samedi 30 avril 2011

蜂谷道彦という医者 L'Histoire de Dr. Michihiko Hachiya



昨日は、用事を済ますために街に出る。途中、プレスに入ると Science & Vie という科学雑誌が目に留まる。日本の原発事故の特集で、そこで一体何が起こったのかから始まり、原子炉と放射能の科学、チェルノブイリの教訓、原発事故の歴史などが詳しく出ているので、参考書代わりに手に入れる。早速カフェで目を通すと、最後にこの方の日記が紹介されていた。

蜂谷道彦 (1903-1980) (岡山医療ガイド、2006.9.6

まず、ご本人の紹介に使われている冒頭の写真が一世代前の夫婦の姿を彷彿とさせ、懐かしさが襲う。蜂谷氏は広島逓信病院院長で現役を終えられた方。日記は1945年8月6日の生々しい記述から始まり、9月30日で終わっている。この雑誌で10ページほどで、抄訳とはいえ当時の様子が鮮明に浮き上がってくる。記事によると、当時この日記の出版は抑えられていて、ご本人は日記が日の目を見ることはないと思っていたようだ。1951年に朝日新聞社から出版。その後、アメリカ、フランスなどでも翻訳されている。半世紀を経てもその人間的、科学的な力は色褪せることはないと紹介されている。注によると、この内容は1955年10月号と2005年8月号の Science & Vie 誌でも取り上げられている。













vendredi 29 avril 2011

マセナ・ヴィラでフリードリヒを発見



Falaises de craie sur l'île de Rügen
(1818)


ニース最終日。メサナ美術館の入場券をもらうためにブティックに立ち寄った。少しだけ本が置いてあったので覗いてから入ることにした。そこでカスパー・ダーヴィト・フリードリヒCaspar David Friedrich, 1774-1840)というドイツの画家の小さな画集が目に入った。ニーチェつながりではないと思う。氷のような白さとこの絵の中の物語に惹かれたようだ。彼らはそこで一体何をしているのだろうか。そんな不思議な感覚が襲っていた。



Le peintre Caspar David Friedrich
(1809-1809)
de Gerhard von Kügelgen


そして裏表紙がフリードリヒの友人、ゲルハルト・フォン・キューゲルゲン (Gerhard von Kügelgen, 1772-1820) の手になるフリードリヒであった。若き日のこととはいえ、何という挑戦的な面構えをしていることだろう。早速、中を見ることにした。



Caspar David Friedrich dans son atelier
(1819)
de Georg Friedrich Kersting


最初に出てきたのが、こちらも友人のゲオルク・フリードリヒ・ケルスティング(Georg Friedrich Kersting, 1785–1847) が描くフリードリヒである。あっさりとしたアトリエで、あっさりしたパレットを持ち、何を思うフリードリヒという感じで、一気に親しみが湧く。



Sur le voilier
(vers 1819)




La lune s'élève au-dessus de la mer
(vers 1822)


ここに描かれた人間は一体どんな会話をしているのか。
あるいは、そこには沈黙が流れているだけのか。



Le voyageur au-dessus de la mer de nuages
(vers 1818)


そして、この男は何を思うのか。この絵にはどういう意味があるのか。どこかで見たウィリアム・ブレイク(1757-1827)にも似たような構図があったような記憶もあるが、当てにならない。とにかく、どの絵にも何か一言差し挟みたくなるのだ。そして、風景もよい。



Prairies près de Greifswald
(vers 1822)




L'abbaye dans la forêt de chênes
(1809)




Nuages passant
(vers 1820)




L'entrée du cimetière
(1825)




Paysage de montagne avec arc-en-ciel
(vers 1810)




Autoportrait
(1800)


思わぬところから現れたこの画家のことを少し調べてみたい。
そんな気分でニースから帰ってきた。


jeudi 28 avril 2011

ニース美術館とマセナ美術館にて




昨夜遅く、ニースから無事パリに到着。今日はニースの残り香の中で、パリの日常に戻る気にならない。意外な効果を齎しているのに驚いている。ヨーロッパの魅力にはいろいろあるだろうが、今回確認したのは「旧市街」と「広場」と「カフェ」の3つであった。

