vendredi 30 septembre 2011

書く手を休めて


Portrait d'homme âgé (vers 1765)
Jean-Honoré Fragonard (1732-1806)



新しい装いになり、これまで書く度にどんどんどこかに消えていった記事をもう一度見直してみたいという気分が生れている。単にスキンが変わるというのではなく、記事が一つの物のように次々と姿を変える様を見ているうちに、それらが自分から離れ、その辺りに転がっている石ころのように感じられたためかもしれない。前のブログにもこのようなモデルがあるとよいのだが、、。

これまで何度か見直そうという気分になったが、実現するところまで行かなかった。書く手を少し休めることにより、さっぱり進む気配のない目の前の別の仕事が捗りそうな予感もする。それだけこの場には力が入っていた証拠になる。また、記事の中にはこれからの仕事の参考になるものが含まれている可能性もある。しばらくは気分に任せての投稿になりそうである。



jeudi 29 septembre 2011

模様替えをする


Surprise
(1910)
Michel de Tarnowsky (Nice, 1870-Nice, 1946)


ブログに新しいモデルができたという案内に初めて気付く。その名も Dynamic Views。これまで通りのクラッシックなスタイルもあるが、上にあるメニューバーから他の配列も選べるようになっている。これまでに書いた記事が俯瞰できるように工夫されているので、ブログ全体を鷲掴みにしている感覚が生れる。すべてが時の流れを超えて一つの平面に並べられるので、過去が埋もれてしまうことがないという不思議な感覚でもある。適当な頻度でこのスタイルに替えるというのも面白そうだ。


mercredi 28 septembre 2011

「自由意志」 を聴き、"Les Hommes libres" を観る



昨日が遅かったせいか、スロースタートになった。

今朝はBBCの哲学Podcastsにあった自由意志(Free Will)を聴きながらの遅いプティ・デジュネ。軽快に話が進むので気持ちがよい。ウィキなどで関連の概念や哲学者について読む。決定論と自由意志との関係が問題になる。この二つが両立するという立場と決定論の下では自由意志はあり得ないとする立場の両極の間にいくつかのニュアンスがあるようだ。また、この問題と道徳が絡んでくる。この世界が決定論で動いていて自由意志の入る余地がないとすれば、道徳は成立するのかというところに行く。拡がりの大きな問題で、いずれじっくり考えなければならないだろう。

午後からは読みに出る。今日は少し歩いただけで汗が滲み出る暑さだった。2-3時間だったが、珍しく集中できた。読んだ対象がよかったのだろう。これからに繋がる糸が一つ見つかったようで、このところの滅入る気分が少しだけ晴れる。その勢いで「自由の男たち」を観ることにした。




第二次大戦中のナチス・ドイツに占領されたパリが舞台。アルジェリアから来た男が闇で取引していたために捕まる。そこで警察に取引を持ちかけられる。レジスタンスやユダヤ人に力を貸しているのではないかと疑われている導師のいるモスクに入り、そこで起こることをすべて報告するように言われる。

全編を流れるアラブの音楽を堪能する。
そして、モスクでの生活の様子も味わうことができた。
この映画、今日が初日だったようだ。




途中、印象的なトランペットの音楽が流れていた。最後に、イブラヒム・マールーフさんであることがわかる。前ブログで取り上げた方である。改めて、味わってみたい。


自分の声を聞いてみれば(2010-07-07)


mardi 27 septembre 2011

科学万能時代の哲学



科学全盛、科学万能と言われる時代が続いている。科学の齎す成果はわれわれの生活を楽にするだけだと思われていた時のみならず、その生活を破壊する力を持つことが明らかになってもその流れは止まらない。

先日、ベルグソン (1859-1941) の本を齧っていた。生命をより複雑な方向へ導く予測不能で創造的な力とでも言うべきエラン・ヴィタル (élan vital) という概念を考え出して、生命の進化を論じた方である。この概念には実体がないとして、科学者からは否定的に見られることが多い。科学万能の時代に生きている者は、科学で証明できるものでなければ意味がないという考えに染まり切っている。その範囲でしか、ものが見えなくなっている。この思考様式が世界を覆っているのではないだろうか。昨日感じたのは、科学に考えることを任せてしまい、わたしたちはものを考えなくなっているのではないかという疑念であった。

それだけでも問題である。しかしそれ以上に問題なのは、ハイデッガー (1889-1976) も指摘しているように、考えることを任せている科学はそもそも考えない。科学は科学という制約の中でしかものを見、考えることができない。つまり、科学がやっていることについて判断する力はないのである。科学に身を任せてしまうと科学の外にある枠組みが見えなくなる。科学の外に出てみると、このことがよくわかるようになる。

できるだけ広いところからものを見ようとする動きをすることは、哲学の一つの姿勢である。その姿勢を採ることにより、それ以前に支えてくれていた柵がなくなり自分で考えざるを得なくなる。昨日感じたのは、自分で必死に考えようとしている哲学者の精神運動であった。

ここで言いたかったのは、科学の骨格を作っている考え方の否定ではない。それを徹底した上で、そこを超えなければならないという思いである。もちろん、前段の科学精神の徹底さえ未だままならない状態では先の長い話である。科学が芸術や文学、人間の精神的姿勢や理解などに大きな役割を果たしていないという意味で、現代は科学時代ではないと言った哲学嫌いのリチャード・ファインマンさん (1918-1988) にも同意しなければならない。今いるインターフェースからだけでも多くの課題がわたしたちの前に横たわっているのが見えてくる。


lundi 26 septembre 2011

やっと立ち上がる、しかし・・・



今日は午前中近くのカフェへ。これまで開店は10時半だったが、いつからか2時間早くなり、カフェらしくなってきた。これからもっと頻繁に使えそうである。カフェが開くまでの時間つぶしに入ったプレスで1冊仕入れる。2時間ほど読んでから、久し振りにビブリオテークへ向かった。

