vendredi 5 août 2011

考え方の癖、あるいはここにないどこか



今回もいろいろな方とお話をする機会があった。その中でわたしの考え方に一つの癖のようなものがあることに気付く。しかもその根は学生時代、ひょっとするともっと前まで遡ることができるかもしれない。そんな想いとともに目覚める。


先週末、昨年もお世話になったお宅で食事をする機会があった。今回は、学生時代の第二外国語がフランス語で、わたしと同じような時期にダンテをイタリア人と一緒に読み始め、その言葉を物にされた方が加わった。そのためか、話は外国語から日本の状況、医学、科学、哲学、宗教と幅広くひろがり、その種が尽ることはなかった。そしてお宅の主がイタリアに留学されており、イタリア語にも通じていることを初めて知る。

その会話の中で、この場でも取り上げている日本の科学、医学、哲学などの状況についての印象を話し、どのように変わるのがよいのかについても大雑把に触れた。イタリア語の達人はわたしの現状認識にほぼ完全に同意され、随分前向きですねと言われた。その心には、もっと科学的、哲学的な思考をわれわれの中に取り入れることは不可能に近いという皮膚感覚があり、それをやると日本人が日本人でなくなるという大いなる皮肉があった。街に出て人ごみの中に身を置く時、その感覚が現実味を持ってくるから不思議だ。しかし、それでも何かをしなければ、という思いに駆られることもまた事実である。

今回、奥様の話で知ったことだが、お宅の主も仕事を終えた後は違うことに挑戦したいという思いを持っておられるようだ。いずれヨーロッパでお会いする日が来るかもしれないなどという考えを弄んでいた。翌日、専門に関するご著書が送られてきた。これからじっくりと新しい分野を勉強したいものである。




数日前のこと。ある科学者ご夫妻と会食する。いつものことだが、日本の科学、あるいは科学界の現実が話題に上る。ご本人は今その中にいて生きていかなければならないという厳粛な事実があり、現状を分析して如何に有効な方法を採るのかを考えるのは自然なことだろう。科学の世界だからと言って、科学的な考えで動いているわけではなく、あくまでも日本社会の枠の中にあるからである。わたしの方は、おかしな現状にまず目が行き、そこを変えなければ始まらないという考えに陥ってしまうのだ。これは今現場を離れているからそうなったというのではなく、おそらく以前から同じような考え方をしていたように見える。

現実に厳しく向き合うのではなく、どこか夢見がちなところがあるわたしの性向。こうして哲学に入り、さらに遠くからものを見ようとする今の精神状態は、わたしの根の部分と強く結び付いているのかもしれない。出発前日の朝、そんな想いが浮かんでいた。


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