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lundi 7 avril 2014

小林秀雄の 『学生との対話』 が今回のカフェと結びつく


昨日の夕方、無事にパリに着いた

驚いたことに、機内に乗り込んだ途端、鼻水とくしゃみが始まり、道中苦しめられた

 前日のオープンカフェの影響だろうか

日本滞在をこれで総括されたような気分であった


それとは別に興味深い発見もあった

出発前、本屋さんに積まれていた小林秀雄の 『学生との対話』 を手に入れ、道中読んできた

 まず、彼の話していることが以前とは比べものにならないほどよく分かるようになっている

彼の作品をそれほど読んでいるわけではないのだが、、、、 

そのことに驚く

 こちらでの時間が影響していることは間違いないだろう


それから、この中に出てくる話が今回のカフェ(懇親会も含め)で話題になったことと重なるものが多いことだ

そのことにも驚く

その感覚は次のようなものだろうか

金曜にカフェフィロPAWLでディオゲネスが描かれているラファエロの「アテナイの学堂」 を示した

すると、その週末のシャヴァンヌを取り上げたNHK日曜美術館でその絵が現れるのである

それを見て覚える驚きのようなものに近い感覚である


わたしがこのようなカフェを始めた背景には、科学だけではこの世界を理解できないという思いがあった

それだけではなく、科学は科学そのものの営みさえ理解できないということである

小林さんも科学のこの特徴をよく見ていて、若い人に注意を促している
 
また、科学の中に入ってしまうとその虜になり、そのことにさえ気付かなくなる危険性についても指摘している

これに関連した話も懇親会で出ていた


 瞑想のような営みをしていると、日頃気付かない自分の奥にある記憶に触れることができることを話した

隠れている自分を発見することができるのである

それは、ここで言うところの 「自分の中を覗き込む」 という運動に近い

テレビなどを観る生活ではそこに達しない

意識の表層に留まり、中に入ることが阻害されるからだ

それは日本に帰る度にわたしが経験していることである

この本のなかでも、ベルグソンを引きながら無意識の世界について論じている

日常生活では必要になる記憶しか引き出さない

それ以外の記憶は邪魔になるからだ

それを繰り返していくうちに、自分を特徴付けているはずの記憶の全体には触れずじまいに終わるのである


今回、われわれの思考の中に科学では排除されている主体を取り戻す必要があると感じ、PAWLを始めた

それによって初めてわれわれの脳が全的に働くと考えたからでもある

小林さんも対象を自らの外に置いて解析する研究の不十分さを指摘している

「歴史は常に主観的です。主観的でなければ客観的にはならないのです」 という言葉もある

 カフェにおいても歴史は重要な要素になっている

小林さんの観察は、今の歴史は出来事を正しく調べることで終わっているというもの

つまり、科学的であれば良しとする風潮を批判しているのである

そうではなく、歴史とは上手に 「思い出す」 ことであると言っている

そのためには、人間の精神や思想にまで入り込まなければならない

どの程度できているのかはわからないが、これはわたしの目指しているところでもある

このようなことが他にもたくさん出てくる


最後に一つ、「考える」 ということについて本居宣長の考えを紹介している

「本居さん」 と呼んでいることも注意を引いた

「考える」 の古い形は 「かむかふ」 だという

「か」 には特別な意味はない

「む」 は 「み」 で、自分の身を指している

「かふ」 は 「交わる」 ということ

なので、考えるとは、自分の身を以って相手と交わることになる

つまり、対象と自分が親密な関係に入ることを意味している

そのためには、相手の身になって考えること、共感、想像力を必要とする

どこか、ジョン・キーツの "negative capability" を想起させる

そう考えると、SHEとPAWLのカフェは、実はわたし自身が考える場にもなっていることが見えてくる

 以前から気付いてはいたが、今回小林さんの言葉により、そのことがはっきりと意識されるようになってきた

道中の貴重な収穫である




dimanche 6 avril 2014

open-ended な生き方


有意義な出逢いがあり、予定していた3つの会も予想を超える成果を齎してくれた今回の滞在

本日が最終日となった

今朝、SHEの懇親会で話題になった一つのテーマが再び浮かんできた


ダーウィンが唱えた進化論

その重要な要素として、目的を持たない open-ended な過程であることが挙げられる

 どこかにあるだろう理想の姿に向かって進化しているのではない

あくまでも、その時点での最適なコースを経ることによってどこかに向かっているというイメージだ

系統発生を個体発生に当て嵌めることには問題があるだろう

しかし、敢えてそれを試みるとすれば、次のような絵が浮かんでくる


この人生には目的などない