やっと仕事に取り掛かる気分になってくる。そしてわかったことは、準備ができていないということだ。専門課程に入っているのになぜか教養課程の勉強をしていたような印象である。これから2年ほどかけてやるつもりになった方が精神衛生にはよさそうだ。



dimanche 25 septembre 2011

人間への道、あるいは大石又七という方



今年の7月3日に放送されたという大江健三郎と大石又七という方の対談を観る。大石又七さんは1954年3月、第五福竜丸で操業中、ビキニ沖でアメリカの水爆実験に遭遇し、被曝された方である。お話を伺いながら、立派な日本人がいることに感動する。どの言葉にも真実が宿っていることが伝わってくる。77歳までの人生を苦しみ考えながら歩まれてきたこと、そしてその過程で新しい人間が創り上げられたのではないかと想像させるに十分なお姿であった。

大江氏のお話にも注意を引く言葉があった。一つは彼の母親の言葉で、真面目な言葉を発した後に真面目な言葉が返ってくるような環境で生活しなさいという教え。田舎の大人たちがいつも冗談めかした話しかしないのを不思議に思った大江少年の疑問に答えてのものだったという。もう一つは、お医者さんの例で話していたが、一般に専門家はその対象と自分を切り離している存在であるという観察である。これはここでも何度か触れたこととも関係するが、おそらく当たっているのではないだろうか。その上で、自分は小説家という専門家ではない人間として生きることがよいことではないかと考えていると語っていた。今、専門を離れた立場になり、大江氏の言いたいところがよくわかるようになっている。

専門性と責任の関連を考える (2010-05-16)











samedi 24 septembre 2011

ロバート・オッペンハイマーの人生を観る Robert Oppenheimer



昨夜、PBSでロバート・オッペンハイマー (1904-1967) の複雑な人生も眺める。この映画では証言がふんだんに取り入れられていて、実像が浮かび上がる。若き日の彼は感情面での発達にバランスを欠き、未熟な人間として映ったという。ハーバード大学を3年で卒業後、ケンブリッジ大学で実験物理学を始めるが科学者としての才能に疑いを持つ。しかし、ドイツで理論物理学をやるようになり、自分の進むべき道を見つける。25歳にして世界的な研究者としてアメリカに戻り、カリフォルニアで教え始める。講義は難解を極めた。個人的にも彼の言葉は常に計算されていて、心から出ているようには見えなかった。それは高慢さからなのか、優越性を示すためだったのか。いつもステージに上がっているようで、同僚としての付き合いは難しかったようだ。

常に科学だけに興味を持っていたが、1936年から社会の動きにも興味を示すようになる。最初の恋人になる医学生が共産党員だったこと、妻になる女性も元共産党員だったことも関係しているようだ。彼自身が党員だったという証拠は残っていないようだが、妻だけでなく彼の弟も弟の妻も共産党員だったことからシンパシーは感じていた。国家の機密を知り過ぎた男として厳しい監視下に置かれる。原爆の後、冷戦期に入ると国への忠誠が問われることになった。・・・・残念ながらこのあたりまでしか進めなかったが、考えさせる内容に溢れていた。

科学者としての最高の栄光に辿り着き、それがために地獄をも味わうことになった二人の科学者。第一次大戦に関わったフリッツ・ハーバーと第二次大戦に関わったロバート・オッペンハイマー。いずれも複雑な人間だった。科学者としても優秀だった。科学を進める魔力的な力をこの二人は内に秘めていた。今は単純に裁くのではなく、それぞれの中をもっと知りたいという気持ちが湧いている。




The Trials of J. Robert Oppenheimer









vendredi 23 septembre 2011

フリッツ・ハーバーという科学者 Fritz Haber


「化学兵器の父」 と言わるフリッツ・ハーバー (1868–1934) という化学者がいた。非常に野心的だったようで、ユダヤ人だったが後に改宗している。第一次世界大戦で使われた毒ガスの開発に関与。同じく科学者だった妻のクララはそれには同意せず、1915年銃で自殺。息子も自殺している。1917年に再婚。1918年にはアンモニアの合成などの業績でノーベル化学賞を受賞。後にナチがガス室で用いることになるツィクロンBのもとになったツィクロンAを作る。ベルリンではアインシュタインとも親交があったが、ヨーロッパの将来の捉え方が全く異なっていた。ドイツに忠誠を誓い、社会に受け入れられるために努めてきたハーバーだったが、ナチの台頭で国外に逃れざるを得なくなる。最終的にはスイスで亡くなり、最初の妻と一緒に葬られている。アインシュタインはハーバーの人生をドイツのユダヤ人の悲劇であると語っている。

彼の人生が語られているBBCのサイトがある。
The Chemist of Life and Death


jeudi 22 septembre 2011

セミナーでノスタルジックな気分が襲う



今日はお昼から外に出てしばらく読み、夕方のセミナーへ。新しいシリーズの初日になる。オーガナイザーが新しくなり、しばらく参加していなかったせいか、メンバーの大半は知らない人になっている。なぜか不思議な気分になる。確実に時が流れ、かつて同時代人として参加していた時の輝きは失われている。もう遥か彼方に過ぎ去ってしまったという感情だろうか。しかし、その場が新しくなっているというよりは、いまだ過去の中にいるといるという矛盾した気持ちである。必死にやっていたマスターの時間を越える時間が流れているのだ。ある種ノスタルジックな気分が襲っても不思議ではないだろう。自分の知っている人がこの世からいなくなった老人の心境とはこんなものではないかと想像させるくらいである。

セミナーの前、久し振りに英語のリブレリーに寄る。いくつか目に付いたが、そのままにする。読みたいという気持ちが持続しているようであれば手に入れることにした。セミナー終了後、カフェで再び読みとまとめをやる。未だ非生産的な生活が続いている。



mercredi 21 septembre 2011

カール・セーガンさんの "CONTACT" をやっと観る



"Contact" (1997)


