vendredi 28 février 2014

SHE と PAWL の最終準備を始める


ひと月ほどで日本である

前記事にあるように、3月末から4月初めにかけて会を予定している

今回、生き方としての哲学を語る新しい試み "PAWL" を始めることにした

ディオゲネスという特異な哲学者を取り上げる

本来哲学が持っているべき、世に出回っている考えに疑いを投げかける姿勢がある

さらに言えば、人工的な社会の欺瞞を暴き、自然に従う生き方を採る

犬儒派と言われるように、犬のように生きるのである

最初から社会に合せる生き方の中にあるように見える現代日本から見ると、かなり刺激的である

それから自分の考えていることと話すこと、さらに話すことと行動することとの間の相違を認めない

どのような立場の人に対しても、自分の意見を言う

恐れを知らない決然とした発言を自然にやってしまう

自由な社会の基本になることだが、これが意外に難しい

日本にどれだけ浸透しているだろうか


7回目となるサイファイ・カフェSHEでは、「遺伝子」を取り上げる

遺伝のメカニズムが唱えられるようになった19世紀初頭から現代に至るまでの歴史を振り返る予定

「遺伝子」という言葉が生まれたのが20世紀初頭なので、その歴史は100年ほどである

それ以後、この言葉が指し示す内容がどのように変化してきたのか

さらに、過去からの蓄積である遺伝子がすべてを決めているのか

あるいは、われわれの生活体験がわれわれの蓄積として残るのか

遺伝子を取り巻く科学の成果は、われわれの生き方にどのように影響を与えるのだろうか


このような疑問とともに過去を蘇らせ、われわれの生き方や社会のあり方についても考えてみたい





jeudi 27 février 2014

第1回カフェフィロPAWLと第7回サイファイ・カフェSHEのお知らせ


サイファイ研究所からのお知らせです

今年の春に以下の二つの会を開催する予定です 


   ● 第1回カフェフィロ PAWL  
The First Cafe Philo PAWL (Philosophy As a Way of Life)


新たに、生き方としての哲学を語る会を以下の要領で始めることに致しました

テーマ: 「ディオゲネスという生き方」 

 日時: 2014年3月28(金)、18:20~20:00
会場: 恵比寿カルフール 
定員: 約15名 

 カフェフィロPAWL 
案内ポスター 

哲学には、大きく二つの流れがあるように見えます。一つは大学での哲学、体系の構築を目指す理性に依存する哲学です。サイファイ・カフェSHEはこの流れに相当すると考えられます。これに対して、自己の創造や人生を一つの芸術作品にしようとするような生きることに直結する哲学があります。カフェフィロPAWLは、長い間劣勢にあったこの流れの中を歩む予定です。その様式については試行錯誤が続くと思いますが、当面、生きることに関わる哲学を追求した哲学者の歩みを振り返ることにより、そこで問題にされたテーマにわれわれ自身がどのように向き合うのかについて考え、語り合うことを中心に据えることにしました。このような営みの中で、人間の生き方、人間存在そのものに対する理解を深めることを目指しています。

1回は、現トルコ北部、黒海沿岸の町シノぺに生まれた古代ギリシャの犬儒派哲学者ディオゲネス(412 BC?-323 BC)を取り上げます。コスモポリタンを自認するディオゲネスの常軌を逸したかに見える生き様とその背後にある哲学について講師が30分ほど紹介した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。

第7回サイファイ・カフェ SHE  
The Seventh Sci-Phi Cafe SHE (Science & Human Existence) 

テーマ: 「遺伝子を哲学する」 

日時: 2014年4月3日(木)、4日(金)、18:20~20:00 
会場: 恵比寿カルフール 
定員: 約15名
(両日とも同じ内容です)

 サイファイ・カフェSHE
案内ポスター 

この世界を理解するために、人類は古くから神話、宗教、日常の常識などを用いてきました。しかし、それとは一線を画す方法として科学を編み出しました。この試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかについて、毎回一つのテーマに絞り、振り返ります。そこでは科学の成果だけではなく、その背後にどのような歴史や哲学があるのかという点に注目し、新しい視点を模索します。このような営みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指しています。

