のあり方や哲学と交わるポイントについて触れていた

ハンモックで取り上げた本からのお話が多かったようだ

今や神の存在も科学の対象になってきているとのこと

おそらく、天体物理学の成果を踏まえてのことではないかと思われる

これからの問題として控えておきたい




dimanche 11 novembre 2012

羨ましい農場のある生活


今月の「医学のあゆみ」のエッセイでは百寿者を取り上げた

その中でシーウォル・ライトSewall Wright, 1889–1988)というアメリカの遺伝学者について触れた

適当な写真が見つからなかったので、伝記を書いているコーネル大学のプロヴァイン教授(William Provine)にお願いした

ありがたいことに、これまでどこにも出したことのないという貴重な写真を提供していただいた

その写真のお陰で乏しい内容が引き立ったのではないかと思っている

そのエッセイに対する返答として届いたプロヴァイン教授のメールには、ご自身の農場の写真が何枚か添えられていた

洒落た心遣いを感じる

農場のある生活

 今の頭の中の生活から見ると、羨ましい限りである




samedi 10 novembre 2012

メタフィジークについての言葉


久し振りにビブリオテークへ

年の瀬を感じさせるポスターが目に入った

MK2のリブレリーでのこと、題名が隠れた小さな本を取り上げる

いつもの期待とともに

アンドレ・コント・スポンヴィル(André Comte-Sponville, 1952-)さんの La philosophie だった

クセジュで『哲学』として訳されている

ざっと目を通しただけだが、哲学の捉え方がしっくりくる

 こちらに来てから気になっているメタフィジークについて、こんなことを言っている


 哲学するとは、知り得ることを超えて考えること

形而上学をするとは、考え得る限り、考えなければならない限り考えること

知っている以上のことを言わないのだとしたら、哲学を諦めて科学をやるしかない

知り得ることを対象にするのが科学で、知り得ないことを対象にするのが形而上学だからだ
 
 哲学を止めると、科学がわれわれに何を教え、何を知らせないのかについて自問することもできなくなる

メタフィジークの放棄は、何ものも齎さないのである


--------------------------------

アンドレ・コント・スポンヴィルさんに関連した記事





mercredi 7 novembre 2012

カフェで嗚咽が響き渡る


午後から用事があり、街に出る

メトロの中で、用事に必要なものを忘れていたことに気付く

いろいろ考えることがあるとはいえ、これには驚いた

もう日常のことは意識に上らなくなっているのだろうか

あるいは、問題はテーズではなく、メモワールだということか



その後カフェに寄り、いろいろ考えていることの一つに手を付ける

しばらくすると、女性の大きな嗚咽が響き渡る

目を上げると、奥の席にいた中年男女の二人組の席からだ

その女性はそれから1時間ほど人目も憚ることなく泣き続けていた

周りは知らんぷり

こちらに来て初めてのことで、日本でもなかなか想像できない光景だった

この一瞬一瞬が人間の生きている時間であることを感じる





dimanche 4 novembre 2012

無茶をして風邪気味


寒いバルコンでの時間が長くなり、風邪気味である

アラン・バディウさん(Alain Badiou,1937-)の考えがよく入ってきたためである

存在論を語っているので抽象的なのだが、捉えようとしている方向を辿ることができるからだろう

純粋な真理に至るのは数学、論理学によるしかない

それに比べると物理学も弱いし、生物学に至っては局所の真理しか明らかにしない

その中で、20世紀に影響力のあった思想家として次の3人を挙げていた

政治のマルクス、自然史のダーウィン、無意識のフロイト

丁度、次回の「医学のあゆみ」のエッセイでダーウィンを取り上げたところであった


ところで、ダーウィン以後、それに匹敵する思想が生物学から生まれているだろうか

そうは見えない

もはや思想には価値を見出さず、技術だけを追いかけるようになってしまった結果なのか

考えることをしなくなったとすれば、それは当然の帰結に見える

局所の技術にしか目が行かなくなると、物語を語れなくなるのだ

これは科学に限らず、あらゆる領域に当て嵌まることだろう

そこからの脱却が求められるのだが、この流れを変えるのも至難の業に見える



samedi 3 novembre 2012

素晴らしき偶然?




今朝、顔を洗った後、何かがそこにあるような気配を感じる

そこで目に入ってきたものをカメラに収めたのが上の写真

今回は色を変えてみた

 わたしの髪の毛が描いた作品になる

じっくり眺めると、いろいろなものが見えてくる

偶然のなせる業とはいえ、あるいはそれ故に素晴らしい




jeudi 1 novembre 2012

ルソーさんとともにノート50冊を眺める


 C'est la Toussaint !

今年も早11月

時は流れているのか

暦があるからそう思う錯覚ではないのか


 
こちらに来てから万年筆が常備品になったことはすでに触れた

これなしには文字を書くことができなくなってしまったのは、未だに理解できない変化である



こちらに来て少し落ち着いた2008年春から、講義のノートとは別にメモ用のノートを使うようになった

 最初のうち、いろいろなタイプを試したようだが、すぐにA5版のPukka Pad 200に落ち着いた

手の中の納まりがよく、万年筆との相性もよかったためだろう

今やPukkaでなければ駄目、になった

いつも持ち歩き、読んだものについてだけではなく、主観的な世界も綴ってきた

それが最近50冊になった

先日のディドロさん(Denis Diderot, 1713-1784)の全作品ではないが、ページ数だけは10,000を埋めたことになる



その塊は、わたしにとって宝物のように見える

その時々の必死の存在がそこに詰まっているからなのか

それがなければ、ほぼ完全に消え去る運命にあったことがそこに残されているからなのか

書かれている事実だけではなく、あるいはそれ以上に書いた時の自分までもが蘇ってくるからなのか

過去が現在と同じ平面に戻ってくるあの感覚のためなのか



今の生活が終わり、頭の中だけにしか存在しなくなった時、それを読み返すとどんな気持ちになるのだろうか

 ルソーさん(J.J. Rousseau, 1712-1778)は自らの思索の跡を人生の最終章で振り返ることを楽しみにしていた

その願いは叶わなかったが、ルソーさんの思いはわかるような気がする