気にはなっていたが、観るところまで行かなかった映画をYoutubeで観る。いつもの感想になるが、このような映画だとは思わなかった。原作者のカール・セーガンさんは、アメリカ時代に本やテレビで活躍されていたので、今でも身近に感じている。専門に関してはよくわからないが、科学の普及者 vulgarisateur としては第一級の方と言えるのではないだろうか。

会議三日目、気分すっきり二題、不思議一題 (2011年6月24日)


この映画では科学を取り巻く問題のほとんどすべてが扱われている。例えば、純粋な知的追求なのか利益の追求か、科学と信仰、科学と哲学、そして科学と社会など。もちろん、多くの人を楽しませるのが第一のハリウッド映画なので、取り上げ方が浅い印象は拭えないが、問題点は的確に提示されていた。ふと、このような捉え方ができるのは、あるいはこのような捉え方になるのはこちらに来てからの蓄積が関係しているのではないか、という思いが浮かぶ。公開されて14年、やっと味わうことができた。







mardi 20 septembre 2011

ナンニ・モレッティさんの "Habemus Papam"からメルセデス・ソーサさんが飛び出す


Habemus Papam
réalisé par Nanni Moretti (1953-)


Habemus Papam とは、英語で言えば "We have a Pope!"。新しいローマ教皇が選ばれた時に、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂のバルコンから発せられる言葉である。この映画では新教皇がその言葉を聞くが、バルコンに出て祝福の言葉を発するのを拒否する。何がその背後にあるのか。どのような葛藤があるのか、あったのか、いろいろ想像しながら観ていた。バチカンを逃れて街を放浪するが、最後に呼び戻され再びその機会が訪れる。そしてバルコンから発せられた言葉は・・・。信仰そのものに疑念を抱いていたのだろうか。感受性のなさか、最後まで葛藤の中身が掴めなかった。





映し出される世界はヨーロッパの美しさに溢れていた。主演のミシェル・ピコリさんMichel Piccoli, 1925- )、好感が持てる味のある演技だった。そして、一番の収穫はメルセデス・ソーサさんMercedes Sosa, 1935-2009) が歌う Todo cambia の音楽と何ともユーモラスなそのシーンだったかもしれない。もっと聞きたいと思うところで消えていったのは残念だった。

曲のタイトルは 「すべては変わる」

表面だけでなく深いところを変えると、心の持ちようが変わり、世界のすべてが変わる。
自然が変わるように、私も変わる。何の不思議もない。
すべてを変える。すべてが変わる。
昨日変わったものは、明日変えなければならない。
ただ、愛だけは変えないように。

というようなことが謳われている。
ここでその神々しい歌声を再び味わい直してみたい。




ソーサさんは日本でも2回公演し、今から2年前に亡くなっている。
システィーナ礼拝堂でも歌ったことがあるようだ。
そこにいた方であったが、全く気付かなかった。


lundi 19 septembre 2011

ニーチェのフランス観、あるいはフランスへの愛



・・・・・・普段私が頼みとしているのは、ほとんどきまって同じ書物、結局は少数の、まさに私向きの本だと証明ずみの書物ばかりである。多量かつ多種類の本を読むのは、おそらく私の流儀ではあるまい。書斎などというものは私を病気にしてしまう。多量かつ多種類の本を愛好するのもまた、私の流儀ではない。新刊書に対する用心深さ、否、敵意とさえいるものが、「寛容」 や 「雅量」 やその他の 「隣人愛」 よりも、ずっと私の本能に属している。

・・・・・・結局、私がいつもそこへ立ち戻って行くのは、少数の、やや前時代のフランス人の許へである。私はフランス的教養をしか信じない。通例ヨーロッパで教養の名で呼ばれているものは、ことごとく誤解だと私は思っている。ドイツ的教養に至っては言わずもがなである。

・・・・・・ごく稀に私はドイツでも高い教養を持った人に出会ったことがあるが、それはすべてフランス系統のものであった。なかでもコージマ・ヴァーグナー夫人。趣味の問題にかけて夫人が放った発言は、私が聞いた限りではずば抜けて第一級の言葉である。




・・・・・・私はパスカルを読むのではなく、愛している。パスカルはキリスト教の犠牲として最も教訓に富む事例であって、はじめは肉体的に、次いで心理的に、じわりじわりと嬲り殺しにされて行ったのだが、この身の毛もよだつ形式の非人間的残虐の全論理を、私は愛している。私はモンテーニュの洒落気たっぷりの悪戯心の幾つかを精神の中に、否、ことによったら身体の中にも受け継いでいるかもしれない。私の芸術家に対する趣味は、モリエールコルネイユラシーヌの名前を、多少業腹だと思わなくもないが、シェイクスピアのような野性的天才に対抗して庇護している。以上、前時代のフランス人たちばかりを取り上げたからといって、それはごく最近のフランス人たちも私にとってやはり魅力ある一団をなしていることを、何ら妨げるものではない。歴史上どの世紀に網を張っても、現代のパリにおけるほど、あれほど好奇心に溢れ、しかもあれほど繊細さに満ちた心理家たちを掬い蒐められる世紀がほかにあるかどうか、私はまったく見当がつかない。試みに――というのはその数たるや決して小さくないからだが――これら心理家たちの名を挙げてみよう。ポール・ブールジェピエール・ロティ、ジプ、メイヤックアナトール・フランスジュール・ルメートルの諸氏。もしくは、この強力な種族の中から唯一人を強調するとすれば、私が特別に愛好している生粋のラテン人、ギィ・ド・モーパッサン。打ち明けて言うと、私は以上の名を挙げた人々の属するこの世代を、彼らの偉大な先生格の人々の属する前時代よりも好きである。先生格の人々はおしなべてドイツ哲学によって毒されている。例えばテーヌ氏ヘーゲルによって毒され、ヘーゲルのお蔭で、彼は偉大な時代や偉大な人間を誤解してしまっている。ドイツの息がかかると、文化は駄目になるのだ。戦争が来てやっとのことでフランスの精神は 「救済」 されたのである。