今回は、われわれの日常で頻繁に語られる遺伝子を取り上げます。人間は古代ギリシャの時代から遺伝に興味を持ち、アリストテレスも遺伝現象を記載しています。「遺伝子」という概念が出来上がり、それが物質として明らかにされるまでの歴史を概観すると、その明快さと華々しさのためか、遺伝子決定論が支配的な力を持つようになる過程が浮かび上がります。その流れは現在に至るまで続いているように見えますが、ここに来て遺伝子に因らないソフト・インヘリタンスの重要性が説かれ、柔軟な思想が生まれつつあるように見えます。いつものように、講師が30分ほど枠組みを話した後、約1時間に亘って意見交換していただきます。


興味をお持ちの方の参加をお待ちしております





lundi 24 février 2014

人生が彼らに教えたこと



昨日、カフェに寄る前にキオスクに入り、一面に並んだ雑誌の表紙を眺める

その中に、今日のタイトルの特集記事があるのを見つける

Le Point の最新号は、各界で活躍している20人の高齢者に人生の意味を問い掛けている

その中から何人かの言葉を紹介したい



「進歩」は啓蒙主義の時代からヴォルテールディドロなどの左翼の思想である

ヴィクトル・ユゴーの作品に出てくる言葉では "aurore" (オーロラ)がそれに当たる

マルクスの「明日は変わる」である

しかし、この言葉は最早左翼のものとは言えない

環境主義者や緑の党は進歩を信じていないからだ

ただ、わたしはまだ進歩を信じている

先の大戦では、強制収容所などを入れると1億人が亡くなっている

しかし総人口比で言うと、三十年戦争百年戦争ペロポネソス戦争の方がずっと酷かった


われわれに欠けているものが二つある

一つは長い歴史の記憶で、もう一つは未来に対する希望である

フランス人は悲観的で、その程度はアフガン人やイラク人の上を行くという研究さえある

 希望の後ろには愛があるが、今、愛を語ることが難しくなっている

しかし、ダンテは『神曲』の最後で、太陽や星を動かしているのは愛であると言っている

 ニュートンの引力を見通していたような言葉であるが、引力こそ愛である

 偶然だけで、この世界の均衡が保たれているとは信じられない

物理学における愛、宇宙的な愛のようなものがそこにあるのではないか

そこに永遠の時があるようにも思える

それは、プラトンが言った「時間とは、永遠が動いているイメージである」に通じるものだ

この永遠がすべてのものを結び付けているのである




 1958年、仏露合作映画に出演する話があり、感激して出掛けた

到着すると、すぐにパスポートを没収され、シベリアで4週間の撮影が始まった

撮影が始まり、それがスターリンのプロパガンダ映画であることがわかったが、すでに時遅し

2カ月の予定だったが、11か月の間帰国の目途もないまま留まることになった

天国だと思っていたところが、実は地獄だったのである

永遠に帰国できないと思っていたので、フランスの地に降り立った時にはその地を抱きしめた

それ以来この記憶を封印してきた

しかし、最近出した本 Ce genre de chose を準備している時に蘇ってきて、その中に書き入れた

わたしの家族に、そのような状況の中でわたしがどう振る舞ったのかを知ってもらいたかったからである

わたしはソ連で嘲笑い(dérision)を発見したのである



ジャーナリストのジャック・シャンセル氏、85歳

生きる中で、三つのモットーを作った

一つは父親からのもので、「生きることを忘れるな」

二つ目は、「すべてを賭けて成功しようとすること、それは失敗を余儀なくされることである」

これは、仕事だけを考えて生きている人を見て言い聞かせていることである

そして三つ目はわたしの嗜好から出たものだが、「冒険を敢えてしなければならない」

さらに付け加えるとすれば、才能は努力なしには花開かないということ

多くの嘱望された有能な人材のその後を見てきたからである


若さとは長所でも欠点でもない

精神の状態を言っているに過ぎない

20歳の老人も知っている

わたしはこれまで若い人としか接触しないようにしてきた

同年代の人と話すと、眠くなるからである


発生生物学者のニコル・ル・ドアラン氏、83歳


 わたしは運命を信じない

ブルターニュの奥の方の出身で、何の伝手もない領域に入ることになった

何かをやる時には、目的を決め、成し遂げるための手段を考え、必要とあらば苦難を受け入れなければならない

 最初は文学の教師になることを考えたが、1年して科学をやりたいと思うようになった

実験上の偶然も幸いしたが、人との出遭いの偶然もあった

学校で生物の教師をして8年経った頃、研究でしか得られない新しいことが知りたくなってきた