昨日はニース美術館とマセナ美術館を訪問。まずニース美術館(Musée des Beaux-Arts de Nice)に向かった。予想に反して、こちらも坂道が待っていた。ただ、マティス美術館ほどではなくホッとする。1階を見終わり、2階に上がると懐かしい顔が現れた。ジュール・バスティアン・ルパージュ(Jules Bastien-Lepage, 1848-1884)の3人の家族である。オルセーから譲り受けたのか、一時的なのかはわからないが、こんなところにいたのか、という思いで暫し眺める。



Portrait de « mon grand-père » (1874)




Portrait de la mère de l'artiste (1877)




Portrait du père de l'artiste (1877)


また、ニースでも暮らしたことのあるラウル・デュフィRaoul Dufy, 1877-1953)の作品が30点くらい展示されていたのも嬉しい出遭いであった。比較的こじんまりした美術館であったが、2時間ほど時を忘れる。

ジュール・バスティアン・ルパージュ Jules Bastien-Lepage (2008-06-14)




それから坂を下り、海岸沿いのイギリス人通りPromenade des Anglais)を散策。デジュネも地中海を眺めながら簡単に済ます。イギリス人の散歩道沿いにあるマセナ・ヴィラ (Villa Masséna) の中のマセナ美術館へ。予想もしなかったことに、古いニースの姿を写真と絵画を見ることができた。



Nice vue de la pointe du Lazaret
(François Bensa, 1811-1895)




Nice vue de la hauter des Baumettes
(Paul Guigou, 1834-1871)




Promenade des Anglais
(Emmanuel Costa, 1833-1913)





途中、日本人と思われる女性が、これは昔のニースの本当の姿ですか、と英語で尋ねてきた。展示品をじっくり見たがよくわからず、こんなんであれば面白いという思いで、おそらくそうではないかと答える。

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samdi 30 avril 2011 

パリに戻り、前ブログAVFPで取り上げたビデオ 「ニーチェの哲学人生」 を見直したところ、上の景色が写真で現れた。ニーチェが生きた19世紀末のニースの海はこんな姿をしていたことがわかる。






André Masséna
(1758 à Nice-1817 à Paris)





mercredi 27 avril 2011

市役所、そしてシャガール、マティス、考古学美術館の外巡り、さらにニーチェのユートピア



どういうわけだろう。朝起きると再びあの同じ坂を上る気がしなくなっている。一つにはそれが仕事のように感じられることだ。即興性を大切にしている身としてはよく理解できる。もう一つはシャガールもマティスにしてもそれぞれ青森とパリで見ていることを思い出したことである。

シャガール 「アレコ」 とアメリカ亡命時代 CHAGALL ET ALEKO (2006-08-19)
ルクセンブルグ美術館 - MATISSE: UNE SECONDE VIE (2005-06-27)

今どうしても、という気分ではなくなった。体力があればどうということもないのだろうが、最終日なので汗をかかないで済ませたいということかもしれない。ということで、ここでは心浮き立つニース市役所と昨日の美術館周辺を振り返っておきたい。



















よい社会、正しい社会とは。共感と共有と感動とから適度な距離を取り、力を弄ぶことも感情の棄損もない関係や愛の活力と友愛を維持し、差異と多様性と意見の交換を尊重する共同体。ニーチェはニースに来てからそれまでに考えていたユートピアに目覚める。それは共感を持つ人たちを集めて自分のコロニーで自らの哲学を教えるというもの。ニースはヨーロッパのどこにもない光に溢れ、隠遁者の求めを満たすに充分な広さが安く手に入る。そこでヘレネス(Hellènes)の新しいアカデミーの建設を夢見ていた。古代ギリシャのエピクロスのジャルダンを彷彿とさせるユートピアである。



mardi 26 avril 2011

静かに坂を上り、古代ローマと1世紀前のニースの地震を想う



昨日、一昨日と薄曇りだったが、本日は快晴。前日その前を通った時、近くの年寄り連中が集まり元気よく話し込んでいる雰囲気のあるモーツアルト・カフェに入る。今日はシャガールとマティスの美術館を目指すことにした。地図ではわからなかったが、緩やかな上り坂がどこまでも続く。シャガール美術館は後ろ手から入ったせいか、なかなか正面が見えてこない。入口に着いた時、火曜は休館であることを知る。いやな予感を抱えながら、マティス美術館へとさらに上る。結構歩いたつもりだったが20分程度だろうか。汗びっしょりになり美術館のある敷地に辿り着いた。