・・・・・・スタンダールは私の生涯における最も美しい偶然の一つだといえる。――なぜなら、私の生涯において画期的なことはすべて、偶然が私に投げて寄越したのであって、決して誰かの推薦によるのではない。――このスタンダールという人こそ、まことに並みの評価の及ばぬ存在である。物事の先を読む心理家としてのその眼。ナポレオンという当時の最大の事実性の間近にいたことを想起させるその事実把握 (すなわち、「爪によってナポレオンを知る」 ex ungue Napoleonem)。最後に、彼が正直な無神論者であることも、少からず貴重なことだと思う。無神論者というのはフランスではきわめて数の少ない、ほとんど見当たらない種族なのであるから。――もっともこの点ではプロスペル・メリメにも敬意を払っておかなくてはならないが。

・・・・・・ひょっとするとかく言う私自身は、スタンダールを嫉んでいるのではあるまいか? 彼は 「神がなし得る唯一の弁解釈明は、神が存在しないことである」 という、最良の無神論的警句を残しているが、これはこの私こそが吐き得たろうと思われる言葉であって、彼に横取りされてしまったのだ。


ニーチェ 「この人を見よ」 (西尾幹二訳)




dimanche 18 septembre 2011

'科学的'哲学を超えた作品の創造



「哲学者とは自らの人生を最初の作品にする創造的な芸術家である」


このようなことを言ったのはニーチェだっただろうか。
その人の考えてきたことが生き方と繋がっていなければ意味がない。
考えることにより自らを変容させていく。
そうしながらより人間に近くなっていく。
存在そのものがその人の思想を体現している。
生き方としての哲学、魂の癒しとしての哲学をも目指したのがニーチェだ。

これが忙しい仕事に追われている現代人に可能だろうか。
外の世界と距離をとり、自らの中に入り、自らを振り返る。
エピクロスの園に入り、自らのエッセンスを探り、知と情を調和させる。
それにより自らを創り直すこと。
現代人にこの瞑想の時間がどれだけ取れるだろうか。
その時間を意識して取らなければ、自らに嵌められている足枷に気付くこともないだろう。

それは大学の哲学学徒とて同じことだ。
対象となる内容は異なるが、対象に向かう姿勢は他の専門と何ら変わらない。
科学と同じ精神状態でやって行けるのである。
哲学が科学になっている証拠だろう。
哲学が何たるかも知らずにこの道に入った者の目にはそう映る。


ところで、これから論文作成をすることになる。
そこに向かうには科学の世界での精神状態を取り戻さなければならない。
理性を取り戻し、立ち上がらなければならない。
瞑想の中に入り、生き方としての哲学に寄り掛かっているとなかなか立ち上がれない。
学問としての哲学と生き方としての哲学の間には深い溝がありそうだ。
この溝を自由に往復できるようになるのは一体いつになるのだろうか。



samedi 17 septembre 2011

雪だるまの要領で、そして何かが進んでいる



昨日の続きではないが、このところの不規則な生活と寝不足のためか、今朝くしゃみと鼻水が出る。カント流に朝の紅茶を味わってから、科学の資料を読むために外に出る。このところ、生き方としての哲学や形而上学に関連した文章を読んでいたので新鮮で、頭の中がすっきりしてくる。いろいろとアイディアは出てくるが、それは飽くまでも小さな種が散らばっているに過ぎない。これからやらなければならないことを考えると、気持ちだけが先走る。立ち往生してどれにも手がつかないという状態だ。ここは雪だるまを作る要領で、とにかく小さいものをゆっくりと転がして行くしかなさそうだ。

帰りに久し振りにトルコのサンドイッチ屋さんに入り、肉を頬張る。鼻水が止まらず、頭がぼーっとしている。そこを出て買い物をしようとしてポケットに手をやると財布がない。どうしてそういうことになるのか、という思いで前の店に走る。全力で走るのは久し振りだ。途中、もし知りませんよと言われたらカードの処理や学生証の再発行など面倒なことになると思いながら急いだ。幸い御主人と息子さんが笑いながら迎えてくれたのでホッとする。もし買い物でもしましょうかと思っていなければ、大変な距離を戻らなければならなかった。考えただけでもゾッとする。確実に何かが進行しているようだ。


vendredi 16 septembre 2011

カントの日課、マルセル・コンシュさんの日課


Kant bei seinem Mittagsmahl
(1892)
Emill Dörstling (1859-1939)


マルセル・コンシュさんの新しい本を読んでいたところ、カント (1724-1804) の日課が出てきた。それによると、こんな具合だ。

朝の5時5分前、プロセインの兵士だったマルティン・ランぺ (ドイツ語では Martin Lampe だが、フランス語では Lempe なのか) が御主人の寝室に入り、「時間です」 と告げる。カントは5時にはテーブルに着き、紅茶を1-2杯飲む。そして、日一度だけのパイプを燻らす。7時にその哲学者は講義に出掛ける。帰ってきて午後1時15分前まで書斎で仕事をする。その時、料理人がランぺとともに 「45分になりました」 と言いに来る。昼食にはグラス半分のラインかハンガリーワインを飲み、お客さんが来るのを待つ。会話を楽しみにしていて、ひとりで食事をするのを嫌っていた。客は2人から時には5人くらいで (冒頭の 「昼食でのカント」 では少し多いようだが)、3時まで食事は続く。ここでも皆さんワインで、哲学者が嫌うビールは決して口にしなかった。

