lundi 30 juillet 2012

科学をやっていたのは、実は哲学するためだった、あるいは目的は最後に現れる


どうしてこうなったのか

今があるのは何が原因だったのか

こうなるのは既に決められていたのか


科学から哲学に入ってきた

科学をやり、そのことについて考えてみたくなり、哲学の手法を学ぼうとした

前を見て考えている時は、そうなるだろう

それでは、後付けで考え直してみると、どうなるのか

科学をやっていたのは、実は科学についての哲学をやるためだった


もちろん、科学の時代にそんな考えが意識に浮かんだことは一度もなかった

ただ、こういう見方で言い換えた時、周りの景色が全く変わってくることは確かだ

哲学が恰も使命のように大きな姿に変容してくるのだ


科学の特徴として、予測することを挙げる人がいる

その基準によると、後付けの思考は予定調和や運命論にも繋がり科学的とは言えないだろう

鼻があるのは眼鏡を乗せるため、病気があるのは医者がいるため、などなど
 
その意味では、科学をやっていたのは哲学をするためという考えもその香りがする


人間には自由意志などない、という実験結果がある

もしそうだとすると、自分の意識をどこまで信じることができるのか

自分で 「こと」 を決めているなどというのは錯覚に過ぎなくなる

 科学をやっていた時代にそもそも怪しげな意識に上らなかったからといって、それを信じることはできなくなる

意識に上らないところで 「もの・こと」 が決められているとすれば、人はどう生きればよいのか


おそらく、これまでのように 「今」 に身を埋め、只管歩むしかないのだろう

そして、偶には来し方を振り返り、後付けの理由を見つけては心を和ませるしかないのだろうか

そこには大きな逆説が隠れている

それは、目的というのは実は最初にあるのではなく、最後に現れるものである、ということ

もしそうであるならば、どこかに向かうことなどできないはず

「今」 を捉えて十全に生きるしかないということになる





今日のお話、第二回の 「科学から人間を考える」 試みのテーマとも重なったようだ

そろそろ第三回の準備をしなければならないというお告げだろうか





dimanche 29 juillet 2012

"To Rome with Love" とアメリカから見えるヨーロッパ、そして空、雲、雨


先日のリブレリーでウディ・アレンさん(Woody Allen, 1935- )の新作が出たことを知る

To Rome with Love (2012)

最近はヨーロッパが舞台の作品が多いように感じる

昔は気に入っていたアメリカから見たヨーロッパがそこにある

こちらに長くなると、アメリカからの視線の癖が見えるようになる

その癖をどのように形容するのか

これから先の問題になるだろう






夕方、雨が降り、久しぶりに涼しさを味わう

雨音が心を鎮めてくれる

空、雲、雨

それは、こちらに来てからの発見か

これからも味わい続けることになるだろう

この星の住人の特権として




vendredi 27 juillet 2012

ガストン・バシュラールさんのお話を聴く




汗をかきながら、ガストン・バシュラールさんGaston Bachelard, 1884ー1962) の追悼番組を観る
パリではモベール広場(Place Maubert)の近くの小さなアパルトマンに住んでいたという
この広場にはよく顔を出すが、なぜか落ち着き、気に入っているので不思議な思いで眺める

春全開のパリで古本市(2012-05-13)

アパルトマンには懐かしい雰囲気がある
わがアパルトマンに散乱する本を眺めながら、こんな想いが湧く
バシュラールさんのような書斎に変容すれば素晴らしいのだが、、、

 科学と技術を歴史と哲学から研究しているIHPSTという研究所がある
バシュラールさんはそこの初代所長を務めた
その後を継いだのが、ミシェル・フーコーさんの先生に当たるジョルジュ・カンギレムさん (1904-1995)
お二人の姿も出てくるが、実はカンギレムさんが語る姿を見るのは今回が初めて
カンギレムさんはわたしにとっては因縁の方なので嬉しい限りだ

