mercredi 31 octobre 2012

ルシアン・クレルグという写真家


先日、前ブログ「AVFP」の以下の記事にコメントが入っていることに気付いた

若き写真家の方からであった

 ウィリー・ロニスという写真家、そして何必館・梶川芳友 
(2009-01-24)

このブログ「断章」を「ロニス」で検索すると、3つほど記事が現れた



その時、ロニスさんの本を検索したが、そこでこのフランス人写真家と遭遇した

ルシアン・クレルグ (Lucien Clergue, 1934-)

 日本語ウィキには記事がないので、日本でどれだけ知られているのかわからない

写真集の中に Corps mémorable がある

ポール・エリュアールさんPaul Éluard, 1895-1952) の詩との合作のようである

エリュアールさんと言えばこのブログの精神を謳ってくれている方でもあり、興味が湧く

この作品は1957年出版なので、クレルグさん23歳の時になる

その後絶版になることもあったようだが、2003年に4度目の改訂版が出された

早速注文したものが今日届いた

過去の版にはピカソやコクトーが参加しているという

ゆっくいり味わいたい小品である



クレルグさんの作品はこちらから味わうことができる



mardi 30 octobre 2012

夜鍋して バルコンにいずれば 秋の満月


夜遅く、何を思ったか、寒さが増しているバルコンに出る

すると、そこには素晴らしい月夜があった

月齢を調べると、やはり満月

しばらくバルコンに留まり、エッフェル塔からの光の矢が回るのを眺める

頭に溜まった熱を冷ましながら、なぜ「こと」が捗らないのか考える




dimanche 28 octobre 2012

ディドロ、あるいは考える悦び Diderot ou le bonheur de penser


今朝、パソコンと周囲の時計の違いに気付く

冬時間の到来で、朝の暗さが一段と増すことになる

目を凝らすと、空には不思議な虹が見える


先日のリブレリーでのこと

ジャック・アタリさん(Jacques Attali, 1943-)の最新刊を見つける


ドゥニ・ディドロさん (Denis Diderot, 1713-1784) との縁は深い

前ブログとこのブログの主であり、現在在籍する大学には彼の名前が付いている

その人生については、最初のブログで簡単に取り上げている


それ以来、深く知る機会はなかなかなかった

今回もどうなるか怪しいが、手に入れることにした


アタリさんは、これまでパスカル、マルクス、ガンディーなどの伝記を書かれている 

Blaise Pascal ou le génie français (2000)
Karl Marx ou l'esprit du monde (2005)
Gândhî ou l'éveil des humiliés (2007)

パスカルを愛し、マルクスを評価し、ガンディーには嫌悪を抱いたという

ディドロさんはそのいずれとも違う

悦びと愛を求める尽きることのない性向を持ち、時代の知のすべてを物にした最後の人間であった

知的大胆さを持ち、科学、哲学、神学、工学、音楽、絵画などを手中に収め、精神の自由を持ち合わせていた
  
何にでも手を出した(touche-à-tout)のである

女性の心と体を愛し、隠すこともなく同時に何人もの女性と付き合い、最後まで別れることもなかった

妥協することなく、自由に考える人間

多くの人には耐えられないほどの寛容さを持っていた

ディドロさんが体現した自由に考えること

それは健康にとって重要であるだけではなく、生命そのものにとっても必須の営みであると言っている


執筆に当たり、ディドロさんの10,000ページに及ぶ作品、780通の書簡、主要な研究書に目を通したという

このところ年に数冊は出されているので、アタリさんのエネルギーにも驚かざるを得ない



vendredi 26 octobre 2012

暗い朝に二つの時の流れを感じる


パリに来た最初の冬、暗い朝に好ましいが強い違和感を感じたものである

今、6回目の冬を迎え、暗い朝が何気ない季節の流れを示すものに変わっている

 それは5年という時の流れを示す変化でもある


昨日のバルコンでのこと

先日と同じ香りが微かに流れてきた

目を開けてみると、前回と同じ女性が向かいのバルコンにいる

そのアパルトマンに新しく移ってこられた方のようである

二度の観察にしか過ぎないが、おそらく間違いないだろう



mercredi 24 octobre 2012

セミナーで新しい哲学徒と出会う

(Institut de Zoologie, Université de Bâle, Suisse)