食事の後は、一人で1時間の散策に出る。ケーニヒスベルクの冬は厳しいものだったが、どんな天候であろうとこの散策を欠かすことはなかった。散策から戻ると高級紙や政治関連のものを読み、6時から夜の仕事を始める。夜食は取らず、読書に打ち込む。そして10時になると就寝。冬でも暖房なしだが、カントは布団に包まって暖まる特別な方法を知っていたという。満足してベッドに入ると眠気が襲う。そこで彼は自分は幸せな存在だと思うのである。




コンシュさんの場合は、朝7時から夜10時までが活動のお時間になる。食事の時間は決まっていて、朝8時半、12時半、夜7時半。朝11時までは知的活動。それから新聞に目を通し、手紙を書く。午後は知的仕事か樹木栽培かルヴェルモン (Revermont) 散策、あるいはお昼寝に充て、夕方はいろいろな読書をする。意外だったのは、夜にテレビをよく観ること。ただ、10時になるとどんなに面白い番組があっても寝るという。結末に興味もないし、すぐに忘れてしまうので悔いが残らないようだ。


お二人の哲学者の一日は時計のように規則正しい。カントがほとんど80歳で亡くなり、コンシュさんは89歳でご健在である。振り返ってわが身を見ると、その不規則さは目を覆うばかりだ。規則性の中に身を閉じ込めるのは耐えられないと感じているのか。あるいは、いずれ時計のような生活が訪れるのか。今はわからない。ただ、これから 「仕事」 をすることを考えると、彼らの規則性を参考にするのも面白そうだ。まだまだ試行錯誤が続く。


jeudi 15 septembre 2011

科学と哲学の良い関係とは



昨夜、手元の資料の山をひっくり返していたところ、面白い論文が出てきた。今朝、バルコンに出て関連するものと一緒にいくつか読む。哲学が科学の中で、あるいは科学に対してできることについて、哲学者が反省を込め、将来に向けて書いている。わたしも興味を持っている問題で、これまでに考えてきたことと重なるところが多かった。

いずれの論文も科学と哲学が新しいより豊かな知の確立のためには必要であるとしていることでは一致している。その中の一つに両者の交流が重要であると指摘している人がいる。それは学際的などと称して偶にシンポジウムをやるくらいでは駄目で、実質的で恒常的な交わりが必要だと言っている。さらに、哲学者が自らの問題や言葉に酔ってしまい、その中に留まっているとすれば科学者は全く興味を示さないだろう。科学者をとにかく交流の場に引っ張り出すには、それなりの問題の提示の仕方があるのではないか、と自省している。この著者とともに自らを振り返っていた。

午後には残っていた資料の片付けを一応終える。これからも頻繁にひっくり返し、頭の中をカオスのように埃だらけにしてから仕事に取り掛かるのも面白いかもしれない。頭だけではなく、体にも良さそうである。


mercredi 14 septembre 2011

その中に入る準備


L'Ombre (Auguste Rodin; 1881-vers 1904)


すっかり夜の暮れるのが早くなってきた。
今日は研究所へ向かう前にカフェに立ち寄り、読み始めたばかりの本を読む。
なかなか噛み砕くのが大変だ。
何度も読み返さなければならない。

研究所では論文に入るための準備をする。
もう少し早くからやっていればよいのだが、その気にならなかったのだから致し方ない。
今日は準備だけで終わった。
最後まで準備でないことを願うばかりだ。

帰りに新しいカフェに寄り、朝の本を読み直す。
一つづつ日本語に直しながらゆっくり進まないと掴めないかもしれない。




mardi 13 septembre 2011

クロディーヌ・ティエルスランさんに触れる


Pensif

Laure Aubier


朝、以前にも触れたコレージュ・ド・フランス教授で哲学者のクロディーヌ・ティエルスランさん (Claudine Tiercelin) の本 Le Ciment des choeses : Petit traité de métaphysique scientifique réaliste を読む。科学的形而上学、さらに実在論的という言葉を付けた考え方が語られている。形而上学の捉え方にしても人によって違うようであり、さらに科学的、実在論的を付けた彼女の定義を理解するところまで行っていないが、方向性としては興味深いものがある。

その後、久し振りに今年のコレージュ・ド・フランスの予定を眺め、ビデオを観る。そこで使われているフランス語は、これから発表などを考える時の高い目標として参考になりそうである。


2年振りの出会いや科学的形而上学のことなど (6 juillet 2011)



lundi 12 septembre 2011

ニールス・イェルネさんのパリの住処、そしてフランスの原発事故

(このリンク先の地図をクリックすると散策ができる)


未だ論文モードに入らない。いざ書こうという気にならないのだ。本当のところは書くべきことが整理されていないのだろう。今日、ほぼ1年前になるアン・マリー・ムーランさんとの最初のランデブーの内容を確認するために古いメモを見る。そこには参考になることがたくさん残っている。その中にこんなことが書かれていた。

以前に触れたことのある免疫学者、ニールス・イェルネさん (1911-1994) がバーゼルにあった免疫学研究所の所長を終えた後、パスツール研究所にオフィスだけ提供され、1年ほど過ごしたことがある。それはあまりハッピーなものではなかったようだが、その時に住んでいたという 「小さなアパルトマン」 の住所が書いてある。これまで、なぜかその場所を調べた記憶はない。今回、その場所が何度もその前を通っているところであることがわかり、今日の外出予定の前に訪れることにした。

当然のことながら、その場所はすぐ見つかった。当時のことはわからないが、今は1階が l'Incontro (英語でmeeting) というイタリア・レストランで、その上がアパルトマンになっている。ムーランさんが形容したように確かに小さなアパルトマンだ。記念に収めたのが今日の写真になる。イェルネさんはその後、現世から身を引くかのように南仏のお城に移り住み、そこで82年の生涯を閉じている。

ニールス・イェルネという科学者 (2008-06-08)