入るとマイルス・デイヴィスの道(Allée Miles Davis)があり、嬉しくなる。さらに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の胸像やディジー・ガレスピー(1917-1993)、デューク・エリントン(1899-1974)、バーニー・ウィレン(Barney Wilen; 1937, Nice-1996, Paris)の道もある。後年、ジャズをテーマに作品を作っているマティスに相応しい計らいだ。奥には修道院と庭園があり、暫しの時間を過ごす。それから美術館に向かったが、やはり火曜はお休み。パリは月曜が休みだったので、確かめることなくそう決めてかかっていた。このすぐ横にはローマ時代の遺跡もある考古学博物館がある。明日のお楽しみにとっておきたい。単に安上がりだけの理由だったが、明日の最終便で帰ることにしたのは正解であった。



公園を歩いていると彼らに出会った。
何の気負いもなく、囁くように歌い始める。
まるで自分に向かって歌っているかのように。
決して声を張り上げない。
彼らは一体何のためにやっているのだろうか。
どういう関係なのだろうか。




帰りは下りなので気分は楽である。上りとは違う道で下りる。途中この眺めのプレスとカフェが一緒になった小さな店に入る。久しぶりにシガーをやりたくなった。そういう気分にさせるゆったり感がある。親爺さんにここはシミエ(Cimiez)ですか、と聞くと、この辺りはローマ時代からの土地で、上には博物館もあると教えてくれる。2千年の時間がその辺りに横たわっているようで、気分が大きくなる。シガーの終わる1時間ほど休んで街に下りたが、そこにあった近代・現代美術館(MAMAC)ももちろんお休み。日陰に入ってドイツビールで喉を潤す。そこはニーチェのアパートのある道の入り口に当たるが、店の人は一人もニーチェのことは知らなかった。ホテルでも聞いてみたが、この町に長く暮したマティスとは違い、ニーチェの名前には反応しなかった。哲学軽視の現代の反映なのだろうか。





ところで、「ニースのニーチェ」 にはまだ驚きが隠されていた。一つはニーチェにとっての驚きで、何げなく本をめくっている時、それまで名前だけだったドストエフスキーがそれまでのスタンダールのような、あるいは父親のような存在として突然意味を以って彼の前に現れたことである。それからはわたしにとっても驚きだったのは、1887年2月23日(灰の水曜日)の朝6時、フランスの大地が大きく揺れたことである。町の中心街は寝ぼけ眼で飛び出した下着姿の男女、泣き叫ぶ子供、茫然自失の老人などで溢れる。ニーチェのいたところから僅か数キロ離れたところにはこの地を訪問していた作家がいて、驚いて飛び起きた。作家の名はモーパッサン(1850-1893)。地面が揺れ、建物の出す奇怪な音に激しいミストラルの音を重ねている。昨年末アヴィニョンで経験しているので、その感じがよくわかる。2000人ほどの犠牲者が出たとも言われているが、ニースでは少なかったようだ。モーパッサンは書いている。

「この奇妙な現象はわれわれの中に特別な感情を残したようだ。事故に遭った時の恐怖とも違う、人間が不安定で無力な存在であるという痛いほどの感覚である。戦争に対しては武力があり、病気に対しては有効かどうかは別にして医者がいる。しかし、地震に対しては手の施しようがないのだ。理屈よりは事実そのものによりこの確信が生れるのである」

このような時に大切なのは、言うまでもなく家と寝るところである。自分の家に戻れないことは、人間を著しく傷つけ、新たな予想もしない不安に陥れるものである。ニーチェが 「ツァラツストラ」 を書いた場所は完全に破壊されたという。


lundi 25 avril 2011

ニーチェのニース



ホテルはロッシーニ通りにあった。この界隈は、Quartier des Musiciens (音楽家街)と呼ばれていることを初日の夜に入ったレストランのマスターに教えてもらう。例えば、ベルリオーズ通り、グノー通り、ヴェルディ通り、パガニーニ通り、ジャック・イベール公園、モーツアルトなど作曲家の名前の付いたカフェ、さらにベートーベンやビゼーの名前が付いたアパートなどがあり、なぜか心が浮き立つ。そして、ニースに来る車内で読んだ 「ニースのニーチェ」 でロッシーニ通りがニーチェ(1844-1900)と深い関係があったことを知り驚く。