 今日は昨日と打って変わって寒い日であった

午後からセミナーを聴きに出かける

講師はバーセルで免疫の系統発生を長い間研究されているデュ・パスキエ教授

バーゼル免疫研究所が閉鎖になった2000年からは、バーゼル大学で研究を続けられている

哲学的な要素にも配慮された年輪を感じさせる濃い内容のお話であった

それが自然にできるところは、やはりヨーロッパの研究者なのだろうか



ところで、哲学に入ることになるシグナルをわたしに送ってくれた方にマルク・ダエロン博士がいる

ご本人にはその意識はないはずだが、こちらがそれをシグナルとして勝手に解釈していただけなのだが、、

最初のブログにイニシャルのMDで登場して以来、何度も触れている

今年の初めには以下の記事がある


そのダエロン博士、この夏でパスツール研究所を定年になるのでその後を思案されていた

そして、この秋からパリ大学で哲学を始めることに決めたとの連絡が先月の日本滞在中に届いた

本日、マスターの学生ダエロン氏と初めて顔を合わせる

やや疲れ気味のドクターから見ると、少し軽快になられたように感じた

仕事というストレスからの解放が大きいのではないかと想像している




mardi 23 octobre 2012

鳩も感じているのか、暖かなパリ


暖かいパリの秋である

今日は、鳩もそれを感じていたのか

流れ出る水にお腹全体が浸るようにしていたのには、思わずニンマリ

こんな姿は見たことがない

 散策の足取りが軽くなっていた



暖かい晩秋のパリを味わう


今日はコロックに参加するため、朝から出かける

メトロを降り、会場を目指して歩き始めたが、なかなか現れてくれない

 方向を間違えたことに気付き、カルチエ・ラタンの秋を味わうことにした

すぐに会場に向かうのが惜しくなり、カフェで少し休む

1時間遅れでパリ・イル・ド・フランス複雑系研究所(ISC-PIF)に着いた

何度か来たことがある研究所で、前ブログでも取り上げたことがある


上の記事にもあるが、建物の構造がユニークである



会の発表にはこちらが期待したものはなかった

ただ、会場では昨年のヨーロッパ人工生命会議以来になるポール・ブルジーヌ(Paul Bougine)さんとお会いできた

新しい領域での興味深い出遭い (2011-08-08)

