lundi 2 mai 2011

「埴谷雄高独白 死霊の世界」 を観る


Villa Médicis, Rome, 1981
Willy Ronis (1910-2009)


どうも日本語の音に飢えているようだ。昨日は3時間くらいだろうか。暇にまかせて一昔前のNHK・ETV特集を観る。

埴谷雄高独白 死霊の世界 (1995年:平成7年)
 
当時その一部は見ており、最初のブログ 「ハンモック」 でも取り上げている。
埴谷 雄高 (2005-04-13)

とにかく、いろいろなことを言っているが、よくわからないことが多い。ただ、わかるところはよくわかる。そこでは同質のものを感じているのだろう。氏が亡くなる2年前の独白なので、80代半ばの肉声。単に精神的な力強さが残っているだけではなく、どこかに機嫌の良さがある。alacrité を持っているとでも言えばよいのだろうか。

まず感じたのは、科学の影響を受けていること。科学を自らの思索に生かそうとしていること。特に、天文学、物理学、宇宙論だが、生物学も出てくる。語りの中から反応したところをいくつか。

「文学には量はない。点数はつけられない。質しかない。科学は量に変換できなければ成り立たない。だから文学を恐れる必要はない。相手を納得させさえすればよいのだ。ただ、相手から下らないと思われたら終わり。質の深さが問題になる。人格も同じ。だから、なかなか書けないのだ」

ゲーテは、生と宇宙の謎を解くためにわれわれは生を受けたのだと言ったが、そこから文学が生まれたのだ。なぜ宇宙はあるのか、なぜ人類はあるのか。無限の中の私を考えないと駄目。思索の背景に宇宙論がないと駄目。漱石梶井(基次郎)に劣るのは、それがないから」

「人間はどこかに向かう過渡期の中間者。まだまだ完成されていない。頭髪と陰毛をまだ残して人間になりそこなった存在。それで女体を見ると、先ず陰毛に目が行く。まだ獣から脱却していない。それだけ困ったところに生れている。こんなことを書くと、埴谷さん酷いなと言われるが、、、」

「人を殺すのではなく、人の頭の中を変えるのが革命。レーニンもスターリンも自分の頭が変わったから革命家になったのに、このことを実践しなかった」

「なぜ書くのか。わたしの場合は妄想が主体だが、なぜ妄想するのかと問われれば、内的自由の追求と答える」

「自分の思い出を書くのではなく、人類を変えたいと思って書いている」

「すべての人間が詩人にならなければ人間に真の幸福はない。これから人類を救うのは文学だけ。信じることを忘れた醒めた人間を文学によって変えることが真の革命になる。気迫としてはそういうことである」

埴谷雄高 (1909年:明治42年-1997年:平成9年)

まさに、気迫の人であった。




à Nice



2 commentaires:

  1. 思索の背景に宇宙論がないと駄目-ここを読んであっとなりました、私の”なぜ”の根っこにあるものです。また、私も世の中の人の目に触れるものを書いていますが、世の中がいいほうへ向かうといいなとおもいつつ書いており、同士を見つけたっとうれしくなりました。また、深刻になるのは苦手で、機嫌のよさというのは私のモットーでもあり、ポールさん同様自分に似ているとろがあると思いました。映像を見ると、ポールさんの原書で読みたい本であるプルーストはいいといってました。埴谷氏のファンは多いようで少しびっくりです、よく見、熟考する人は確かにいると安堵。ー聴雪

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  2. 人間は年をとると不機嫌になるのではないかと想像しています。80代になった時のことは想像できませんが、おそらく相当の割合でそうなっているのではないかと思っています。そういうわたしの基準があったため、埴谷氏の機嫌のよさに目が行ったのではないかと思います。プルーストのお話ですが、日本人と西洋人の観察眼の違いを強調したかったのではないかと思って見ていました。日本人は花がはらはらと散るというように大雑把に形容するのに対して、プルーストは花弁の一つひとつが落ちる様を観察しているというような話だったように思います。そういう仔細な観察に感心しているように見えました。

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