Nietzsche à Nice de Patrick Mauriès


ニーチェはその生涯に5回だけニースに滞在している。

 1883年12月2日~1884年2月1日
 1884年12月8日~1885年4月8日
 1885年11月11日~1886年5月初め
 1886年10月22日~1887年4月2日
 1887年10月22日~1888年4月2日


冬の半年間をこの地の太陽と空気の下で過ごし、「ツァラツストラ」 や 「善悪の彼岸」 の一部を書いた。「ニースのニーチェ」 には彼の日課が出てくる。朝6時半に起きると紅茶とラスク (biscotte) を味わい、Le Journal des débats に目を通す。それから酷く着古した黒のコートを着て、ロンシャン通り(現在のヴィクトル・ユーゴー通り)、フランス通り、マセナ通りへと足を伸ばす。朝1時間、午後には3時間早足で、同じ道を来る日も来る日も。時に、ニーチェが 「わたしのサン・ジャン岬」 と言う Saint-Jean-Cap-Ferrat まで足を伸ばしたというが、著者も半信半疑だ。正午に朝食で、夕食は夜6時。ワイン、ビール、スピリッツ、コーヒーなどは一切なし。夕食後、サロンでイギリス人と9時まで時を過ごすというもの。昨日と今日、ニーチェになったつもりで彼の散策路を歩いてみた。快適である。滞在中に 「わたしの岬」 も見てみたいという思いも一瞬浮かんだが、大変そうだ。

 ニース近郊の地図

1883年12月2日、病気がちだったイタリアはジェノヴァでの滞在から健康と活力の回復を願い、ニースに到着した。そして、セギュラーヌ通り38番地(38 rue Catherine Ségurane)の2階に25フランで入る。しかし、ストーブもなく、サービスも酷いので別のところに移った後、1884年2月1日にサン・テティエンヌ通り(rue Saint-Etienne)のジュネーヴ・ペンション(Pension de Genève)に落ち着くことになった。何とこの通りが現在のロッシーニ通りだという。5年に亘るニース滞在中、ここを離れることはほとんどなかった。こんな繋がりになっていようとは、予想もできなかった。ニーチェはオペラによく通っていたが、その並びのサン・フランソワ・ド・ポール通り26番地(26 rue Saint-François de Paule)の3階左手の部屋もゆかりの場所だと書かれている。早速当たってみることにした。

最初の住まいはその通りを探すまで手間取った。しかし、ガリバルディ広場 (Place Garibaldi) から入ると最後のところにプレートが現れてくれた。人通りも少ない静かな場所だ。この本を読んでいなければ、おそらく訪れることもなかっただろう。この建物はこのプレートが付けられる1905年に建て替えられたもの。しばらく周辺を散策。わたしの後に通りかかった2人組がやはり写真を撮っていた。それからサン・フランソワ・ド・ポール通り26番地の方はすぐに見つかったが、ニーチェとの関係を示すものは何もない。皮肉にも隣は不動産屋が入っていた。



rue Catherine Ségurane, Nice




38 rue Catherine Ségurane, Nice









26 rue Saint-François de Paule, Nice


丘の上にある城跡公園にニーチェに因んだ展望台(Belvédère)があるとの記載があったので、探しに出掛けた。目の前にあっても気付かない今日この 頃のこと、2時間ほどの散策にも拘らず成果はなかった。その代わり、急な登りで汗だくになりながら、素晴らしい眺めと至るところにあるモザイク作品を味わ う印象に残る時間が待っていた。















「ユリシーズのように素晴らしい旅をした者は幸いなり」


最初は気付かずに通り過ぎ、帰りに離れて見てハッとした。ハンモックで5年前に触れ、昨年蘇ったばかりなので3度目になる。ジョアシャン・デュ・ベレーJoachim du Bellay, 1522-1560) の詩の一節である。

ユリシーズのようによい旅をした者は幸せなり HEUREUX QUI COMME ULYSSE ... (2006-07-02)
フランス語を少しずつ、そしてデュ・ベレーが蘇る  Joachim du Bellay (2010-03-08) こちらの記事に原文と翻訳がある。