mercredi 31 juillet 2013

久し振りの現世


昨日、オーブンのスイッチを入れた途端にすべての電気がどこかに飛んでいった

やれやれ、という感じで修理屋さんに電話すると、それはEDFだという

EDFを調べてもそんなサービスはなさそうだし、第一すぐには対応してくれそうにない

ということで、別の修理屋さんに電話

1時間以内に来るとのことで期待して待っていたが来ない

痺れを切らして3軒目に電話、こちらはすぐに人を送るという

2軒目をキャンセルしなければと思ったところにそこの人が2人も顔を出したのだ

かなりお高いのではないかとも思ったが、済ませたい気分の方が強くやってもらうことにした

10分くらいで作業は終わったところまではよかったが、悪夢は支払いをしている時に起った

何と3軒目の人が今到着して入口にいるという電話

ダブルブッキングでこちらにも出張料を支払う羽目に

とんだ出費となった


ところで、催促の電話などを何度もかけている時、久しぶりに現世に出てきたような気分になる

如何せん動きが鈍っていたようだ

 そして、すべてが終わると何事もなかったかのように再び沈んでいった

このところ、微妙なタイミングで悪夢が襲っている

針の穴を通すようなタイミングで素晴らしいことでも起こらないものだろうか




dimanche 28 juillet 2013

第6回サイファイ・カフェ SHEでは 「腸内細菌を哲学する」


The Sixth Sci-Phi Cafe SHE (Science & Human Existence)   

テーマ: 「腸内細菌を哲学する」   

 2013年9月10日(火)、11日(水) 18:20-20:00 

いずれも同じ内容です  


SHEの趣旨と今回の内容
こ の世界を理解するために、人類は古くから神話、宗教、日常の常識などを用いて きました。しかし、それとは一線を画す方法として科学を編み出し ました。この試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかについて、毎回一つのテーマに絞り、振り返ります。そこでは、目に見 える科学の成果だけではな く、その背後にどのような歴史や哲学があるのかという点にも注目し、新しい視点を模索します。このような 営みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指すスパンの 長い歩みをイメージしています。
今回は、われわれと共に 存在し、進化の過程を共にしてきた微生物について考えま す。最近の研究から、われわれの中に存在する体の細胞の10倍の数の微生物は、消化・ 吸収、代謝、免疫のみならず精神活動などの生理機能に不可欠な役割を担ってい ることが明らかにされつつあります。この結果は、われわれは閉じた自律的存在ではなく、外に開かれたエコシステムであることを示唆しています。「彼ら」の 存在は、「われわれ人間 」、「生物学的個体」、「オーガニズム」の意味するところを改めて問い掛 けてきます。これらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が30分ほど話した後、約 1 時間に亘って意見交換 していただき、懇親会においても継続する予定です。
会 場
カルフールC会議室

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 
恵比寿MFビルB1 
電話: 03-3445-5223
   
参 加 費  
一般の方: 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます) 
大学生: 無料(飲み物代は別になります)   