一つの目標に向かって進むなどというのは、生物が持っている本性に反するものである

そうではなく、「いま・ここ」 において最良のことを行うこと

それが重要になる

そこでは環境に応じる創造性が要求されるだけではなく、環境が創造性発揮の機会を与えてくれる

そして、それを繰り返した果てに現れるもの

それこそが、その個人が持っている本質のようなものではないだろうか

 そう考えると、どんな一瞬にも自らの持つ創造性を発揮しなければならないことに思い至る

そして、その創造性は自らを覗き込む運動の繰り返しの中からしか生まれてこないような気がしている

この人生は、自らの本質がどこにあったのかを探る旅と言えるかもしれない



これからパリに旅立つ

今日は成田エクスプレスからのアップとなった





samedi 5 avril 2014

第7回サイファイ・カフェ SHE の二日目終わる


昨夜は今回の滞在の最後の行事となる サイファイ・カフェの二日目であった

遠くからの方も含め、多くの方に参加していただいた

年度初めのお忙しいところ参加された皆様に改めて感謝したい

実は会が始まる数時間前、開催が危ぶまれる事態に陥った

パソコンがフリーズして、お話が詰まったパワーポイントにアクセスできなくなったからだ

人生は本当に何が起こるかわからない

途方に暮れていたところ、初日のスライドPDFを参加者に送っていたことを思い出す

真面目にやっておくものである

データはネットカフェでメールから取り出すことができた

問題は使うパソコンだったが、近くに適当なレンタルパソコンが見つかり、何とか間に合わせることができた

この間、切羽詰っているはずなのだが、心は凪

もうそのことに驚かなくなって久しい


会の方は前日同様、講師が話し過ぎ、討論の時間が少なくなった

しかし、穏やかだが充実した議論が進んでいたように思う

ウィルヘルム・ヨハンセン(1857-1927)というデンマークの植物学者がいる

彼が 「遺伝子」 という言葉を1909年に初めて使った

ヨハンセンはまた、「遺伝子型」 と 「表現型」 を識別した

外に表れている特徴とそれを生み出している元のものは別物であること

さらに、遺伝子型はメンデルの因子(=所謂遺伝子)には還元されないこと

つまり、表現型を生み出すために必要な他の要素も含めて遺伝子型と考えていた

現代でもタンパクを作るDNA断片を遺伝子と定義し、それがすべてを決めていると考えがちである

しかし、この見方は表現型を生み出す他の要素を視野の外に押しやる危険性がある

遺伝子型をホーリスティックに捉えていた 20世紀初頭のヨハンセンの見方は、極めて現代的である



懇親会は初日より多くの方が参加され、議論が盛り上がっていたようだ

初日に匹敵する長時間の意見交換となった

この会もすでに7回を終えたことになる

次第にリラックスした雰囲気が醸し出されるようになっている

そのためだろうが、発言がこれまでよりは自然に出ているように感じるのは気のせいだろうか





カフェの冒頭をカメラで録画して Youtube にアップしてみました

ご批判いただければ幸いです

次回は、今のところ11月を予定しています

詳細が決まり次第、この場で紹介する予定です

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

 これからもご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします





jeudi 3 avril 2014

第7回サイファイ・カフェ SHE の初日終わる


今夜は7回目になるサイファイ・カフェを開いた

天候が良くなかったためか、お二人の欠席があった

遠くからの参加もあり、皆様には感謝したい

今回のテーマも 「遺伝子」 という大きなものにしたため、どのように提示するのか寸前まで考えていた

最終的には、19世紀からの歴史を辿りながら、科学者の採った考え方を検討するというやり方にした

壮大な歴史があるため、大きな出来事を中心にせざるを得なかった

短い時間では致し方ないのだろうか

遺伝の中における遺伝子という視点に立てば、昔の絶対的立場は揺らぎつつあるように見える

最近の科学の成果はわれわれに希望を与えているようにも感じる

われわれは手を出せないと思っていた自身の未来に少しは関わることができるのではないかという意味において


後半のディスカッションでも活発な議論が進行していた

先週のPAWLのテーマの一つが率直に語ること、社会的ヒエラルキーを超えて語ることであった

 それがなければ、「こと」 の本質が見えてこないからであり、「こと」 が動かないからでもある

今日のやり取りで何が問題になっているのかが以前よりよく見えてきた

真剣に意見を交えることによってしか見えてこないものがあるのだろう

このような積極的な議論、意見のぶつかり合いをこれからも期待したいものである



今日の懇親会はなぜか時間のない方が多く、少人数であった

そのためではないだろうが、普段より1時間ほど長い意見交換となった