昼過ぎに会が終り、周辺を散策

1年ぶりになるリブレリーが現れたので暫く味わい、数冊手に入れる

近くのカフェでパリの秋を味わいながら少しだけ読む

資料を集めるため徐に研究所へ

今日は研究所後にもカフェに立ち寄るという長い一日になった




lundi 22 octobre 2012

乾燥した思考


今日は午後から散策へ

少し歩くと汗が噴き出すほどの暖かさであった

そう言えば、昨日の夜も20℃ほどあり、バルコンで時を眺めていた

近くのカフェで2時間ほど、昨年ニューヨークであった学会の資料に目を通す


それからさらに歩き、別のカフェへ

論文の骨格についてぼんやりと考えを巡らす

その時、こんな考えが浮かんできた


こちらの乾燥した気候の快適さについては何度も触れている

快適さのもう一つの要素に、乾燥した思考があるのではないか

論理で説明しようとするのが基本にあるためか、それ以外が削ぎ落されているように見える

科学が多くのものを削ぎ落としているように

まず、そのやり方で「こと」に当たる

そこにすっきり感が生まれる

それでも埒が明かない時、湿った感情が顔を出す

そんな順序になっているのではないか


科学に身を置いている時には、いろいろなものを捨象していたためか、すっきり快適であった

しかし、それでは物足りなくなる

何かが欠けたままになっていることに気付くことになった

そのアナロジーで行けば、今の快適さは単なる序章にしか過ぎないのか

いずれ欠けている何かが見えてくるのだろうか



dimanche 21 octobre 2012

知覚だけの世界と内省・観想との距離感


バルコンの効果にはいつも驚いている

部屋の中にいては気付かないことが浮かんでくる場所なのだ

こちらに来てしばらくしてからだろうか

わたしがやっているのは観想とか瞑想とか内省とか言われていることではないのか、と気付いた

日本ではそのような時間を持っていなかったことを意味している

外からの刺激を受け入れる知覚だけでは意識は生まれない

感覚で取り入れたものを振り返ることがなければ意識は生まれない

つまり、眠りについているのと同じことである

バルコンに身を置く時、なぜか内省や瞑想へと繋がる条件が満たされるようである
 
部屋の中がわたしの脳で、そこから少し離れただけでその脳の中を見ることができるようになるのか

その訳はともかく、知覚だけの世界と内省・観想との距離感がわかってきたこと

これも5年あまりの成果と言えるのだろうか



samedi 20 octobre 2012

形而上学とは、不可能への愛である


どんよりと曇る週末の朝、バルコンに出る

もう4年前になるマスター2年目のカイエに目を通す

参考になることで溢れている

必死にメモを取っていた様子が目に浮かぶ

よく理解できていなかったことが多い

とにかくすべてが新しいのだから当然と言えば当然だろう

その中にこんな言葉を見つける

「形而上学とは、不可能への愛である」

力が湧いてくる言葉だ


その時、香水の匂いが風に乗ってやってきた

目を上げると向かいのアパルトマンのバルコンに亜麻色の髪の女性が見える

その女性の香りなのか、あるいはこのビルのどこか目に見えないところからのものなのか

これまでに一度もない経験で、集中が途切れる

そして今、雨音が聞こえ始めた




vendredi 19 octobre 2012

自分にとっての世界の全体をどこに見るのか


自分が投げ出されているこの世界

その全体をどこに見るのか

人それぞれだろう

家族、仕事場、仕事社会、地域社会、国、そして所謂世界

人は自ら見ている世界の中で力を尽くし、幸せを求め、認められようとする

そこに真の自由はない

 しかし、この地球を超えた世界がその人の世界の全体だと仮定したら、一体どうなるだろうか

その時、自分を見ているのは自分しかいなくなる

自らの内なる基準に合わせて、もう一人の自分が自分を評価することになる

突き詰めると、その人間だけが残る

何か本質的なもの、精神、思惟に行き着く

ヘーゲルさんに肖れば、その時、精神は自らに帰還する

自分が自分を振り返ることから意識が生まれ、そこに絶対的自由が訪れる

視線はいつも遥か彼方に向かい、同時に内に向かっている

それは高貴な生き方かもしれない

それこそが哲学的生き方なのかもしれない

そこまで行かなければ、すべては虚しいのではないか

そんな想いとともに目覚めたパリの朝




この文章の「自分」を「あなた」に置き換えてみる

すると、全体の印象がガラリと変わり、響きがさらに広がりを見せるように感じられる




jeudi 18 octobre 2012

フランス語の中に身を沈める


ドクター・コースの4年目に登録を済ませた

この秋からやっと精神的に地に足がつくという状態になってきたことについてはすでに触れた

これからどれだけ書くことに集中できるのか

それから、どれだけフランス語の中に身を沈めることができるのか

 この5年間付き纏っている外国人のフランス語でよいのだという開き直りを改めることができるのか

それは、文法的には正しいがフランス語ではない状態からどこまで脱却できるのかに繋がることでもある

文系であることを踏まえてさらに言えば、スタイルとかそこから漂う香りにまで及ぶ大きな問題になる

1年ほどでどうなるというものでもないだろうが、その足掛かりにはしたいものである



mercredi 17 octobre 2012

理性的に 「こと」 を振り返る時、完全な自由になる


何か「こと」があった後、カフェに落ち着く

そして、その「こと」を振り返る時、至福の時が訪れる

それはなぜなのか、不思議に思っていた

ヘーゲルさんはこんなことを言っている
「精神の自分自身への帰還が、精神の最高の、絶対的目標だ。・・・このことによってのみ精神は自分の自由を獲得する。・・・思惟のうち以外の如何なるものにおいても、精神はこの自由に達しない。例えば直観の中、感情の中では、わたしは規定された自分を見出すのみであって、私は自由ではない。私が自由であるのは、私がこのわたしの感覚に関して、やはり意識を持つ場合である。・・・ただ思惟においてのみ、あらゆる外的なものが透明となって消え失せるのである。精神は、ここで絶対的自由である。理念の関心、即ち哲学の関心は、この表現によって言いつくされている」 
 わたしなりに言い換えると、こうなるだろうか