健康とは - ビールの最初の一杯 (2005-03-17)


この映像を観ていると、最初にフランス映画、広く言えばフランス文化に触れた時の不思議な感覚が蘇ってくる
それはバシュラールさんのアパルトマンに感じたような懐かしさなのかもしれない
さらに大きく言うと、外ではなく内、未来ではなく過去への憧憬だろうか

と同時に、それまで見慣れていた建前を明るく語る人間とは違う人間が現れたことだろう
それぞれが自分やこの世界と真剣に向き合っている姿をそこに見たのである
「いま・ここ」 に生きている時には、なぜこんな面倒くさいことをしているのかと思っていた姿でもある
それゆえ、すべてが新鮮に映ったのかもしれない

バシュラールさんは科学と詩の両方に興味を持ってきたという
自らの周りのすべてのものに興味を持ち、目に触れる本は何でも読んだという
カンギレムさんもフーコーさんもこの点を強調している
この精神の動きには惹かれるものがある




jeudi 26 juillet 2012

リズムのある生活


暑い日が続いている
部屋に籠もっているが、黙っていても汗ばんでくる
これまでは外に出ていたためだろうか
このような記憶がない

不規則な生活が続いている
体が意識の外に行っている
気のせいだろうか
お腹まわりが少々苦しい

暑い中、汗をかきながら歩くのもよさそうだ
これまでを思い返してみる
いつもサックを背負って歩いてはいるが、運動を意識しての散策はないようだ
この身一つで体を動かす時が来ているのかもしれない

初めてそんな気分になっている
新生活のリズムを作る切っ掛けにしたいものだ




mardi 24 juillet 2012

時間とエネルゲイア再び


これまでの動き回る生活から一転、留まる生活へ
外を歩くと体が重い
時の流れが違って見える

やはり一日は長い
体力と気力さえあれば、相当のことができそうである
 特に、その中に入り、所謂時間が消える時に旅する感覚は何とも言えない
数時間が永遠にも感じられる
しかし、そういう時は少ない

今度は少し離れて眺めてみる
そうすると、一週間があっという間に廻ってくる
この世に存在している時間は長いようでもあり、短くもあるのだ

そこでどうするのか
やはり、今に入り込む以外にないのかもしれない
理想は、改めてエネルゲイアなのだろうか






dimanche 22 juillet 2012

本格的な庵から


このところ期待通りの籠もる生活が続いている
慣れない作家生活
定点に落ち着いて 「こと」 を始めるというところだろうか
新たなフェーズに入った観がある

ブログを始めて外に声を出したのが2005年
それ以前の仕事をしていた状態に戻るような印象もある
たまに息をするために川面に顔を出す魚のようにここに現れる
7年を経て、それも悪くないだろう

このところのパリは毎日天候が変わっている
寒暖の差がある
ただ、からっとしているので快適である




jeudi 19 juillet 2012

新石器時代への移行、あるいは生まれて初めての作家生活


朝、アパルトマンでぼんやりしている時のこと
こんな考えが浮かぶ

人類が経験した一大革命であった新石器時代
それまで狩りに明け暮れていたわれわれの祖先
この時代に生活のスタイルを改め、農民になる
食料を身近で手に入れることができるようになる
一か所に落ち着いて共同体を作る

環境との関わりがそれまでとは一変する
従うしかなかった自然に手を加えるようになる
周りの動物や植物との関係も変わる
われわれを取り巻く環境が人工的になる始まりである
生活の変化はいろいろな病理を生み出すことになる
体の内と外の両方で

翻って自らの姿を思い浮かべる
これからはアパルトマンに籠もり、作家生活をすることになるのか
少なくとも1年はかかるだろう長丁場
生まれて初めてのことだ
ついに sedentary lifestyle が始まる