しかし、すでに28歳になり、二人の子持ちで仕事があるという三重苦

その時に、エティエンヌ・ヴォルフ教授と出遭うという偶然に恵まれたのである

老年になって、「わたしは自分の道の大半をすでに歩んだのだ」という考えを退けるようにしている

そうすると、死に向かう暗い気持ではなく、この生の中にいつまでも居続けることができるようになる


詩人、小説家、劇作家のルネ・ド・オバルディア氏、95歳


人生における重大事は、1940年に捕虜になったこと

21歳から4年半の間、ポーランドの強制収容所で過ごした

その経験から、人間は最悪のことをする能力を持っていることを知ったのである

わたしの人生において、神秘主義者が言う "Sainte Ignorance" (「聖なる無知」)を学んだ

驚くことを意味する言葉として、古いフランス語の "ébaubi" を使ったことがある

死が近付くこれまでの間ずーっと生まれたことを驚き(ébaubi)、本当に驚き(ébaubi)、益々驚いている(ébaubi)



音楽家のミシェル・ルグラン氏、81歳

わたしの人生を変えた瞬間は、イーゴリ・ストラヴィンスキーとの出遭いである

わたしの先生であったナディア・ブーランジェのリハーサルに行った時のこと

そこにいたストラヴィンスキーがこう言った

「本当に創造的な時は、自分のやっていることなどよくわからないものです」

その言葉で、自由な精神とはどういうものであるのか理解したのである


現在も創り続けているが、今ほど容易にそれができる時はなかった

音楽が血管を流れる血液のように流れてくる

過去の栄光を忘れ、新しいスイッチを入れること

わたしは危険に身を晒すことを怖れたことはない

もちろん、これまでと同じことを続けることもできたが、新しい領域に入って行った

その時、無垢な気持ちになり、それゆえに良い状態になるのである


哲学者のエドガール・モラン氏、92歳


わたしは起こりえないことを望んできた

ソ連邦崩壊もそうだが、レジスタンスに参加している時にはヒットラー帝国の崩壊であった

1945年7月、破壊されたベルリンの中心街に一人でいた

ブランデンブルグ門にはソ連の旗がたなびき、死がそのあたりに漂っていた

その時、スピーカーからベートーベンの「春」が聞こえてきた

苦痛と甘美と希望が混じり合ったあの瞬間を一生忘れることはないだろう

もし共有すべきモットーがあるとすれば、「予想もできないことを待ちなさい」だろう

確実な決まりきったところに希望はないということを、人生がわたしに教えてくれたのである

イエスもモハメッドともブッダも初めは決まりきったところから逸脱していた

しかし、最後には偉大な宗教を生み出すことになった


再生しないものは変性する

われわれの体の細胞も常に入れ替わっている

硬化するままにさせてはいけない

 われわれの詩的な部分を最大限に守り、散文的で凡庸な部分の侵略を許してはならないのである








dimanche 23 février 2014

ロバート・オッペンハイマーの人生

今朝の空


ここ数日、ロバート・オッペンハイマー(1904–1967)についてのドラマ(1980年、BBC/PBS制作)を観ていた

1回が1時間の7回シリーズで、史実に忠実であろうとする意図が感じられ、見応えのあるつくりになっていた

 激動の時代を生きた彼は、自らの人生を何と "Farce" (道化芝居)という一言で総括するシーンが最後に出てくる

 おそらく、自分の意図したことが理解されず、政治の大波に攫われたと感じていたのではないだろうか

時代の空気、官僚機構、権力などの前では、大波に流されるままの木の葉のようである

以前に観たドキュメンタリーでは、同僚がこう言っていたのを思い出す

「彼は全力で国に奉仕し、最良の形で仕事をやり終えた。そして、国はその彼を打ち砕いたのだ」


最早、このようなことがあったことさえ、記憶から消え去っている可能性がある

過去の中に入り、残されたものに触れ、良心と想像力を駆使しなければ過去は蘇ってこない

それは専門家にとっても至難の業になるのだろう

況や、「いま・ここ」に生きざるを得ないわれわれには手の届かない世界である

それゆえ、同じようなことを何度も繰り返すことになるのだろう



"The Day After Trinity" を改めて観る (2012-03-28)








mercredi 19 février 2014

アインシュタインのドキュメンタリーを観る




アインシュタインのドキュメンタリーを観る

躍動するような作りになっていて、1時間半があっという間に過ぎていた

この場で取り上げた科学者も出てくる

フリッツ・ハーバーという科学者 (2011-09-23)