終了後、参加者の更なる意見交換の場として懇親会を開く予定です。 

参加をご希望の方は、希望日と懇親会参加の有無を添えて 
she.yakura@gmail.comまでお知らせいただければ幸いです。





mardi 23 juillet 2013

要注意! 鍵二題


この暑い中、何でそうなるの、ということが続いた

先日のこと、外から帰ってきてアパルトマンの鍵を開けた

そこまではよかったが、その鍵が抜けないのだ

いろいろ手を尽くしたが、効果なし

業者に電話しようとして、その前にもう一度やったところ、やっと抜けてくれた

翌日、状態を確かめるために試してみたところ、抜けない

ランデブーの前だったので迷わず電話した

電話が通じるかどうか不安であったが、すぐに出てくれ、すぐに来るという

あまり期待しないで待っていたところ、予想外の対応で驚く

鍵そのものを交換して、ランデブーをキャンセルせずに済んだ

あそこで試していなければ、その夜は締め出された可能性がある


そして本日

近くの公園が新しくなり、周りを高い柵で囲い、施錠をするようになった

その公園の入口が開いているので、そこを横切って帰ろうとして公園の中に入った

しかし、出口が閉まっている

徐に戻ると、入ったばかりの入口も閉まっているのだ

完全に柵の中に閉じ込められてしまった

そう言えば、公園を横切っている時、入口に戻る若者を何人か見かけた

この暑い夜をこんなところで明かすのは御免だと思い、何とか方法を考える

歩き回ると柵が少し低くなり、土が盛り上がったところに配管のためなのか箱状のものが置いてある

ここであれば、わたしの体でも何とか越えられるのではないか思い、荷物を外に落としてから試みた

 筋力の衰えと体が硬くなっていることを確認しながら、何とか脱出することができた

外に出て分かったことだが、ウィークデーは夜8時で施錠するとのこと

8時少し前に入って、少し過ぎに入口に向かったことになる

針の穴を通すようなタイミングであった

こんなことが起こるのである

これとは反対に、絶妙のタイミングで素晴らしいことだって起こるかもしれない

まだ経験していないようだが

いずれにせよ、いくらフランスでも施錠する人は中に人がいるのかどうか確かめないのだろうか


不思議なことだが、こんな状況でも心は完全に凪のままなのだ

こちらに来てからの顕著な変化である

何事もなかったかのように帰ってきた




lundi 22 juillet 2013

ツール・ド・フランス、そしてパリの夜空


昨日は日本からのお客様にパリを案内していただいた

庵の生活が長くなると、パリ市内で何が進行しているのかさっぱりわからない

昨日はツール・ド・フランスの最終日だという

これまで一度も観たことがなかったので、ゴール付近のシャンゼリゼまで出ることにした


それにしても相変わらず暑い日であった

選手たちが来るかなり前からお客さんが沿道を埋めている

カフェレストランで食事をしてから沿道に向かった

しばらくすると、選手の一団が地響きのする何とも言えない音とともに通り過ぎた

最初に通り過ぎた時、そのスピードと姿と音に形容し難い何かを感じた

血が踊るとでも言えばよいのだろうか

そこにいて、全身で感じ取るだけでよいのだ

そして、しばらく沿道を歩いていると、突然もの凄い音とともに冒頭の景色が現れた

何とか写真に収めることができた

こちらもどこかを刺激する危険な音である





あの音と景色に慣れてきたところでシャンゼリゼを後にした

バトー・ムーシュでパリの景色を味わい直すためである

こちらも初めての経験になる

予想外だったのは、満月が非常に美しかったこと

そして、わたしのカメラがその姿をこれまでにない形と色で捉えてくれたことである

本当に驚いた






不思議な景色に出遭うことになる旅であった

こんなことが起こるのである

ご招待いただき、ありがとうございました




jeudi 18 juillet 2013

イムレ・ケルテースさん、文学と哲学を語る


それにしても暑い日が続いている

連日30℃を超えているのではないだろうか

何かに集中しようという気分ではなくなる


ところで、先日モンペリエからパリに戻る車中、哲学雑誌をぱらぱらとやりながら時を眺めていた

そこでハンガリー出身のノーベル賞作家イルレ・ケルテース(Imre Kertész 1929- )さんのインタビューを発見

84歳でパーキンソン病が進行中、最後のインタビューになるのではないかとある

この作家のことを知ったのは、今年に入ってからではないかと思う

1944年にアウシュヴィッツに送られ、そこからブーヘンヴァルトに移され1945年に解放される

戦後は共産主義下のハンガリーという難しい状況で作家活動を始める

ニーチェウィトゲンシュタインなどのドイツ語をハンガリー語に訳し、カミュサルトルを読む

インタビューでは文学と哲学などを中心に語っている

以下、印象に残ったところを少しだけ


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ブーヘンヴァルトからブダペストに戻った時は15歳、身内はすべて消えていた