それはそうと、フランスでも原発事故があったというニュースが日本から伝えられた。庵に籠っている身にとっては寝耳に水。早速ル・モンドに行くと、フランス南部ガール県マルクールの放射性廃棄物処理施設で確かに事故があったと書かれている。亡くなった一人は炭化しており、負傷された4人のうち一人は重傷。事故はすでに収束し、今のところ外部への放射能漏れはないという。エコロジストの代表はリアルタイムで最大限の透明性を持ってデータを公表するように政府に要求している。

先日、こちらの雑誌に載った日本の原発の分布を見たが、海に面して赤い点が密集している。空から見ると、これで本当に大丈夫なのかと心配になる。最悪の場合を考えるのが危機に対する態度だとすれば、日本が人の住めない島になることも想像できる。日本人が国を失い、流浪の民にならないとも言えない。この夏にも感じたが、日本にいるとそんなことはあり得ないという考えに流れがちになる。日本人はテレビでグルメと温泉とお笑いに現を抜かしているうちに本来考えなければならないことを考えなくなったとどなたかが言ったという。この問題はどこにいても身近なこととして考えなければならない問題になりそうである。


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夜半、バルコンに出て、素晴らしい中秋の名月を愛でる。


dimanche 11 septembre 2011

やはり学問に王道なし



土曜のような土曜日の次は、日曜のような日曜日だった。集中力がなくなっているようで、一つのことを長く続けられない。すぐに対象の鮮度が落ちてきて、興味が失われるという症状だ。その背後には気が多く、興味が拡散するためじっくりと腰を落ち着けてやることを苦手とする性向がありそうだ。結果として、いろいろなことを少しずつやることになる。これはひょっとすると、最後まで未完成の状態が続いた後、運が良ければ纏まるかもしれないというこれまでのパターンになりそうだ。

今日、論文の書き方についてのコツがアメリカから送られてきた。それによると、三分の一の時間を概略のまとめと資料集めに当て、残り三分の二は書くことに当てることを勧めている。後半には誤りがないかの確認や他人の意見を聞きながら校正したりする時間も入る。また、テーマは絞り込むほどよいとも書かれてある。どうもわたしの考えは甘そうだ。すでに三分の二を焦点の定まらない開きっぱなしの状態で過ごした身にとって、どのような方法が残っているのだろうか。ここに至ってやり方を模索しているようでは先が思いやられる。

それにしてもアメリカのやり方は具体的で細かい。マニュアルがあると、ものごとをはっきりと割り切って見るようになる。還元主義・理性主義を突き詰めると起こるだろうそれ以外の世界の存在が見えなくなる可能性が浮かび上がる。メールを見ながらそのことを感じていた。旧大陸では最後まで模索しながら只管牛のように歩むしかないのかもしれない。



vendredi 9 septembre 2011

町の図書館で土曜のような金曜日



今日は1-2年振りに町の図書館に顔を出してみた。こちらに来た当初、異文化の中に埋もれるような甘い感覚が襲ったものだが、今は日常の景色に変わりつつある。4年という時間は確実に何かを変えているようだ。ただ、本棚を目の前にすると、どれも読んでみたいという気持ちが当時と同じように湧き出てくる。物理的に無理なのだが、、、。探していた本がなかったので調べ物を少しして、後はのんびり。土曜のような金曜日になった。



jeudi 8 septembre 2011

新学年が始まり、ヨーロピアンを感じる


Pr. Joachim Kurtz (Univ. Münster, Germany)


新しい学年が始まったというところだが、これまでの新鮮さはない。今日は淡々とセミナーを聞きに大学へ。演者はドイツはミュンスター大学のヨアヒム・クルツ教授。テーマは無脊椎動物の免疫機構を進化とエコロジーの視点から解析したもので、興味深いお話であった。

研究対象はカブトムシで、病原体に特異的な防御をするだけではなく、親が病原体で刺激されていると、その子の防御能力も増加するという。一見すると免疫能が遺伝しているように見えるが、実際には遺伝子を介したものではなく、何らかの物質が子に移動してそれが免疫能を直接あるいは間接に高めているのではないかとのお話であった。これまで雌の親からの免疫能の伝達は知られていたが、雄親にもその能力があることは彼のグループが見つけたもの。ただ、雌親と雄親の作用機構は異なるようである。

生きとし生けるものはこの世界に投げ出されている。免疫は投げ出されたものの生存に直接関わっている。試験管の中という謂わば綺麗な状態での解析から、実際に生きている環境にできるだけ忠実な条件での研究にも目が行くようになっている。ごちゃごちゃしていて解析が難しそうだが、それが生物の存在のありのままの姿だとすれば最終的にはそこに向かわなければならないのだろう。

お話の骨格がしっかりしていて、考えながら噛みしめるように話すので非常にわかりやすい。派手ではないが、地に足がしっかりとついているという印象を受ける。ヨーロピアンという形容詞が当て嵌まるのではないかと最近では思うようになっている。

以前に触れたかもしれないが、この会のディスカッションは1時間に及ぶことも稀ではない。会の前、科学者から哲学者へ転向した人として紹介されたので、新しい視点からいくつか問題点を指摘させていただいた。また、会のオーガナイザーの一人は、この9月からオランダで研究することになったという。若い人が簡単に(?)移動している様を見るのも気持ち良いものだ。これもヨーロピアンと言えないだろうか。



mercredi 7 septembre 2011

ファドを流しながら散らかった資料を整理する



4年間に溜まった部屋の資料をやっと整理する気分になる。
予定を変更して、以前にも取り上げたアナ・モウラさんと友人たちの歌を流しながら。
この世界、いつ聴いても séduisant だ。

 Ana Moura e Amigas


あれがここにあったのか、こんなところにも目が行っていたのかと驚きながら作業を終える。
まだ半分だが、この4年間に起こったことが恰も一つの平面に並べられたように感じる。
お蔭さまで少しだけ頭の中がすっきりする。
それにしても読みかけが多い。
ただ、これまでが晒す時間であったとすれば、悪いことではないのかもしれない。
もちろん、すべてを読んでしまうに越したことはない。
それができない時には、出遭った時に首を突っ込んで感触を掴んでおくのが大切だ。
今、その中に入りやすくなっている。
遠くからそれを引き出すのは難しいが、目の前に現れると意外に思い出すものだ。
これからはそこから何を抽出して、どう組み合わせるのかということになる。