リブレリーに出たり、接触を求めていたのは狩りの一種だったのだろう
昨日のリブレリーではあまり反応しなくなっていた
これからまさに新しい新石器時代に入ろうとしているのか
最初の時代から1万年を経た今
この後に控えているのは一体どんな景色なのだろうか



mardi 17 juillet 2012

歩みを始める日、コルトレーンが現れる


今日は教授とのランデブー
わたしが書いた大雑把な計画についてディスカッション
実りの多い時間となった
細部は除き、方向性はよさそうなので歩み始めることになった

ランデブーの後、リブレリーへ
哲学セクションでは燃えず
店を出る時、この本が目に留まる 

John Coltrane (Méditation) 
Zéno Bianu (né à Paris en 1950)

早速カフェへ
コルトレーンの音楽を詩人が謳っている
声を出しながら読む
そこにはスケールが大きく、しかも深い世界があることを想像させる
久しぶりに晴れ上がったパリ
詩人の声に導かれるように、どこまでも果てしなく広がる空想に身を委ねる

いくつか曲名も出てくる
My favorite things
1966年7月22日の東京でのバージョンは57分と19秒もあるという
Youtubeでは見つからなかった
それから AlabamaGreensleevesOlatunji、、、などが見える

そして、Naima が現れた


早速聴いてみることにした



Live in Belgium, 1965
John Coltrane (Tenor Sax)
with McCoy Tyner (Piano), Jimmy Garrison (Bass), Elvin Jones (Drums)




lundi 16 juillet 2012

初めの数分


本でも雑誌でも読み始めて数分で表れる言葉に反応することが多い
そこから空想が広がるのである
それが繋がりを見せると、留まることを知らない
しかし、2-3時間すると疲れるのか飽きるのか
それ以上進めることができなくなり、手を休める
 
同じような空想の糸は仕事をしていた時にも見えていたはずである
当時は、今は時間がないからとか、これから何かをしなければならないからとかいって止めていたのだろう
 その中に浸りきることをしていなかった

メモに残っているものの中には、こうした時間に起ったことも含まれている
それを読むと全く別人の頭の中を見るような風情がある
その感覚が何とも言えずよいのである
自分の知らない人間がそこに現れるといったところだろうか




samedi 14 juillet 2012

ヒンバ族が見る世界、あるいは人が接触する時に起こること


今日は革命記念日
曇ったり、雨が降ったり、青空が見えたりで
少し肌寒い

今週はデルフトの古本屋で手に入れたものをぱらぱらと眺めていた
ダーウィンも会員だったイギリスの王立協会の歴史を各分野の専門家が綴ったものである
 読みながら、そうとは知らずに手に入れていたことがわかった
調べた限り、まだ日本語には訳されていないようだ

Seeing Further edited by Bill Bryson (Harper, 2010)

この中に興味深いピソードが出ていた
その章を書いた著者がアメリカ南部の大学を訪れた時のこと
そこの人類学者がナミビアヒンバ族(Himba)のフィールドワークでの経験を話してくれたという
ナミビアでこういう会話があったようだ
ヒンバ族 「西洋人はお互いの間が何もない空だと本当に考えているのですか」
アメリカ人研究者 「はい。それがわれわれの科学が教えている世界です」
ヒンバ族 「われわれの世界観ではそれぞれの人の周りに個人のスペースのようなものがあります。人が交わる時にはその空間が交錯するのが見えるのです。そのため、誰かと空間を共有していることになり、孤独であると感じることは稀です」
そう言ってから、アメリカ人研究者にこう聞いてきたという
「何もない空の中で誰とも接触しない状態に一体どうやって耐え忍ぶのですか?」
著者は、社会としてわれわれはその孤独に耐えてはいないと見ている。
ダンテとは異なり、われわれはこの空間で迷っていると結論している。