日本の現状に対するそれぞれの分析やこれからに向けての具体的なサジェスチョンも出たりしていた

過去への視点だけではなく、未来も視野に入れながら体を動かすことも考えてはどうか

そんな気にさせてくれる時間となった



lundi 31 mars 2014

友人との語りで暮れた週末


この週末、30年来の友人お二人とパリから日本に戻っている友人とのランデブー

人に会うとそれぞれの世界が迸り出るので実に興味深い

30年とはいえ、このようにお会いするのはそれほど多くない

お二人とも現世にどっぷり浸っているという印象で、同情を禁じ得ない

しかし、向こう側から観ると、こちらが異常に見えるのかもしれない

いろいろな助言をいただいた

感謝したい


昨日はわたしが街を歩いている時だけ激しい雨が降り、雷にまでお付き合いいただいた

その上、非常事態発生で、予定の時刻から2時間ほど遅れての奇跡の再会となった

いろいろなことが起こるものである

パリ時代の友人は将来を模索されているご様子

お話を伺いながら、自らの若き日にも同じように悩んでいたのだろうかと記憶を辿る

特に外国にいる時には、日本では考えられないような疑問が湧いてきたことが思い出される

いろいろなことが今に繋がっているとすれば、ぼんやり過ごすよりはよいのではないか

そんな感想を抱きながらの時間となった

今はこれからのご活躍を願うばかりである




vendredi 28 mars 2014

第1回カフェフィロ PAWL でディオゲネスについて考える


昨日はサイファイ研初の試みになる 「生き方としての哲学カフェ PAWL」 を開いた

まず、年度末のお忙しい時に参加いただいた皆様に感謝したい

初回のテーマは、古代ギリシャの哲学者ディオゲネスを取り上げた

現代の枠組みの中にいると、その生き様は常軌を逸しているように見える

しかし、本当にそうなのだろうか

実はわれわれの方が多くのものに囚われ、自由が奪われた状態にあることに気付いていないのではないか

 文明の中にいるわれわれは多様に絡み合った枠組みの中にいる

最初から枠組みの中にいると、そこで進行していることの本当の姿が見えてこない

社会の流れを外から観るという視点がなければ、大きな流れに異議申し立てをすることもできない

これは哲学の持つ大きな機能であるはずだ

そのことを教えてくれる哲学者である


それから彼は社会的秩序を超えて自由にものを言うこと(parrhesia)を実践した人間でもある

この営みは思想と行動の一致を要求する

そのため、その人間を危険に陥れることになる

日本に帰ってきていつも感じるのは、自由にものを言うということが抑制されているということである

言論空間が澄み切っていない、突き抜けていないように感じるのだ

そこでは 「もの・こと」 の核心に至るのが難しい

そのため、本当の姿を見ないままどんどん先に進むのである


カフェの名前であるPAWLは生き方としての哲学(Philosophy As a Way of Life)の頭文字である

しかし、この言葉には別の意味もある

それは、一方向に進むための装置であるラチェットのツメという意味である

歯止めの役割を担っている

より広く解釈し直すと、正の方向に進むことに対するフィードバックという含みも見えてくる

さらに、社会の大きな流れに抗する機能を持っているとも言える

上でも述べたように、これこそ哲学がやるべきことである

その意味でも、含蓄のある名前になったと考えている


なぜPAWLの初回に辺縁の哲学者とも言えるディオゲネスを選んだのかという質問が出た

これまでに書いたことが一つの回答になるだろう

それから、この会のテーマとしてディオゲネスを選んだ後にこういうエピソードがあった

驚きの大発見、それは今年二度目の出来事か (2013-12-11)、

彼の哲学を見直してみると、自分の中に多くのディオゲネス的なものがあるのではないか

その実践は若い時には難しかったが、囚われのなくなった今、それがよく見えるようになっている

それが、彼を初回の主役に選ばせたのではないか

無意識のうちに




今回、初の試みとして、このところ気に入っているカメラの動画機能を使ってみた

どうなるかわからなかったが、15分間ちゃんと写っていた

丁度、イントロ部分をカバーする内容であった

初めて自分が話している姿を見たことになるが、わたしの頭の中にある姿とはかけ離れた別人であった

さらに驚いたのは、齢を重ねている上、長い庵生活のためか、ローキーで滑舌不明瞭なことである

あれで参加された方が居眠りしないのが不思議なくらいであった

そう言えば、ディスカッションでの皆様の発言を聴いている時、その声量と張りをはっきり聞き取っていた

参考までに、Youtube にアップしました

ご批判をいただければ幸いです






mercredi 26 mars 2014

同じフロアの同窓会を愉しむ


昨日の朝は涙目を診てもらうのと花粉症のための目薬を貰うために病院へ

待合のホールはご老人で溢れている

外から見るとその中に溶け込んでいるはずなのだが、そう思うと恐ろしい

それからパリと同じようにカフェの梯子と思ったが、再現することはなかなか難しい