外から情報が入ってくる

それに直ちに反応するのが感情である

それに対する感覚的に生まれる考えのようなものは直観と言えるだろう

そこに留まる限り、人は自由ではありえない

それはその状況に制限されているからである

外からの刺激に対して感じたものを理性的に振り返ることにより意識が生まれる

この作業は思惟と言えるもので、この思惟がなければ意識は生まれない

生の現実から得られた情報をリフレクションすることを思惟と言っている

この過程によって初めて現実の制限から逃れることができ、自由に達することができる

それこそが哲学の本質である


 カフェでの時間は、まさにこのリフレクションの時間に当たることになる

気付いてはいなかったが、これが自由の感覚を呼び込んでいたのかもしれない

それこそが至福の感情を生んでいたのかもしれない


そんな想いが湧いてきた相変わらずの曇りが続くの朝のバルコン




mardi 16 octobre 2012

マヌエル・アルバレス・ブラボというメキシコの写真家

photographe mexicain


今日は午前中と夕方、用事のため街に出る

その間、来月のエッセイの初稿校正をする

そのテーマはセンテナリアン(百寿者)

そして、メトロでマヌエル・アルバレス・ブラボというメキシコの写真家を知る

やはり100歳まで生きている

今日から Jeu de Paume で展覧会が開かれるとのこと





lundi 15 octobre 2012

一夜明けて、バディウさんの哲学


昨日の記事は、バディウさんのお話を聴きながらのもの

それが可能な話しぶりであった

以前であればピンとこないことばかりではないかと思いながら書いていた

しかし、自らが哲学に入る過程を振り返ってみると、まさにバディウさんの言う主観的な経験がそこにあった

そして、その後に来る哲学の営みや特徴がよくわかるのである

これもこの5年ほどの果実と言ってよいのだろうか

 ただ、科学と闘う哲学ではなく、科学との間に橋を架ける哲学を目指したいという思いが強くなっている

 


dimanche 14 octobre 2012

アラン・バディウさんの哲学




アラン・バディウさん(Alain Badiou, 1937-)のお話を聴く

哲学と実証主義(positivism)とニヒリズムの関係について

以下に、聴いたままのポイントを

------------------

哲学は知識か

科学はそうだろうが、哲学はおそらく違うだろう

知識には対象があり、対象との間に距離がある

哲学は対象と知識という関係を持っていない

哲学は知識でも、対象でもない

哲学自体が疑問なのである

ソクラテスの言葉、「わたしの知っている唯一のことは、わたしが何も知らないことである」

否定から始まっている

何も存在しないことを知り得るのか

存在しないものについての知識はない

哲学が知識でない理由がここにもある

"to be" と "to exist" の間にある距離

これこそが哲学的問題である

哲学は対象と知識には還元できない

実証主義は対象、知識だけを扱う

それは分析的な視点であり、科学である

実証主義はすべてに客観的であることを求め、哲学に対しても例外ではない

すべての科学に共通する科学の本質を問うという視点は科学にはない

それは "being" の問題で、個々の科学の中の問題ではない

分析的視点に立つと、否定から始まるものには向かわない

"existing" にしか向かわない


オントロジー (存在論)とは

"to be" と "to exist" の間にある距離を問題にするもの

知識でないとすれば、継続はない

知識は現状を伝達していく

反復であり、継続であり、蓄積である

知識には対象があるからである


哲学は継続できない、常に始まるのである

すべての哲学者は始める

どのように始めるのか

過去の哲学者の蓄積を示し、そこから続けるように始めるのではない

過去の新しい解釈から始めるのである

否定から、無から始める

対象から、知識からは始められないからである

何も知らないとは、無とはどういうことか

それは全くの主観的な経験である

原始的な負の経験である

対象(客観性)のない主観性

デカルトの場合は、絶対的懐疑であった

それは主観的な世界の破壊

理性的なものではなく、実存的な経験であった

 キェルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813-1855)もハイデッガー((Martin Heidegger, 1889-1976)も同じ

 ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」も同じ問いである

デカルトは絶対的懐疑から経験そのものに至った

対象としての主体(自己)に至った

無から存在の肯定に至ったこの過程こそ哲学の勝利であった


ここで勝利できなければ、ニヒリズムに陥る

主観的な経験から出発するものの無から抜け出すことができない

あるいは、あるがままの世界を否定して無に留まる

そして、知識には意味がないとする

ニヒリズムは哲学の敵であり、実証主義の敵でもある

もう一つの哲学の敵は実証主義である

すべての重要なものは知識であるとする

哲学をナンセンスであり、夢想であると揶揄する

哲学は実証主義でもなければニヒリズムでもない

ただ、初めはある意味ではニヒリズムである

負の経験があるから哲学は真剣なのである

問題は、最初の経験を超えられるかどうかである

そこを超えることができると、最終的には知識に還元されることになる

そこには決意が求められる

哲学は実証主義ともニヒリズムとも闘わなければならないのである



哲学は音楽の調性、音質 (tonalité) を聴くように読むこと

偉大な哲学にはニヒリズムや実証主義の要素が混じっているからである

それを聴き分けること

 
負の経験から出発して肯定にいたる運動

0 → 1

これがバディウさんの哲学であった



******************

ところで、バディウさんの英語に全く違和感を感じなくなっているということは、一体どういうことなのだろうか







第4回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ


The Fourth Gathering SHE (Science & Human Existence)


テーマ: 「脳と心、あるいは意識を考える」

今回は、哲学と科学との交わりが特に強い領域について考えることにしました。19世紀末、ドイツの生理学者エミール・デュ・ボワ・レイモンは世界の9つの謎を挙げ、その中の3つに関しては人間はこれからも知ることはないだろうとの考えを発表しました。その中の一つに意識の問題が含まれています。脳内の物質の物理化学的変化から非物質である精神活動がどのようにして現れるのか。歴史的にはデカルトが明確に分けた空間を占める物質としての身体・脳 (延長実体)とそれとは重ならない非物質としての精神・心(思惟実体)との関係は、一体どのように考えられてきたのだろうか。最新の科学の成果と合わせて考える予定です。

2012年11月29日(木)、30日(金) 18:20-20:00
同じ内容です

会場: カルフール会議室 (定員15~20名)
Carrefour

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223


参加費 
一般 : 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生: 無料 (飲み物代は別になります)


会終了後、懇親会を予定しています。
この試みを始めて1年を迎えることになります。
皆様の率直なご意見を伺うことができれば幸いです。
参加を希望される方は、希望日と懇親会参加の有無を添えて
paul.ailleurs@gmail.com まで連絡いただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。