1948年から共産党が権力につき、翌年には全体主義の政策を始める

ジャーナリストの職に就くが、党の方針を伝えるだけの仕事には興味なく、首になる

そのため自由な時間がたっぷりあり、散策し、省察した

これが普通の状態では想像できない贅沢であることを意識していた


1950年代後半から1年を二つに分ける生活を始めた

6ヶ月は役者仲間と公演して歩き回り、残りの6ヶ月は哲学書を読むことに打ち込んだ

プラトンに始まり現代に至るまで、すべての古典を読み始めた

それは省察をしたかったが、そのやり方を知らなかったからだ

省察することは難しい

単に考えるだけでは不充分で、考える対象を見つけなければならない

その対象として、わたしの場合は古典を選んだ

ある意味では、省察するということは人間を超える技術である


ウィトゲンシュタインから学んだことがある

それは、個人的な経験などないということ

なぜなら、われわれが考え、表現する言葉は他の人から来たものだからだ

わたしが「わたし」という時には、「彼」、「彼女」を含んでいる

わたしがイムレ・ケルテースと名乗ることは侵すべからざる真理ではなく、習慣にしか過ぎない


1957年5月、ブダペストのサロン・デュ・リーヴルでカミュを発見した

27歳の時のこと

そこで『異邦人』を読み、打ちのめされた

その本は、文字通り手の中で爆発したのだ

その時、わたしに欠けているのは自由だと確信した

この本により、真の文学とは自由の激しい感情を呼び覚ますものであることを理解した



もう一人同じような影響を与えた作家がいる

トーマス・マンである

彼の『ヴェニスに死す』は衝撃であった

カミュが憑かれたような若者だったのに対し、マンは静かに智慧を語る教授であった

カミュが生命を語ったのに対し、マンは博識の泉であった

 カミュとマンの共通点は作家・哲学者だと言われるが、わたしはその範疇には入らない


一人ひとりの人間は、一つのフィクションである

われわれは、われわれ自身のフィクションに浸りながら生きている

個人はその言葉の中で、言葉を通り抜けて作られる

浮かんでくる一つひとつの考えが、新たなフィクションを立ち現わす

その事実は、われわれの創造の衝動を刺激する

他方、この状態は重く、悲劇的なものでさえある

歴史は第二次大戦を見るまでもなく、悲劇的であった

しかし、わたしのようにそこを生き延び、書き続けてきた者がいる

それは決して閉じられることのない大きな裂け目なのである




mercredi 17 juillet 2013

西田幾多郎の「うよく」、あるいは 「この方の心には翼が・・・」


パリも結構暑い日が続いている

ボーっとした頭の中は、モンペリエのままである

ただ、夕方になると涼しい風がどこからともなく吹いてくる

が、その頃には疲れている

ということで、今日は日本語の本を持って出掛けた


西田幾多郎についての本を読んでいる時、発見があった

それが、今日のタイトルである

西田が人生で最も気持ちよく過ごした時代だと回想する四高時代

そこでは仲間と大いに羽を伸ばしていたようで、その放埓ぶりを見た教師がこう語ったという

「彼等には翼あるものなり」

ここから西田は「有翼」と自ら名乗り、「我尊会」と名付けた会に多くの文章を書いていた


このエピソードを読み、一つの記憶が蘇ってきた

こちらに渡る2007年の春

最後の学会発表で東北大学のT教授が座長をされた

そして、わたしの紹介の中で突然同じような言葉が出てきたのである

 「この先生の心には翼が生えておりまして・・・」

詩心など持ち合わせているようにはお見受けしなかったため、不意打ちを食らったようで若干動揺

そして、一瞬だが体が浮き上がるような感覚が襲ってきたことがあった

わたしの翼は血気盛んな時代の西田の翼とは違うと思いたい

しかし、表現型には違いはあるかもしれないが、根のところでは繋がるものがあるようにも見える


「みじめな」帝国大学選科時代、ケーベル(Raphael von Koeber, 1848-1923)教授と考えが合わなかった

西田は生きることに繋がっていない哲学、自らの思惟を重視しない哲学には価値を見ていなかったからである

ただ、ケーベル先生の「哲学者は煙草を吸うべし」 という助言だけは受け入れたようだ



dimanche 14 juillet 2013

連載エッセイ第6回 「クラーク精神から近代科学の受容の背後にあるものを考える」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第6回エッセイを紹介いたします