わたしがフランスで生活を始めて数年経った時のこと
アパルトマンの周辺で道行く人たちを眺めているうちに、皆さんがゆったりと生活していることに気付くようになる
そして、それぞれの人が体の周りにそれぞれの空間を携えて歩いているように見えるようになったのである
このエピソードに反応した理由がここにある
まさにヒンバ族の世界にいることになる
ただ、ヒンバ族のようにお互いが出会う時に、それぞれの空間が融合するようには感じていなかった
ヒンバ族のように人間の周りを見ることができるようになると、この世界は全く新しいものになるだろう



もう一つ興味深かったのは、このビデオにあるヒンバ族の色覚である
ヒンバ族の見ている世界はわれわれの世界とは少し違う
それは色を形容する言葉の存在と関係があるようだ
不思議である

人間がこの世界をどう見ているのか
この世界がどう見えているのか
それはなかなかわからない

突き詰めると、とことん話をしなければわからないのだろう
ヒンバ族の色覚にしても接触して、話をしながらの検査で明らかになったのである
もちろん話でも十分ではないだろう
しかし、慮るなどということでは到底理解には達しないことはわかる
人と人との深いところでの接触
表層や形ではないところでの接触が必要になる

 これは国や文化においても当て嵌まるだろう
そして、これからのポイントになるかもしれない
精神の自由な発露とそれを表現する術が求められることになる
仕事の世界に留まっていては駄目なのだ
「それ以外」 を活性化して、すべての人が芸術家にならなければならないことになる



jeudi 12 juillet 2012

この時期の意味


ブログを書く必要もなく、ネットへの接続もない状態
外に出た時に少し覗くくらい
それで生活に何の支障もない

気付いたことは、持続的に集中するためにはむしろこちらの方がよいということ
これまで如何に気を散らしていたのかがわかる
ただ、最初から一点に集中するのであれば、何のために来ていたのかわからなくなる
 幅広くリベラル・アーツを学びたいと思って来たのだから

本来は大学院なので専門課程なのだが、教養課程の気分でやってきたのである
それが最近専門課程を始めましょうか、という気分になっている
5年という時間を経て、やっと

これからがこれまでの蓄積のまとめの時期であることがわかってきた
そして何よりも、そのことに身も心も違和感を感じなくなってきている
実は昨年その方向に進もうとしたのだが、まだ早いと感じたのか体が動かなかった
上空を飛んでいたのが4年で、着陸までに1年かかったことになる
やはり、時間なのだろうか

こちらに来てからは、無理をして精神的プレッシャーをかけないようにしている
心が自然に向かうようになるまで待つことができるようになったせいだろう
こうなるまでに5年かかったことになる

仏教の世界で言うと、 パリでの生活は遊行期に当たるのだろうか
この期に小休止の時間などがあるのかどうかわからないが、今まさに振り返る時が来たようである
すべての人がそこに到達することはないのだろうが、遊行期は悟りに向かう過程だと読んだことがある

もしダーウィンに当てはめるとすれば、こうなるだろう
奇しくも同じ5年に亘るビーグル号での航海で貯め込んだものを整理する時期の始まり
こちらも誰もが進化論に辿り着くなどとは考えられないだろうが、、、




dimanche 8 juillet 2012

nomade ではなく monade だったのか


先日取り上げたライプニッツさん(1646-1716)のモナドロジー
この世界を構成する最小単位として、部分を持たないモナド(monade)を考える
 それは時空間を占めないという
つまり、モナドは物理的な存在というよりは心的存在と言える
モナドロジーの世界には時間と空間の他に、心の働きをする最小単位の cognitio があるとする
後にライプニッツさんは、時間と空間は cognitio の働きにより創られると考えるようになる

古代ギリシャのデモクリトスさんらが唱えた原子論とは異なることがわかる
原子論でも分割不能の原子を想定するが、それはあくまでも物理的な空間を動き回る存在である

モナドは宇宙の他のモナドの状態を感知できる
世界を内に取り込み、内の状態を変化させることができる
モナドは物理的な世界を超えているがゆえに、自由に関わりを持つことができる
内に存在する規則に自ら従いながら
そして、内なる変化の過程を持続することができるのである