samedi 13 octobre 2012

過去に埋もれる無数の友人


昨日も出がけにドア横の棚にあったヘーゲルさんに手が伸びた

それを読みながら、忙しくしている時には読む気にはならなかっただろうな、という思いが湧く

本を開いてもよくわからなかっただろうし、直接関係のありそうなことは書かれていない

哲学書は日常からは一番遠くにあるものに入るのだろう


ところが、いまは全く違う

時間がたっぷりあり、専門を離れているので、そこに何が書かれているのかが分かるまで読むことができる

読もうという気になるのである

哲学をするための必要条件の一つに時間があるのがよくわかる


そんな日々を送るうちに気付いたことがある

それは、いま街に溢れている本は忙しく時間に追われている人に向けてのものだということである

と同時に、書いている人も時間に追われているのである

そのため、「もの・こと」 のわかりやすい解説や技術に関するものが多くなる

「もの・こと」 の奥に入ろうとすると、物足りないのだ

特に、わかりやすい哲学などは哲学が何かを伝えるものにはなっていないのではないだろうか

そういう頭になってしまうと、急に古典が身近に迫ってくる

古典しか読むものが見当たらなくなる

その時、二千年以上に及ぶ人類が同時代人になるのである


古典には人類の智慧が詰まっているので読まなければなりません

というようなことを昔から聞いていた

そうなのだろうな、と思い読んでみたものの、本当の愉しみを味わうことはできなかった

務めとしての読みのためか、体ではわかっていなかったのだろう

それがいま、古人の言葉の意味が本当にわかるという状態に入っているような気がしている

 この5年ほどが無駄でなかったとするならば、そのことを体で理解したことがあるのではないだろうか

それは、数えきれない友人を新たに見つけたことを意味しているからである



そんな想いの週末の朝






雨音が聞こえ始めた午後、バッハとともに過ごす

ヨーロッパの深淵が口を開ける





mercredi 10 octobre 2012

ミシェル・オンフレさんのカーン大衆大学の10年を読む

Michel Onfray(1959-)
(Autrement, 2012)


先日の散策で、理性を大衆に広めるというタイトルの本を見つける

よく本を出し、メディアにも顔を出す現代フランスの哲学者ミシェル・オンフレさんのもの

早速カフェで読む

彼がノルマンディーのカーンに開いた大衆大学が10年を迎えたのを機に、これまでを振り返った本であった


全編でこの大学の特徴を規定している

それは体制のために従順に働く、規範に沿う人間を作るための大学と対極にあるもの

駄弁りの場所ではなく、対話型の教育の場である

自由主義が支配する指標を失った時代に求められている哲学を提供するところではない

そうではなく、、民主的で絶対自由主義の回答がこの大学である

そこでは、ソクラテスがやったように、人をどこか別のところ、より遠いところ、より高いところに導く

知識を増やし、認識を高め、智慧を強化し、自己を作り上げる

オンフレさんから見ると、マルク・ソテさん (Marc Sautet, 1947-1998)の始めたカフェ・フィロは批判の対象でしかない

哲学に対する考え方、そのやり方が明らかに異なっているからだろう


人生と作品、人間と思想、理論と実践を別のものとするのではなく、相互を絡み合わせること

賢者になることではなく、それぞれの存在にできるだけ知恵を注ぐこと

哲学者の証明は、哲学的に生きるかどうかであり、それ以外の社会的装飾は関係がない


ジョン・ハロウェイ(John Holloway, 1947-)というアイルランドの社会学者がいる

その著書に Change the World Without Taking Power (2002)がある

権力を取らずに世界を変えること、上からではなく下からの革命

それこそが、エピクロスが学園でやろうとしたことであり、オンフレさんが大衆大学で提唱していることだという




lundi 8 octobre 2012

福島からのお客様と連夜の貝料理

藤田禎三先生 (福島県立総合衛生学院)


