mardi 2 août 2011

映画 「蜂蜜」 で濃密な接触を味わう


今日も昨日から始めた本を読む。

昨夜、古い友人からお勧めの映画の連絡が入り、途中で 「蜂蜜」 というトルコ映画を観る。とにかく不思議な映画だった。映画が終わっても何を言いたいのか掴めないもどかしさが残る映画だった。

始まってまず気付いたのは、単にテンポが遅いだけではなく、刺激と反応の間が凍りついたように長いことである。われわれの生活で見られる条件反射のような会話ではなく、言葉が放たれた後にリフレクションの時間があるように感じられるのだ。音楽はない。自然の音だけである。森に住む鳥の羽音や鳴き声、山道や泥道を行く音、床の軋む音や家の中の日常の音、胃の中に入るまでが目に見えるような牛乳を飲み込む音など、われわれの記憶の中に残る生活の音だ。自然の真っ只中にある生活はすべてが削がれていて美しい。余分なものに溢れているわれわれの生活が作りものに見えてくる。昨日の映画がアーティファクト以外の何物でもなかったように感じられる。

そして、街を歩き始めてある考えが浮かぶ。この映画で描かれている世界は対象との間に入り込むものが何もない生の、絶対的とでも言うべき接触ではないのか。記号などの仲介するものがなくなり、物と物との直接の交わりだけで成り立っていた遺伝子だけが知っている世界ではないのか。大木の分かれた根の間に恰もその木の一部になったかのように身を横たえている主人公のユスフ。最後のこのシーンがそのことを象徴的に表現しているように見えた。


帰り道、後ろからこんな話し声が聞えた。
「わたし途中から退屈で退屈でしょうがなかったわ」





夜、この映画を勧めていただいた方と土用の丑の日を味わう。


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