この世界観にはあまり違和感を感じない
これまでノマド(nomade)ではないかと思っていたが、実はモナドだったのかもしれない
あるいは、モナドゆえのノマドだったことになるのか


Jugendbildnis / Portrait de jeunesse (1988)
Gerhard Richter (1932-)


そんな考えが浮かんできた日曜の朝
何の前触れもなく、ネットに繋げてくれるボックスのランプが消えた
線をいじっても、箱を叩いても駄目
この世には意味のないことはないと考えたライプニッツさんに肖って、思いを巡らせてみる

このところ、受け身のままにネットを歩き回っては時間を潰す生活が続いている
そろそろそこから離れて本業に向き合ってみては、というお告げではないのか
 すぐに浮かんでくるのはこの程度である

ということで、今日はカフェからのアップとなった
当分の間、カフェやビブリオテークで時間のある時に綴ることになりそうだ




samedi 7 juillet 2012

哲学サイト Philosophy Zoo から現れた志村ふくみという染織家


今日はパリらしい一日だった
朝、曇っていたが小雨が降り、青空が覗いたかと思うと再び曇り、雨が降る
午後も曇りから強い雨、すぐ止んだかと思うとまた降り出す
そして、今は光が漏れる曇りに落ち着いている
ということで、雨音を何度も味わうことができた

疲れがたまっているので、受け身に徹することにした
ネットを歩き回っている時、こんなサイトが日本にあったのか、というところが現れた
哲学を広めようとしているサイトのようである
その中にあったインタビューを聴いてみる

染織家・志村ふくみさん (1924-) のお話 (2011)
ゲーテと染織と:

その他のものもいくつか聴いてみた
専門家になればなるほど面白味がなくなるように感じるのはなぜだろうか
 狭いところに入り込むあまり、哲学から遠ざかってしまうからではないのか
大学という場所は哲学に向いていないかもしれない、と言ってしまうと過ぎるだろうか
あるいは、学問的哲学にはわたしの方が向いていないということになるのかもしれない

と書いたところで、今日何度目かの雨音が聞こえてきた
これが素晴らしい一日の締めくくりになるのだろうか




vendredi 6 juillet 2012

蕩けるようなセーヌの川面



夕方、散策に出る
さまざまな形と色の雲を眺めながら
一日中見ていても飽きない
久しぶりにセーヌに足を伸ばす
川面が柔らかく蕩けるように揺れている
色っぽい姿だ
なぜかレストランでディネでもしたい気分になる




jeudi 5 juillet 2012

医学の倫理の本を眺める


昨日から始まった鼻水とくしゃみ
鼻の詰まり方など、どことなくアレルギーの香りがする
新種に対するものなのか、もう少し様子を見てみたい

午後から用事を足しに外に出る
終わった後、カフェで届いたばかりの本を読む
新しい考えにつなげることができないかとヒントを探しながら

昨日、荷物をひっくり返している時、帰国の折に持ち帰った本が出てくる
澤瀉久敬著 「医学の倫理」 (誠信書房、1971)
この本も一緒に持って出て、少しだけ目を通す
父親の本棚からのもので、線が引かれ、メモが残っている
その部分はまだ読んでいないが、不思議な感じである

澤瀉氏の「医学概論」((誠信書房、1965))についてはこの4月、徳島大学での講義の前に目を通している


 昔に比べ非常に読みやすく、分かりやすくなっている
一つには、ある程度の教育を受けたこと
それに合わせて自分なりに読み考えたことも影響しているだろう

それから、古い本は領域を問わずなぜかよく入ってくる
 彼らより知識は増えているという意識でもあるのだろうか
全体を手中に入れたような読み方ができるのである
奥深くで固まっていたものを溶かすような感覚もある
同時代の人のものではなかなかそうはいかない

 それとは別に今回感じたのは、ものの捉え方、視線の方向にわたしと近いものがあるのではないかということ
つまみ読みの範囲だが、似たような表現を使っていたり、取り上げている哲学者に違和感がなかったりする
澤瀉氏の専門がフランス哲学だったということも関係しているのだろうか