昨日と本日、福島からお客様を迎えた

ギリシャでの学会に向かう前に藤田先生がパリを訪問された

先生は福島県立医科大学を昨年退官されたばかり

ご専門は補体の免疫学で、その道の権威である


今日はソルボンヌ広場で待ち合わせてから大学を見学後、コレージュ・ド・フランスで講義を聴く

カフェで休んでいる時、山中伸弥教授のノーベル賞受賞のニュースが飛び出し、しばらくノーベル賞談議をする

これを機会に再び研究費の集中が進み、研究のベースが脆弱にならないことを願うばかりだ

その他、わたしの知らない日本のプチ情報をいろいろ教えていただいた

その中には、人生の時が確実に流れていることを感じざるを得ない話も含まれていた


ところで、今回初めて藤田先生が貝をこよなく愛されていることを知る

お陰様で、先生ご指定のお店で昨日はムール貝、今日はカキとたっぷり海産物を味わわせていただいた

今度は年末の学会でお会いできれば幸いである


+++++++++++++++++

今日、ちょっとした偶然を感じた

ソルボンヌのブティックでは、日本語を完璧に話す若い方がお相手をしてくれた

奥様が仙台出身とのことで、少しだけ納得

ただ、フランス国立東洋言語文化研究所(INALCO)でも日本語を勉強するという熱心さを持ち合わせている

私たちが入る前に読んでいたというINALCOの教材を見せてくれた


そして今夜のお店

そこでもアクセントのない日本語を操る中年の係の方がいた

お話を伺うと、ロンドンで半年間日本語を勉強しただけだという

それできれいな日本語を話すことが可能なのである

僅か2時間ほどの間に起った出来事に触れ、思わず自らのフランス語を振り返っていた




わが腕時計の不可解な動き



先日の散策の折、実に不思議なことが起こった

時間を知りたくなり、上着のポケットに入れている時計を取り出した

3時30分を告げている

そしてしばらく行くと、時計塔が見え4時43分となっている

街の時計は壊れていることがある、最初はそう思っていた

それから目に付く時計を確かめたが、おかしいのはわが時計

今では時刻と曜・日を合わせるためにボタンの位置を変えるのが大変になっている

しかも、最後にボタンを固定することもできないのだ


この時計を手に入れた時のことは、はっきりと覚えている

その昔、岡崎にある基礎生物学研究所で開かれた国際会議に行った時のこと

発表の前日にそれまでの時計が止まってしまい、町の小さな店で手に入れたお安い品

話の途中で時間を確認するために

見ることもあり、見ないこともあるのだが・・・


時計の文字盤を見ると、10年間保証の文字が見える

ひょっとするとあれからもう10年が経ったのかもしれない

そう思い、帰ってから確認するとぴったり10年目

しかし、保証期間通りに故障することがあるとも思えない

確認のため、新らたに時を合わせて様子を見ることにした

それから1週間、まだ正しい時を刻んでくれている


 
一体、あの時の1時間の遅れは何だったのか

今では腕から外され、ポケットに入ったままにされている時計の訴えだったのか

あるいは、10年という時の流れを教えてくれるためだったのか

、、、

いろいろ考えるが、いつものようにまともな科学的説明が浮かんでこない

所詮、人間とはそういうものなのか

一瞬、捨てようかとも思ったこの時計

その命が尽きるまで共に歩むことにした

時計の作戦勝ちになるのだろうか




dimanche 7 octobre 2012

ヴァレリー・ゲルギエフさんのシマノフスキとブラームスを聴く


昨夜は久し振りのサル・プレイエルSalle Pleyel

 ヴァレリー・ゲルギエフさん(Валерий Гергиев / Valery Gergiev, 1953- )のコンサートを聴くためである

彼の演奏を生で聴くのはこれが初めて

一度聴いてみたいと思っていたので、案内が来た時にすぐに予約していた

その日が教授とのランデブーの翌日というタイミングになろうとは

しかもおそらくこれまでに経験がないステージの後ろの席であった

演奏はロンドン交響楽団London Symphony Orchestra

ゲルギエフさんは、2007年から首席指揮者になっている


プログラムは

カロル・シマノフスキ(Karol Szymanowski, 1882-1937)の交響曲第1番とヴァイオリン協奏曲第1番

ヴァイオリンはオランダの若手ジャニーヌ・ヤンセンさん (Janine Jansen, 1978-)