医学のあゆみ (2012.7.14) 242 (2): 213-216, 2012

 ご一読、ご批判いただければ幸いです



vendredi 12 juillet 2013

バンケットでの遭遇から

Prof. Marion  Blute (Univ. Toronto)


昨日も暑い日だったが、これまでに比べると凌ぎやすかった

夜、自然の中でのバンケットがあった

学会場の大学からバスで郊外の公園に向かった

飲み物を取り、テーブルを探しに歩き始めた時、どこかでお見かけした顔が現れた

トロント大学名誉教授で社会学の専門家マリオン・ブルートさんである

もう3年前になるが、カナダの学会でお会いして以来になる


その後、彼女の若き日の未発表の論文原稿などを送っていただいたこともある

最近の成果として、Darwinian Sociocultural Evolution (Cambridge UP, 2010) を紹介された

とにかく話題が豊富で、どんな話にも食付いていき、切れ味鋭く反応する

しっかりこの世界を観ていて、皮肉あり、辛辣さありで話していて飽きない

そのテンポの速さに付いていけないこともある

今は好きなことを好きな時にやればいいのよ、天国!

その気持ちがよくわかるようになって久しい

お年を感じさせない知性である


ところで、わたしは科学をやってきたので、科学では見えない世界に興味があるのだが、と水を向けてみた

形而上学的世界にどう反応するのか興味があったからだ

その返事は、そんなもの相手にして時間の無駄ではないですか、というニュアンスで肩を上げた

われわれはみんな唯物論者なの、ということで、予想通りの返答であった


 Marion さんと Julie-Anne Gandier (Univ. Toronto) さん


テーブルではお若い女性が待っていた

同じトロント大学で科学の大学院3年目だが、ブルートさんとは初対面

ワインの影響下にあったが、構造生物学の専攻と記憶している

カナダでは稀でない英語とフランス語のバイリンガルである

お話を伺っていると、わたしの精神遍歴と似ているのに驚く

これからは科学と哲学を絡める方向性を考えていて、可能であれば哲学を並行して学びたいという

本来は哲学に進みたかったようだが、親の希望もあり科学に入ったが、ここに来てそれが蘇ってきたとのこと

自分をしっかり見つめ、真面目に人生に向き合っていて好感が持てる

その語りは鋭いのだが、どこか余裕と愛嬌と若干の皮肉がある

 しっかりとした若者が育っていることを感じる

気持ちの良い出遭いとなった


この夜、お二人のカナダ人の話を聞き、普段の語彙の中には入っていない 皮肉という言葉が浮かんできた

大きな強い国の隣にいると自然に生まれてくる特徴なのだろうか

カナダについてそんな考えが浮かんだのは初めてのことである

その昔、ハンガリーであった会議のバンケットで旧東ドイツ出身の科学者と席が隣りになったことがある

彼は、共産主義政権下での日常を強烈な皮肉を込めた笑いの中で延々と語り続けたのである

まともな頭の中ではあり得ないような理不尽なことが、恰も正しいことのように行われている社会

それを聴き、わたしも腹を抱えて笑い続けたが、まさに悲喜劇の世界である

現代においても進行中かもしれないこの悲喜劇

皮肉というものは精神の健全さを示すものだろう

ただ、それを外に出せるようになるのは、彼の場合はすべてが終わった後であった
 


前回のカナダ訪問の時もアメリカとの違いが気になったので、ジュリー・アンさんに訊いてみた

「カナダとアメリカに違いはあるのですか」

 その答えが振るっていた

「全然違います。第一、カナダ人はアメリカ人ではないのです」

言葉も含めていろいろな違いを挙げていた

マリオンさんが指摘していた二つの大きな違いには、納得するものがあった

一つは、コミュニティを支えるような形で国が関わるかどうか

そう言えば、以前に観たマイケル・ムーア監督の『シッコ』でも医療体制が両国では雲泥の差があった


そして、二つ目は銃規制だという

相手の国の社会をしっかり見て、はっきり語る明晰さがある

カナダは住みよい国という愛国者の結論で、この話題は終わりにした


 Prof. Giovanni Boniolo (Univ. Milan)