 いずれにせよ、倫理に興味を持つようになろうとは全く想像できなかった
パリ生活を重ねるうちに興味が熟してきたのではないかと想像している
時の流れは興味深い





mercredi 4 juillet 2012

くしゃみと鼻水の中、再びの妄想


デルフトのホテルに忘れたメモ用ノートがひと月ぶりに戻った
ロッテルダムでは慌てたが、振り返るともっとゆっくり時間を味わうべきだった

今朝はくしゃみと鼻水が出る
疲れだろう
午後から買い物のため街に出る
カフェで読んでからリブレリーへ

このところ受容体の感度が落ちてきているのか、食指の伸びる回数が減っている
中の入れ物が満杯になったのだろう
以前と違うのは、その状態に不満を感じなくなっていることである
先日の妄想ではないが、この中を覗くのがこれからの仕事だという心境になりつつあるのだろうか




mardi 3 juillet 2012

見ることと見られていること


この世界に生きている時、目の前に広がる世界が自然に目を通して入ってくる
日々、この世界を見ている
同時に、この世界の中に生きているということは、世界の一部を構成していることを意味している
他の目に曝されているのである
 わたしの場合、前段は意識しているが、後段は全く意識に上っていなかったようである

そのことに気付いたのは、先日あるお便りを読んでいた時のこと
 そこに、わたしの昔の姿から今を想像していることを思わせる言葉を見つけたからである
以前にも、昔話に出てくるわたしに会ってみたいという気持ちになったことはある
その時、自分が観察対象になっていたことに対する驚きを伴っていたはずである
しかし、そのことをはっきり意識するところまでは行かなかった

このように一方向の認識しかない状態は、精神的な負担や縛りが少ないように見える
今、学生などができているのも、ひょっとするとこのお蔭かもしれない
ただ、あまり civilized な状態とは言えないような気もしてくる
いずれにしても、これまでそれで通してきたことに驚かざるを得ない



lundi 2 juillet 2012

この世界を理解したければ、目を内に向けよ

Drie bollen II / Three spheres II (1946)
Maurits Cornelis Escher, 1898-1972)


17世紀ドイツの数学者にして哲学者のライプニッツさん (Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)
未だその偉大さを理解するところまで行っていない
その哲学の中にモナドロジーがある
世界を構成する基本となる素子として、部分のないモナド (単子) を想定する
そのモナドは鏡となって外の世界を映し出しているという
モナドの中には世界が存在することになる
敷衍すれば、世界を理解するためには、内を子細に観察すればよいことになる

こちらに来て早5年が経過しようとしている
この間、外に出て、体全体で感じたものを吸収しようとしてきた
そのすべてはメモやカイエやブログやいただいた資料や手に入れた本、そしてこの精神・魂の中に刻まれているはずである
これからやることは、「いま・ここ」 にある内の世界に目をやり、分析することではないのか
そこにこそ、世界の姿、ひょっとすると世界の本質が隠されているかもしれない
ライプニッツ哲学の有効性を試してみてはどうだろうか

そんな妄想が浮かんだ今年後半初日の昼下がり



dimanche 1 juillet 2012

一日に一つだけ


今年の後半が始まった
7月の初日は秋の風情があった

今日は昨日の続きで、文章を読んでは、削り、磨き、また読む
この繰り返し
夕方には場所を変えて読み直す
まだ練り直す必要がありそうだ

フーヴァー大統領の印象が残っているためだろうか
それが見えない圧力、あるいは激励になり、集中力が高まっているように見える
あとは、テーマを一日一つに絞ることにしたのも集中しやすくしているのだろう
一時期に二つも三つもと欲張ると、気が散って結局虻蜂取らずになるからだ
それにしても長い間気を散らしていたものである
一日ひとつでよいと諦めることだろう