後半はブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)の交響曲第1番


今年はシマノフスキが生まれて130年、亡くなって75年になる

その記念にブラームスと一緒にチクルスをやることになり、昨日はその初日だった

シマノフスキの曲を聴くのも今回が初めてである

Conférence d'avant-concert 
M. Didier van Moere


数日前のこと、コンサート前のカンファレンスへのお誘いの連絡が入り、参加することにした

 こちらも初めての経験になる

お話は、シマノフスキの伝記を物している音楽研究家で批評家でもあるディディエ・ヴァン・ムールさん

今回のプログラムに解説も書いておられる

シマノフスキ音楽の特徴とその音楽が生まれた背景や他の作曲家との関連などを紹介

 その後に音楽を聴くというスタイルであった

何も知らない作曲家だったので、お話を聴いた後は少しだけ近くに感じるようになっていた

分析しているご本人も同じヨーロッパ人なので、対象を自分のすぐ横にいるような感覚で捉えているように見える

日本ではこのような状況はなかなか望めない

こちらで感じるこの近さは対象の理解にも影響しそうな気がしてくるが、どうだろうか



コンサートを舞台の後ろから聴いていると、自分が舞台に上がって演奏しているような錯覚に陥る

その昔が蘇るようでもあった

近未来のわたしの髪型をしているゲルギエフさん、つい親しみを感じてしまう

タクトなしでやっているのかと思いきや、よく見ると爪楊枝を持って指揮していた

もちろん、爪楊枝ほどの長さのものという意味である

あれではなくてもよさそうだが、ないとしっくりこないのだろう


シマノフスキという名前からは、どこか弱々しそうな、影のような音楽が出てくるのではないかと思っていた

ところが、交響曲第1番はダイナミックで、しかも粘り気のある曲の流れであった

そして、オーケストラがよく鳴る力強い音楽でもあった

ヴァイオリン協奏曲第1番も同じように濃密で執拗な流れがある

ムールさんの解説によると、ヴァイオリンとオーケストラの融合を目指したもの

しかし、ヴァイオリンはあくまでもオケの上にあるというイメージ

超絶技巧を要するというよりは、感情を長い間持続させて歌い上げなければならない曲のように感じた

ヤンセンさんの演奏は好評で、拍手が鳴りやまず

結局、コンサート・マスターとのデュオで答えていた

この間、 ゲルギエフさんは舞台の後ろの方で聴いていた

これは指揮者の作法なのだろうか、印象に残った

初めてのシマノフスキの音楽

ぼんやりと想像していたさらさらと流れる小川のような音楽ではなく、粘液質の激しさを込めたものであった

残念ながら、今回はメロディーがわたしの中で響き渡ることはなかった

もう少し付き合いを深めないと、それは望めないのかもしれない
 

ブラームスも素晴らしい演奏で、圧倒的な最後であった

重量感を感じる指揮で、満足する

ただ、これほど長い曲に感じたことはこれまでなかったのではないだろうか




ところで、昨夜は最後にもう一つ驚きが待っていた

雨に降られながら最寄りのエトワール駅へ急ぐ

駅の中に入ろうとしたその時、後ろから「ムッシュー」と呼び止める声が聞こえた

振り返ると紳士がいるが、誰かはわからない

その紳士がこう話しかけてきた

「先ほど写真を撮っていた方ですね」

すぐにはピンとこなかったが、カンファレンス前に写真をお願いする旨話していたことを思い出す

講師を務めたムールさんだったのだ

写真をどのように使うのかを知りたかったとのこと

この記事に使うことを告げ、お互いの情報を交換して別れた

それにしても、何という偶然だろうか




vendredi 5 octobre 2012

結局どこに向かいたいのか


今日は午後から教授とのランデブーがあった

先日書き終えたところまでのクリティークを聞く

本格的な歩みを始めて最初のディスカッションになる

まだ材料を集め始めたようなところなので、この先長い道のりが待っている

ポイントは、結局どこに向かいたいのか、ということになる

いくつかの可能性が残っていて、まだ決まっていないというのが正直なところ

その中から一つを拾い上げなければならない

それが決まった段階で、掻き集めた材料を並び替え、形を整える作業が待っている

それはまだ先になるだろう


帰りのリブレリーではまたいくつかに手が伸びた

読書の秋なのか



jeudi 4 octobre 2012

鷲掴みするように読む


午後から用事があり、街へ

済ました後、歩いては店に入ったりしながら街を味わう

カフェに入り、持って行ったものを読む

読み終わり、頭がすっきりしてくる

帰ろうとしたが、余韻を味わいたくなり、さらに歩く

近くにリブレリーがあったことを思い出し、向かう

すっきり感が軽い興奮に変わり、頭が冴えてくる

5-6冊に手が伸びた

近くのカフェで、薄手のものを読み始める

今日はどうしたことだろうか

内容を鷲掴みするような感じで読んでいた

偶の小飛行の効果だろうか




mardi 2 octobre 2012

やっとテーズに集中モードか


この夏からやっとテーズを書く気分になってきた

そして、よちよち歩きの50ページほどを終えたところ

まずは書き出したという感じである

当分はこの作業を続けることになる

形を付けるのは、いつものように最後の最後

それまでは、どのようなことになるのかの楽しみ5%と95%の苦しみを味わうことになるのだろう


午後からカフェに出て関連の本に目を通す

4時間ほどの集中となった

次から次に論じなければならないことが出てくる

どの問題も深く考えていないことに気付く