4時間ほどのバンケットも終わり、帰りのバスに乗り込もうとしたその時、呼び止める声が聞こえた

わたしを呼び止める人などいないはずなので、再び驚く

よく見ると、先月パリであった「医学の哲学」会議(IASPM 2013)で初めてお会いしたジョヴァンニ・ボニオロさんではないか

よもやこんなところで、という感じだった

彼も理論物理学から始めて哲学に入っているので、考え方の方向性が似ている

その基本は、純理論に流れることなく、科学の方を向いて仕事をしていることだろうか

そのため、意気が合うのである

そして、葉巻をやられることは今回初めて知った


長い一日であった

そして、長かった会議も今日で終わる




mercredi 10 juillet 2013

猛暑のモンペリエ、思考法の体得について考える


密な話が詰まっている会議も4日目を迎えた

暑さの中、疲れが溜まっているようだ

会のお話に飽きた時、周囲を見回して新鮮に見えるものを探す

今日は上を見上げるとこの景色があり、美しいと感じた

写真にすると、その感動は薄れてしまうのだが、、、


ところで、昨日のコーヒー・ブレイクでのこと

向こうの方から笑顔で近づいてくる人がいる

このような会では、基本的に知り合いはいないというのがわたしの常識になっているので、驚く

2年ほど前にパリの研究所でセミナーをされた方で、わたしもディスカッションに加わったので覚えていたのだろう

ご出身はポーランドで、セミナー時の所属はミラノだった

今日の朝のセッションで話すので、聞きに来てほしいとのことだった

抄録集を見て驚いたが、今は中国の大学で教育・研究をしているという

生活に困らないか訊いてみたが、大学内では皆さん英語を話すので問題ないとのこと

街中では問題はあるのだろうが、、

同じセッションで話をしていた女性はインド出身で今は韓国、もう一人はフランス人でパリ、イギリスを経て今はジュネーブ

人がダイナミックに動いているのを見るのは、気持ちがよい 



アジアに入ってきている外国人研究者を見て、いろいろな考えが巡っていた

彼らの話を聞いていると、日本人の思考と明らかに違うことに気付く

 それは、一つの理論、あるいは大きな枠組みの中で個別の現象を説明しようとする精神の働きが顕著なことである

そのような発想をする日本人は極めて少なく、われわれが苦手とするところである

 個別の現象を並べているだけでは、彼らとの議論にはならないだろう

現象の上にあるレベルでの議論になるからである

確かに、日本的な発想には特徴的な要素があり、その重要性は否定できない

ただ、世界の人が一つに集まる場では、彼らの思考様式の下に進めなければ議論に参加できない

その意味では、若い時にそのような考え方を彼らから直に学ぶ機会が必要になるだろう

今、若い人が外に出たがらないということを聞いている

日本人の存在感を高めるためには残念なことである

外国語の習得というレベルではなく、彼らの思考法に触れ、使うという点で

そのような日本であれば、大学が積極的に外国人を登用することは無駄ではないだろう

今回、欧米で教育を受けたと思われる若手日本人の発表も聞いたが、彼らは全く問題なく「こと」を進めていた

日本的な発想を捨てるのではなく、その上に西欧の思考法を持ち込むこと

それができると、彼らの世界に新たな風を吹き込むことも不可能ではないだろう

この問題についてはもう少し深める必要はあるが、大きな方向性に関しては変わらないような気がしている



午前のセッションが終わり、街中に出るべく急な坂道を登り始めた

暫くして不思議な気配を感じ取り、戻ってみるとこの景色

熱にやられボーっとした頭が、普段は見逃すものを捉えることがある、、、ということだろうか

今回の会議のピークは早い時期に過ぎたという感覚がどこかにある




mardi 9 juillet 2013

ずいぶん遠くに来たものだ


昨日の会話の中で、タウバーさんの口を衝いて出た言葉を思い出し、今日のタイトルにした

ご自身はボストンで長く研究され、わたしは若い時にボストンで2年ほど過ごして今パリにいるからだろう

それと、対象としている領域が大きく変わっていることも重なっているはずである


実はこのように言われたことは、これが最初ではない

大学院時代の研究領域から何度か領域を変えているからだと思う

同じ言葉を聞いたのは、最後の研究領域にいた時のこと

大学院時代は同じ領域で研究し、その時には領域の主になっていた先生と新幹線でばったり顔を合わせた