ところで、この作業中に駆虫処理をする人が来た。
流れている音楽を耳にして、こう聞いてきた。
これアマリア・ロドリゲスじゃないですか。
あなたポルトガル人ですか?
違いますが、ファドの世界に嵌りつつあるのかもしれません、と答える。
と、さらにこう続けてきた。
地球のどのあたりから来たのですか?
日本の歌手はほとんど知られていませんが、誰かいますか?
ファドにあたる歌は日本語で何といいますか?
それじゃまた来年、と言って元気の良いその人は帰っていった。
ほんの数分のアクセントだった。



mardi 6 septembre 2011

アインシュタインによる創造的個人と共同体



今朝のバルコン。アインシュタインが語る世界の見方を眺める。
個人と共同体について、彼はこんなことを言っている。

 「孤高の人間は一人で考え、共同体の新しい価値を創造します。新しい道徳律を考え出し、社会生活を変えるのです。創造的な人間は自分自身で考え判断しなけ ればなりません。なぜなら、社会の道徳の発展はもっぱらその人間の自立に依存しているからです。もしそうでなければ、意志疎通の可能性を奪われた人間のように、その社会は無情にも挫折する運命にあるのです。
 わたしは健康な社会をこの二つの関係によって定義します。その社会は独立心の強い個人がいて初めて存在しますが、グループとしても深いところで結び付いているのです」

「わたしたちの星では人口が異常に増大し、ヨーロッパには一世紀前に比べ3倍の人が住んでいます。しかし、創造的な人間の数は減少しています。共同体が必要としている創造的な人間はもういないのです」

一見共同体の外にいるかのような独立心に溢れる人間が静かに考え導き出した創造物がごろごろ転がっている景色とはどんなものだろうか。古代ギリシャか、ルネサンスのイタリアあたりだろうか。人間の持てるものを絞り出す、汗の匂いのする営み。そういう景色に触れると、否が応でも反応せざるを得なくなるだろう。ただ、共同体の中にいると異質なものから目を反らす傾向が伝播する。そこからはみ出して見えるものに対する感度だけは維持しておきたいものである。



lundi 5 septembre 2011

ドクター2年目を概観する


William and Marguerite Zorach (1964)
Rhoda Sherbell (Born: New York City, 1933)


昨日と今日、ドクター2年目 (2010-2011年) のまとめに当たる。1年目のレポートを見直してみると、当時頭にあった項目が羅列されていて、それ自体は今頭にある枠組みとあまり変わらない。この1年、昨年の枠組みに肉付けするというよりは、枠組みそのものに新しいものがないのかを探っていたが、進捗していないことになる。ただ、少しは深まったところもあるので、羅列された項目を絞り込み、それらの要素をどのように組み立てるのかに焦点を合わせたまとめになった。これまではまだ時間があるように感じ、なかなか書く気分にはならなかったが、そろそろ尻に火が付く時期ではないだろうか。しかし、追い立てられるように書くのではなく、時間を度外視して納得のいくように書くという方針で行きたいものだ。


今日は以前に抜歯した後の修復工事があった。手術を他のお医者さんに見せたいのですが、とのことだったので快諾。いつもの俎板の鯉に。


dimanche 4 septembre 2011

気候が思考様式にも影響を与えるのか



昨日だっただろうか。地鳴りのする雷鳴が轟き、閃光が走り、そして豪雨が降った。こちらの天候異常と言えばせいぜいこの程度ではないだろうか。この夏の短い日本滞在のことを思い出すと、地震あり、台風あり、それに高い湿度と多彩だった。落ち着いて永遠や絶対を考えるなどという気にはならない。今ヨーロッパにいて、その違いの大きさが体でわかる。以前にこんなことも書いていた。

モンテスキューとともに気候を考える Penser au climat avec Montesquieu
(2008-07-14)


今日はこの秋に予定している科学を考える会のページに少しだけ手を加える。これからも折に触れて続けていきたい。この一週間はどこかにオランジュリーの空気が漂っていた。以下にユトリロMaurice Utrillo, 1883-1955) の作品をいくつか。




Église Saint-Pierre (vers 1914)




La Maison de Berlioz (1914)




Rue du Mont-Cenis (1914)




La Marie au drapeau (1924)




samedi 3 septembre 2011

マリー・ローランサンでミラボー橋を思い出す Marie Laurencin et le pont Mirabeau 


Portrait de Mademoiselle Chanel

(1923)


昨日今日と日差しが強い。オランジュリーの残り香が微かに流れている。この方の絵も周りから浮き上がっていた。それだけ特徴があったということだろう。

マリー・ローランサンMarie Laurencin、1883-1956)


ウィキで人生を眺めていると、あーーあの人がこんな絵を書いていたのかと繋がる。ギョーム・アポリネール (1880-1918) が書いた 「ミラボー橋」 の人として覚えていたからだ。

彼女が絵の勉強している時にジョルジュ・ブラック (1882-1963) と知り合い、1907年にアンデパンダン展に初めて出品。その年にピカソ (1881-1973) の紹介でギヨーム・アポリネールに出遭う。そこから始まったアポリネールとの激しい関係は1912年に終わりを迎える。その前年に起こった 「モナ・リザ」 盗難事件で彼に嫌疑がかけられたことが大きかったようだ。「ミラボー橋」 は彼女への思い断ち難く作ったとされている。レオ・フェレさん (Léo Ferré, 1916-1993) が曲を付けている。