夜は最後の職場となった研究所の同じフロアにいた皆さんの集まりに紛れ込んだ

10年振りくらいの方も参加

お子さんが大学に入ったり、大学を卒業して就職という方も何人か

時の流れの速さに驚く

予想もしなかったような繋がりも現れ、旧交を温めるだけではない収穫があった

そこが終わった後、何人かの方とコーヒーを飲みながらの歓談となった


このところ連日のように過去が蘇っている

そして、この生がほんの一瞬であることを思い知らされている

昨夜も貴重なランコントルとなった







mardi 25 mars 2014

日本最後の職場の皆様と2年振りの会食

渡邊正孝、本郷利憲、中田裕康、嶋津浩の各先生


今夜は日本最後の職場となった研究所の皆様との会食があった

同期のお二人と元所長のお二人

皆様にはお忙しいところお集まりいただき、感謝したい

昨年はこちらの不手際でお会いできなかったので2年振りとなる

それなりに時が流れていることを感じながらの歓談となった

嶋津先生は今年米寿とのことで、期せずしてお祝いの席となった

渡邊氏はまだ仕事をされているようで、頭が下がる

わたしの方は、今回もなぜ学生生活の報告ができないのかについての報告となった

中身を報告できる時は、果たして来るのだろうか


現在連載中の拙エッセイを楽しみに読んでいただいているとの声が聞こえ、少しだけ安心する

あのようなお話が医学の専門誌に載っていることに驚きの声もあったように記憶している

最近の記憶は当てにならないのだが、懐の深さを指すコメントだったのではないだろうか


この世にこうして生きていることが奇跡に思える一夜であった

 次の帰国時にも是非お会いしたいものである





lundi 24 mars 2014

人生の後半について語り合う


今夜は1年振りの歓談となった

昨年秋に帰国の折、お会いする予定だったが、台風により叶わなかった

実は本日も危ないところだった

齢を重ねている影響か、時差ボケが未だ解消せず、うとうとしていたからだ

何とか目覚め、間に合わせることができたのは奇跡的であった

話題は多岐に渉ったが、年齢に相応しいものが多かったように思う

その中に二つほど将来に向けての貴重なサジェスチョンがあった

今回の滞在の二つ目の発見と言えるかもしれない




mercredi 19 mars 2014

久し振りの学友と歓談、そしてなぜの鷗外全集だったのか


数年ぶりから数十年ぶりの学友と夕食会を持った

今もリハビリ中でありながら参加されたM氏ご夫妻や数年前に奥様を亡くされ未だ快復中だというY氏

お二人とも学生時代は同じグループだったので、嬉しい再会であった

それからストレスフルな仕事を未だに続けているという四人のS氏

専門の話になると、付いていけなくなっているのは致し方ないだろう

逆に、人間的な配慮の出来ない職業人が増えているという話を聞くと何かできるのではないかという気になる

癌闘病中の学友の話が出たりすると、現世に今生きていることを感じざるを得ない

久し振りにざっくばらんな話や意外な人の繋がりが見えたのは幸いなことであった

形に囚われることなく、これからもこのような会を持ちたいものである



初日の発見から

日本に帰る度に学生時代の本棚を眺め、なぜそこに鷗外全集があるのか不思議に思っていた

大学を卒業するあたりに出始めたものをなぜか手に入れた

しかし、一度何かを読んだだけだが、全く入って来ず、それ以来触れたことがなかった

文庫本を読み分かっていたはずだが、なぜわざわざ手に入れたのか


時差ボケの朝、その中の1冊を取り出し、読んでみた

第5巻の『現代思想』と『金毘羅』である

テーマは、それぞれライナー・マリア・リルケと息子が亡くなった時のこと、科学と宗教の問題

読み始めて驚いた

これまで全く受け付けなかったその文章が何とよく入ってくることか

 その文章を自然に感じるまでに40年の歳月を要したことになる

この時のために、40年前に準備していた訳でもないだろうに

このような変容に気付くことは、嬉しいものである

これからの愉しみが増えることにもなる

今回の収穫第一号かもしれない





lundi 17 mars 2014

半年振りの日本、あるいは同じ平面の異空間


半年ぶりの日本である

最早当初感じた辿り着いたという感激は湧いてこない

前回は少なくとも初日には何か感じるものがあったような気がするが、それも消えている

フランスと日本がほぼ同じ平面になったかのようである

ただ、時差ボケで目覚め、一週間前のローラースケーターのランドネを思い出すと、それは夢の世界なのだ

パリでは院生としての生活をしている

論文を書かなければとか、学会発表の準備をしなければとか思案する生活である

こちらから見ると、なぜそんなことをしているのかという感じである

これも現実感のない夢の世界に見える

ただ、日本以外の国に行ってもそんな感覚は生まれない

学生を引きづっているのである

実に不思議だ

同じ平面にありながら、異なった世界に生きることができている

それは案外面白いことなのかもしれない