そして、わたしの現況を話したところ、この言葉が返ってきたのである


それから、研究する場所も何度か変わっている

その都度、研究内容も変わっていたようで、新しい領域の皆さんにとっては新顔になる

そのため、以前はあそこにいたのですか、と驚きの反応が返ってきたことがある

ある意味では、何度か生まれ変わっていたと言えるのかもしれない

今はおそらく、これまでにない変容の時と言ってよいのだろう

外から見た時には

しかし、これまでがそうであるように、自分の中では自然な流れなので、それほどの意識はないのだが、、、






lundi 8 juillet 2013

もう一つの再会、あるいは米仏思考比較と貴重なサジェスチョン


会議は2日目を迎えた

それにしても大変な時に来てしまった

本日も快晴で、35℃を超えたとのこと

予報では連日この調子のようだ

それでなくてもボーっとした頭の中が、熱のため完全にやられっぱなしになるのだろうか

ヴァカンスで来るところのようである


ところで、朝のコーヒー・ブレイクでアルフレッド・タウバー(Alfred Tauber, 1947-)さんと話ができた

こちらに来た翌年の2008年、パスツール研であったメチニコフ・シンポジウムで初めてお会いした

その後、イスラエルの学会で再会し、似たような経歴の人間に興味をお持ちのようであった

タウバーさんは免疫学の研究をしている最中に哲学を始めているので、大先輩になる

わたしの方は、その世界は視野に入っていなかったか、視野から排除していた

ボストン大学を3年前に退職した後も研究を続けているエネルギッシュな方である

 自己・非自己の科学からフロイトに興味が移ったとのことで、最近出した本を紹介された

Freud, the Reluctant Philosopher (Princeton University Press, 2010)

 年内にもう一冊予定されているとのことであった



会話は実に面白い方向に進んだ

まず、わたしの姿を見て、まだここにいたのかという感じで、それはどうしてなのかと訊いてきた

フランスの空気に感じる自由なところが居心地がよいのではないか、というような答えをした

そして、うまく言えないが、その自由はアメリカとは少し違うように感じていると付け加えた

そうしたら、そこのところをどうしても説明してくれ、という

それに対しては、留学についての対談でも触れたように、枠のあるなしでその自由さの違いを説明した

つまり、アメリカの場合には、最初に大枠が決まっていて、その中では自由に考えることができる

その大枠は、具体的な成果を齎すことを前提に作られたものである

役に立たないものを最初から排除する思考になる

それに対して、フランスで感じたのは、その枠さえもない完全にフラットなところから考え始める自由であった

科学を進める上では、アメリカ的な思考がより有効になるだろう

しかし、科学では説明できない領域に入って行こうとする時には、目的に向かう思考は邪魔になる

わたしの場合には、すでに科学をやっているので後者の思考に興味があったから、というような答えをした

フランスの場合には、後者の思考により寛容であるように見えたのである

アメリカ的世界ではその曖昧な領域が捨象され、存在しないものとして扱われているように感じるのである

 それに対しては反論はなく、黙って聞いてくれていた

それほど的を外していないのか、儀礼的な沈黙であったのか


それから、話題はわたしの研究の現状に入って行った

大枠を説明したところ、わたしの性向などを考慮に入れた実に興味深いサジェスチョンをいただいた

ひょっとすると、この出遭いのためにモンペリエまで出向くことにしたのではないか

そんないつもの思考回路が回っていた


今は炎天下の白昼夢でないことを願うばかりである




dimanche 7 juillet 2013

会議初日でいくつかの再会


今朝はゆっくりと一日を始める

午後からホテルを出て歩き始めたが、とにかく暑く、汗が噴き出してくる

今見たところ、35℃になっていたようだ

近くの公園でゆっくりしてから会場になっているモンペリエ第1大学に向かった

マスターの時に一緒だった何人かに受付で会う

開会講演ではモンペリエの医学について歴史的な話が出ていた

3年前の経験をもとにモンペリエの生気論についてエッセイも書いているので、不思議な繋がりを感じる

 