モンマルトルのアトリエ洗濯船 (Le Bateau-Lavoir) ではアンリ・ルソー (1844-1910) などとも会っており、18歳の時にはセーヴルで絵付けを習っていたという。日本人好みなのだろうか。彼女の美術館が蓼科高原にあるとのことでそのページに行くと、今月いっぱいで閉館になるようだ。

セーヴルで陶磁器を味わう、そして井上靖へ (2010-09-07)
マリー・ローランサン美術館




Portrait de Madame Paul Guillaume

(vers 1924)




Danseuses espagnoles

(vers 1920-1921)




Les Biches

(1923)









Le pont Mirabeau

Sous le pont Mirabeau coule la Seine.    ミラボー橋の下 セーヌが流れ   
Et nos amours                   二人の恋が   
Faut-il qu'il m'en souvienne          なぜこうも思い出されるのか   
La joie venait toujours après la peine     喜びはいつも苦労のあとに来たものだ

Vienne la nuit sonne l'heure          夜よ来い、時鐘 (とき) よ打て
Les jours s'en vont je demeure         日々は去り行き私は残る   

Les mains dans les mains restons face à face 手に手をとって向き合ったままでいよう
Tandis que sous                   そのまにも
Le pont de nos bras passe             二人の腕の橋の下                   
Des éternels regards l'onde si lasse       永遠のまなざしに疲れた波が過ぎ行き

Vienne la nuit sonne l'heure             夜よ来い、時鐘 (とき) よ打て
Les jours s'en vont je demeure         日々は去り行き私は残る  
       
L'amour s'en va comme cette eau courante  恋は去り行く ここに流れる水のように   
L'amour s'en va                   恋は去り行く  
comme la vie est lente               人生の歩みののろさ
Et comme l'Espérance est violente       そして 「希望」 の狂おしさ
                                         
Vienne la nuit sonne l'heure          夜よ来い、時鐘 (とき) よ打て
Les jours s'en vont je demeure        日々は去り行き私は残る
  
Passent les jours et passent les semaines  日々が過ぎ 週また週が過ぎて行き   
Ni temps passé                   過ぎた時も   
Ni les amours reviennent            恋もまた戻って来ない   
Sous le pont Mirabeau coule la Seine      ミラボー橋の下 セーヌが流れ

Vienne la nuit sonne l'heure          夜よ来い、時鐘 (とき) よ打て
Les jours s'en vont je demeure        日々は去り行き私は残る

                              (安藤元雄訳)



vendredi 2 septembre 2011

ポール・ギョームという画商 Paul Guillaume


Paul Guillaume, Novo Pilota
(1915) 
Amedeo Modigliani


先日のオランジュリーで、この画商のアパルトマンがかわいらしいミニチュアで再現されていた。傑作の溢れる空間がよく表現されている。

Paul Guillaume (1891-1934)


ポール・ギョームさんはギヨーム・アポリネール (1880-1918) に見出され、その繋がりでシャイム・スーティン (1893-1943) やモディリアーニ (1884-1920) らを発見することになる。アフリカ美術展を最初に開いた方でもある。彼の奥さんの死後、収集した作品をオランジュリーに寄贈したが、この展示はその縁ではないだろうか。




L'appartement de Paul Guillaume
22 avenue Foch, Paris (vers 1930)









jeudi 1 septembre 2011

この世界に身を晒し、その反応を見る


L'Age d'or
(vers 1938-1946)
André Derain (1880-1954)


もう9月に入った。数字だけ見ていると、時の経つのは驚くべき速さだ。今年は一体何をやっていたのだろう。すぐに答えが出てこない。


昨日、この1年を振り返るためにメモを読み返していた。丁度そのノートは10月にカナダであった会議の様子から始まっていた。内容は結構詰まっている。読みながら、こちらに来てからのわたしの存在様式は、この世界に開いた受容体としてあったのではないか、と改めて思う。これまで閉じていた受容体を働かせ、その前を通り過ぎるもの・ことを受け入れ、処理し、記載していた。そこにはこれまで見えなかったこの世界の像がある。これまでに見ていた世界を補完する新たな視線がある。

もし、事を選ばずに記載されたそのメモがなければ、これまでに触れたものは何もなかったかのように風の中に消え去っていただろう。わたしの記憶容量を遥かに超える情報を目の前にし、確かに生きていたことに驚く。しかし、それは思い出の記録として残したものではないはずだ。そこから何かを引き出し、経験にするためだったのではないか。これまでは日々現れる新らたなものに触れることに費やされ、何かを生み出す可能性を孕んだ原体験に戻る時間が取れなかった。どうだろうか。これからの1年くらい、受容体を休ませ、情報を処理し直すことに当ててみては。そんな考えが浮かぶ。どうなるのか。それはいつものようにわからない。




Promeneurs dans un parc
(1900-1910)
Henri Julien Félix Rousseau (1844-1910)


ところで、まだオランジュリーの残り香を味わっている。写真を見ながら感じるのは、実物に触れた時に生れた自分の中の反応を再現するのは難しいということ、そしてそれ以上に、日頃画集などを見ている時には予想もできないような反応がその場では起こるということだ。よもや睡蓮の部屋で浮遊感を味わうなどと、誰が想像しただろうか。もう一つ今回感じたのは、味わうのはその絵一枚ではないということ。もし、シャイム・スーティンの絵が一枚だけだったなら、あれほどのエネルギーを感じただろうか。また、その絵が置かれた部屋の空気、光や色も大きな要素だ。そして、その周辺に何が置かれているのかでも印象はガラッと変わってしまう。アンドレ・ドランの絵は、それまでの流れとの差として目に飛び込んできたからだ。


引き籠りがちな気持ちを押しのけ、日常を抜け出し異なる場に身を置くこと、実物のある空気に触れることが大切になるのだろう。そこでは何が起こるのかわからない。それが面白いところだ。その時に生れる反応を注意深く観察し、それを経験にまでできると新たなところに繋がるのかもしれない。