ミレヴァ・マリッチ」 という音を聞き、日本でフランス語をやっている時に聴いたCD "Einstein" のことを思い出した




lundi 17 février 2014

ミカエル・ルヴィナスという音楽家との遭遇


ラジオをつけると、ミカエル・ルヴィナスMichaël Levinas, 1949-)という音楽家の演奏が流れている

哲学者エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas, 1906-1995)さんの息子さんだという

もう60代に入っている音楽家だが、これが初めての遭遇になる

 ご本人の演奏とお話、そして「バルコン」というタイトルのピアノを絡めた作品を聴いてみることにした







「バルコン」はわたしにとって貴重な場所になっている

そのイメージとは必ずしも一致しなかったが、十分に楽しむことができた




samedi 15 février 2014

マルセル・コンシュさん、人生とエピクロスの哲学を語る


哲学雑誌に、マルセル・コンシュ(Marcel Conche, 1922-)さんのインタビューが出ていた

もうすぐ92歳になるところである

わたしがフランス語を始めておそらく初めて触れた哲学者で、印象深いものがある

最初のブログに84歳のコンシュさんの記事がある

マルセル・コンシュ(I) (2006-09-25)


コンシュさんの母親は彼が生まれた時に亡くなっている

祖母とまだ未婚だった二人の叔母に引き取られる

母と呼ぶべき人がいないこの経験が大きな傷として残った

子供時代は自然との触れ合いの中で育つ

しかし、当時はそこに価値があることに気付かなかった

彼の父親は農民だった

省察の生活とは正反対の土を相手にした仕事をしていた

モットーは「土は常に人間を育む」であった

父親の唯一の野心は、家族に食事を与え、無事に育てることであった


コンシュさん ご自身は土との仕事の中で、理性と哲学に目覚める

キリスト教徒として育ったが、悲惨な目に遭っている子供たちを見て、神の存在に疑いを持つ

1956年のことであった

そして、1963年にモンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne, 1533-1592)を発見する