会が始まる前、バルテ(Paul-Joseph Barthez, 1734-1806)さんとの再会を果たす

今回は、その人間が浮き立ってくるように感じられた

カクテルは、1593年開園のヨーロッパで2番目に古いとされる植物園で行われた

そこで、モンペリエ大学ポール・ヴァレリーのパスカル・ヌヴェル(Pascal Nouvel)さんと再会

パスカルさんとは3年前の会で初めてお会いし、上のエッセイでも取り上げた方になる

モンペリエ2日目  (2010-06-19)

今回のオーガナイザーもされている

そこにパリの研究所を引退された方も加わり 、気持ちの良い会話ができた

その方が指摘していたアメリカとフランスの自由の違いは、わたしが感じているところと通じるもので、嬉しくなる

また、もう70歳になる人について、彼女は esprit clair だから、という表現で評価していたのが印象に残った

その意味するところも次第に分かりつつあるように感じている






samedi 6 juillet 2013

モンペリエ到着


今日は久し振りの快晴で、兎に角暑い日であった

3年振りのリヨン駅に着くと、新しくなった構内はこの景色

完全にヴァカンスの空気が流れている

生物学の歴史、哲学、社会学に関する国際会議の様子を見るため、先ほどモンペリエに着いた

もう3年前になるが、「医学の倫理」に関する国内会議のために訪れ、多くの出会いがあって以来になる

前ブログに、その記録が残っている(モンペリエ


今回の会議はこの領域のメインになるようだが、最後まで参加するかどうか決めかねていた

しかし、先日の「医学の哲学」会議でいろいろな方と話しているうちに参加に傾いた

 今回は、どのような出来事が待っているのだろうか


ところで、日本語ではモンペリエと記載されるが、フランス語ではモンプリエに近い

これまで、そう発音するのが恥ずかしかったが、もうその恥ずかしさはなくなっていた

それだけ長くなってきたということだろうか

フランス語を遅く始めたためか、フランス語らしい発音をするのがなぜか照れくさいのである

その感覚のためだろう、何とも形容し難い発音とアクセントのフランス語になっている




生きることとは何の関係もない言葉

Olivier Debré (1920-1999)


今朝、カフェでぼんやりして科学での仕事を振り返りっている時、こんな考えが浮かんできた 

先日の「言葉の中に身を詰める」ということに関連して

ここで言う言葉とは、主に日本の日常生活で使っていた言葉のことである

中身のことまで考える時間がなかったのは、ほとんどの時間を仕事に充てていたからだろう

 科学の研究で使われる言葉は、日常の出来事とはほとんど何の関係もない

その意味では、致し方なかったとも言える


このことを驚きをもって感じたのは、こちらに来て1年ほど経った時のこと

日本でやり残していた仕事を論文にまとめて投稿して、返ってきたコメントを読んだ時である

そこに並べられている言葉が生きることとは何の関係もないものばかりであることに驚いたのである

より正確には、その問題を解決することが生きることには何の関係もないという感覚だろうか

こんな言葉を相手にそれまでやってきたのかと思ったが、そのように感じたことは一度もなかった

それだからこそ、専門家なのだろう


一つの狭い領域での言葉や問いというものは、それほどまでに他の人には何の意味も持たない

それゆえ、無味乾燥な言葉や問いの翻訳が必要になるのだろう

文学作品の翻訳以上に大胆な翻訳が求められるはずである
 
そしておそらく、科学以外の素養がそこで大きな働きをすることになるのだろう




vendredi 5 juillet 2013

期日前投票終える


今日も騒音を逃れて朝から外出

都合で今日しか時間が取れない期日前投票のために日本大使館へ向かう

ひょっとすると一番乗りだったかもしれない

鉛筆と紙が擦れ合う音が響くような静けさの中、10分ほどで終わった

近くのカフェで暫く休んでから研究所へ

しかし、周囲の雰囲気に影響されやすいのか、心はヴァカンス気分

学生に戻るのは大変そうだ




jeudi 4 juillet 2013

物凄い騒音に追い出されて


朝から物凄い音がするようになってから久しい

アパルトマンの外装工事のためである

最初はペンキの塗り替え程度かと思っていたが、表層をドリルで落としているようだ

バルコンにはその断片が散乱していたが、一応掃除だけはしてくれた

これであれば、ヴァカンスを考えると11月までかかるのも理解できる

この工事のお蔭で、朝から外に出ざるを得なくなっている

アパルトマンで漫然としているよりはよいのだが、、

夜はバルコンを味わうことができるので、思ったほどのストレスにはなっていない




mercredi 3 juillet 2013

日本的なるものが押し潰されるくらいに


こちらでは、フランス語や英語は読むものの、日本語の中で考える生活をしている

この3月に帰国の折に行った留学についての対談を読み返してみると、アメリカでの経験が語られている

そこに、時間が経つにつれ、日本的なるものが脳の後ろの方に押し潰されるような感覚に陥ったとある

当時は、思考から日常に至るまで、すべてをアメリカの中での生活にしていた

ある意味で、日本から離れ、宙に浮いているような状態であった

その結果、自分の中では、考え方、言葉の発し方、冗談の言い方に至るまでアメリカ的になって行った

それが嵩じて、日本的なものがどんどん小さくなっていくように感じたのだろう

このやり方は、専門である科学には直接関係のない文化の領域を中心に考えたものである

ある意味では、専門を犠牲にしてアメリカ文化を探索していたと言えなくもない

その経験があったためか、こちらではアメリカでのやり方は採らないと最初から決めていた形跡がある

テレビなどを観ないこともフランスにいることを忘れさせる

何年も日本に帰ることのなかったアメリカ生活とは違い、今は少なくとも年に1-2度は帰っている

そのためか、日本的なるものが押し潰されるという感覚も生まれていない

ただ、フランス語を身に付けたり、フランス文化の真髄に触れようとする場合、それでは駄目なのではないか

日本的なるものが押し潰され、苦しくなるような感覚が生まれるくらいに入り込まなければ、体得できないのではないか

日本人として外から異文化を見るのではなく、彼らの頭を持った時にこの世界がどう見えるのかという問いとともに

そこまで行かなければ異文化の理解には繋がらないのではないか



対談を読みながら、そんな考えが浮かんでいた





mardi 2 juillet 2013

言葉の殻の中に身を詰める時


先日の会議での観察に関連して、こんなことが浮かんできた

日常において、特に忙しかった日本ではほぼ自動的に言葉を発していたように見える

効率的に 「こと」 を進める上では、確かに有効だろう

ただ、そうだとすれば、発せられたその言葉は殻だけの中空の存在だったことになる

考えていないので、言葉に中身が伴っていないからである

場合によっては、言葉の意味さえ知らずに使っていた可能性もある

ひょっとすると今の生活は、殻だけの言葉に中身を詰める作業をしている時間なのではないか

cliché とか buzzword という言葉を読んでいる時、そんな思いが過った



lundi 1 juillet 2013

かくも長き休息


もう7月である

今年も半分が終わったことになる

それにしても試行錯誤を繰り返しながらの長い休息の日々であった

この気分に慣れてしまうと、なかなか止められないこともわかった

道草の楽しさがそこにあるからだろうか


年始のコンピュータ占いでは、6月は 「完遂」 となっていた

如何に当てにならないかがわかる

今年の後半はどのようなことになるのだろうか

当てにせず、ゆっくりと眺めて行きたい



今朝、研究所に向かう道でのこと

広場の中央にいくつか噴水が並んでいるところがある

それを横目に歩いていたが、いつもと違う

一つの噴水が緑色に見えたので、細工でもしたのかと思って歩いていた

近くに寄ってみると、以前と変わらない

噴水の上にある光を浴びた木々の緑を水が吸い取っていたのである

なぜか嬉しい気分でメトロに乗り込んだ

と同時に、目の方もかなりやられてきているのではないか

そんな思いも過った