これが哲学人生において重要だったのは、自然な哲学と人工的な哲学との違いに気付いたことだという

 そして、神を中心に回る近代の人工的な哲学ではなく、古代ギリシャの自然な哲学に回帰することを決意する

モンテーニュがルクレティウスエピクロスピュロン、そしてヘラクレイトスへと導いてくれたようだ



エピクロスにとっての自然は、われわれの目に触れるものを超えた世界の全体を意味していた

エピクロスの物理学は、自然は原子と空虚からなるとする

分割不能な原子が無限の空間を飛び回っている

そして、原子が突然その軌跡を変え、それによって新しい世界が生まれるのである

後に、ルクレティウスが clinamen と名付けた原理である

この世界には、創造主も、インテリジェント・デザインも、必然性も、神の摂理も存在しない

エピクロスの世界観である


善く生きるには、衣食住のための自然で必然的な欲求を満たすだけでよい、とエピクロスは言う

食はパンと水だけで良いとも言う

隠遁や禁欲を薦めるものではないが、過度の欲を求める快楽主義とも違う

食べることではなく、食べたことを愉しむという立場になる

この微妙に見える差は、よく考えると途方もなく大きい

それにより、体の苦痛がなくなり(aponie)、精神の安定(アタラクシアataraxie)が生まれるとする

さらに、精神だけに関わる喜びがあるとエピクロスは主張する

それは哲学することで、人間の自然で必然的な欲求に分類されている


現代の大きな問題は、自然を忘れ、すべてを計りに掛けることと関係している

そこから、自然でも必然でもない欲求が生まれているからである

金、物質的な快適さ、名誉や栄光の追及

都会では出世主義者(arriviste)が富や権力を求める

それをエピクロスは常軌を逸したことと呼ぶ

それに挑戦し、そこから離れるのがエピキュリアンである

ストア派と違い、政治への参加も拒否する

しかし、友情は大切にする

世界と断絶しているわけではなく、パーティに誘われれば参加する

しかし、ダンスに興じることはない

重要になるのは苦痛の除去、それが幸福の規準となる


エピクロスの愛についての考えには教えられるところがあるという

愛、肉欲は、自然な欲求だが必然ではないとされる

それがなくとも、散歩したり、走ったり、、、、他の活動で遣り過ごせる、と考える

ただし、憑りつかれたら節度を以って当たること

愛は人生の多くの時間を奪い、重要なことから遠ざけるからだ

  コンシュさんの人生にとって重要なことは、哲学することだという


パソコンについても触れている

目をやられ、人生を複雑にするだけなのでもう止めたという

これには同意したい今日この頃である





jeudi 13 février 2014

映画 "Ida" を観る


今日は午前中に用事があり、街に出る

問題なく進んだランデブーは1時間ほどで終わった

帰り道、先日メトロでポスターを見た映画が丁度始まるところのシネマがある

迷わず入ることにした

パリをベースに活躍するポーランド出身の Paweł Pawlikowski(1957-)監督による "Ida" (2013)

全編白黒

観始めてすぐに感じたことは、どのカットをとっても詩情が漂っており、美しいということ

その印象は結局最後まで変わらなかった

そんなに観ているわけではないが、その中でも珍しい作品であった

 お話はそれほどドラマチックなところもなく、淡々と進む

映像と音楽に触れるだけでも価値のある映画と言えそうだ

 お薦めである









mercredi 12 février 2014

連載エッセイ第13回 「 21 世紀の科学,あるいは新しい 『知のエティック』」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第13回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde » 

医学のあゆみ(2013.2.9) 244 (6): 572-576, 2013


 ご一読、ご批判いただければ幸いです





mardi 11 février 2014

ハイデッガーの 『黒のノート』



今週のル・ポワンにハイデッガーの『黒のノート』(Schwarze Hefte)が来月出版されるという記事があった

二つの顔を持つ哲学者として最初のブログで取り上げたこともある

その時もル・ポワンの記事からであった


今回の 『黒のノート』 はハイデッガーが1930年から書き始めたもので、その公表を希望していた

そこでは、恐ろしいレベルにまで達している反ユダヤ主義が哲学にまで高められているという

以前の記事にもあるが、これまではどちらかというと類推や関係者の証言を基にしたものが多かった

そして、ハイデッガー主義者たちはご本尊の反ユダヤ主義を否定してきた

しかし、今回は1200ページにも及ぶ本人による著述なので、最終的なところに行き着く可能性がある


すでに検討した人の話によると、彼の反ユダヤ主義は疑いようがなく、悪意に満ち、有害でもあるという

ユダヤ陰謀論の立場を採り、ヨーロッパ文化のユダヤ化と闘うことを考えていた

ヨーロッパ文化とは、個人主義、理性主義、民主主義、科学的厳密さ、そしてユダヤ・キリスト教を含むものである

その上で、第二次大戦をユダヤ人に対する戦争と主張している

ナチスのプロパガンダと完全に重なるのである


国籍を持たないコスモポリタニズムは反ユダヤ主義者の一つのテーマである

ハイデッガーは、ユダヤ教は 「存在」 に行き着かないと考えていた

人間が世界内存在であるとすれば、世界を持たないものは人間どころか動物以下であるとしたのである

7年前にも批判的な立場を採ったエマニュエル・フェイ(Emmanuel Faye)は、検討の結果こう言っている 

「それは存在論や必然性、さらには運命論に帰する議論で、この本における省察の最悪の部分である」

今やアングロ・サクソンの国ではほとんど読まれていないが、フランスでは未だに擁護者がいるという


この記事を書いたロジェ・ポル・ドロワ(Roger-Pol Droit)は、こう問いかけている

これだけの証拠が蓄積していても不十分だと言うのだろうか?

更なる証拠を待たなければならないのか?

そして、21世紀の哲学はハイデッガーなしでできるし、そうしなければならない、と結んでいる



ところで、この記事には 「古代ギリシャ語とドイツ語でしか哲学することがなかった偏狭な傲慢さ」 という件がある

最近その傾向が顕著になっているという内にしか向かわない思考ともどこか通じるものを感じる

この流れに抗するためにも、外国語教育が重要になるはずである

単なる道具としての言葉ではなく、精神を開く上でも有効であるという視点で考え直す必要がありそうだ





lundi 10 février 2014

バルコンの感覚を思い出す


連日寒いが、バルコンの時間が取れるようになったのは幸いである

この時間には不思議な力があるからだ

なぜなのか未だにわからないが、思考の空間に全く違う光が当たるのである

長い間忘れていた感覚が戻りつつある

春が来るのが待ち遠しい





vendredi 7 février 2014

今朝のパリの空


今朝のパリの空

久し振りにバルコンに座り、雲の流れを眺める

今日は西から東に早足で流れていた

青空が少しでも顔を見せてくれると元気が出てくる



暫くすると、この空である

雲は一体どこかに飛んで行ったのだろうか

やっとパリらしい天候が戻ってきてくれた

そんな印象である


この空はこれからにどんな影響を及ぼしてくれるのだろうか

よく観察すると、一日は起伏に富む長い流れであることがわかる

そんな実感が湧いている今日この頃でもある




dimanche 2 février 2014

会心の月、久しぶり


昨日の夕方の帰り道

「今日の空は青が深いなぁー」 と思いながら歩いていた

そして暫くすると、この景色が現れた

 誰かが用意してくれていたような感じだ






samedi 1 février 2014

これまでのブログは 「純粋経験」 の貯蔵庫か


昨日のこと

九州大学の先生から Paul Paris 様宛にメールが届いた

来月開く予定のシンポジウムのポスターに、前ブログにある写真を使いたいとのことで驚く

それは、もう3年半前に帰国した折に撮ったCarl Milles(1875-1955)作の「神の手」であった

改めて記事を見直していると、あの一日が鮮明に蘇ってくる

この作品は九州大学にもあるはずだが、どうしてもブログの写真を使いたいという

メールにはその写真が全面を占める試作ポスターが添付されていた
 
 このような形で過去が蘇り、それを多くの方と共有できるようになるとは想像もしていなかった

誠に嬉しいお便りであった


その後、当時の他の記事にも目をやってみた

見れば思い出すが、普段は記憶の底に沈んでいたものばかりである

昔のものを読んでいる時、こんな考えが巡っていた

西田幾多郎が 『善の研究』 で論じている中心概念に 「純粋経験」 がある

詳しく読んでいるわけではないが、現段階でのわたしなりの解釈は次のようになる

この世界に生きている大人のわれわれは、主観と客観、主体と客体の区別をつけて世界と対峙している

 世界を見ている自分と対象としての世界がはっきり分かれている

分けて見るようになっている

対象をどう見るのかは、その時の判断に掛かってくる

それは視点や視野が限定されている可能性が高いからだ


しかし、この区別ができる前、あるいは区別を付けずに世界に対した時はどうなるだろうか

その時は、判断することなしにその中に入り、そのすべてを受け入れることができるのではないだろうか

そのようにして得たものは 「純粋経験」 と言ってよいのだろう

対象の全体を自分の中に取り込んでしまう
 
主体による先入見やフィルターなしに、あるがままを受け入れる

さらに言えば、そのものと一体になるという感覚だろうか

この場合、そこで得られた経験は色付けされない生の形でわれわれの中に残ることになる

そのため、それをどう見るのかは後で如何様にもなる

ある意味では、無限の意味を秘めた原材料がそこに残ることになる

それが純粋であるとすれば、無駄な経験などないことになる

「純粋経験」 なしに、この世界の理解には至らないということでもある


 翻って、これまでのブログに残されたものについて考えてみる

わたしが世界と対する時、「純粋経験」 が可能になる状態に近いところにいるように見える

それは意識していたというよりは、この概念に触れて振り返ってみるとそうであったということである

その内的状態のまま世界に身を投げ出すという感覚がある

まず写真だが、ほとんどの場合、自分を取り巻く世界を留めるために選択せずに撮っている

文章にしてもその時の判断はあるだろうが、世界の全体の反映である心象風景が残るようにしている

 このように見て行くと、これまでのブログが 「純粋経験」 の倉庫のように見えてくるから不思議だ

同様のことが、今その中を歩いているメモについても言えるだろう

解釈し再解釈することを繰り返す中から、将来何が飛び出すのかわからない楽しみを秘めた倉庫でもある


思わぬメールから思わぬリフレクションが羽ばたいたパリの週末である