dimanche 8 mai 2011

10年前のクロアチアへタイムスリップ



日本のファイルを見直している時、懐かしいホームページが現れた。2001年7月、クロアチアはリエカ訪問の記録である。こんなものが出てこようとは・・・。一昔前の時間が一気に蘇る。当時もその昔にタイムスリップしたかのような気分に襲われていたのだ。この機会に再びのタイムスリップをすることにした。これも谷口ジロー繋がりだろうか。

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Visit to the University of Rijeka Medical School (Rijeka, Croatia)
July, 2001



EMBO 会議 (ドイツ、マールブルグ) と国際免疫学会 (スウェーデン、ストックホルム) の間が1週間空いたので、クロアチアのリエカ大学とパリのパスツール研究所を訪れた。今回、クロアチア訪問が強い印象を残したので、簡単に振り返ってみたい。

以前から共同研究していたシニシャ・ボラレビッチ (Sinisa Volarevic) 博士がスイスの Friedrich-Miecher 研究所から今年の初めにリエカに帰ったので、彼の新しい研究室とクロアチアを見るために訪問することに決めた。ドイツからイタリアのトリエステ近郊の空港に着くと彼が車で迎えに来てくれていた。イタリア国境を出て一時スロベニアを横切り、そこからクロアチアに入った。約2時間のドライブであったが、子供の頃に見たことのあるような景色が広がり懐かしさを誘った。また、以前には気付かなかったことであるが、彼の身振りや話し振りに接していると、6-7歳でクロアチアを後にしたという Josi Schlessinger 博士を髣髴とさせるものがあり、不思議な親しみと繋がりを感じた。

その夜、医学部長の Stipan Jonjic 博士とともにクロアチアの典型的なレストランで食事をした。Jonjic 博士はドイツの Ulrich Koszinowski 博士 (現ミュンヘン大学)のもとでポスドクをやられた方で、現在でも密に連絡をとっているとのことであった。事実、この翌日の午前3時にリエカを出て、車でミュンヘンまで行き共同研究の打ち合わせをするというエネルギッシュな方であった。また、リエカ大学をアメリカや西欧のレベルまで引き上げるべく、システムの改革にも意欲を燃やしている。


From left: Dr. Stipan Jonjic and Dr. Sinisa Volarevic


翌日、リエカ市内にある大学医学部に向かった。全体的にゆったりとしたつくりで、研究室は大部分が一昔前の日本の大学の研究室といった雰囲気を醸し出していた。折りしも、当日とその前日は大学入試が行われていた。以前は8倍もの倍率であったが、最近では1.2倍くらいに希望者が激減しているという。医学部を卒業しても就職先が見つからないようだ。 また研究面でも、国内の研究費はそれほど潤沢ではないので、国際的なヨーロッパの研究費にも応募するようである。



Dr. Sinisa Volarevic with his staff Sanda Sulic
(in front of the Medical School Main Building)




Students waiting for the entrance examination

Jonjic 博士は、大学の研究システムを新しくし、若い人材を導入するようにしており、シニシャもその流れで10年ぶりに祖国に帰ることができた。その前には米国NIH、ドイツ、スイスで研究生活を送っている。彼が主宰する新しい部門は分子医学とバイオテクノロジーを専門とするもので、そのためにビルディングを1つ与えられていた。また、その横には動物施設棟があり、これから実験室や共同研究体制をセットアップしようとするところであった。



Dr. Sinisa Volarevic 
(Molecular Medicine & Biotechnology Building)



Animal Building



One of his lab spaces

研究室のスタッフは、入ったばかりの院生2名と秘書兼実験助手1名の計3名で、仕事をこれからスタートさせるべく準備中であった。



Sinisa's lab members
From left: Miljana, Sanda, and Linda

シニシャは私のためにセミナーをセットしてくれていた。教室に入って驚いたことは、女性の研究者、学生がほぼ90%を占めているということであった。途中に質問も沢山出され、他では味わうことのできない和やかな雰囲気の中で話を進めることができた。



Before the seminar
July 13, 2001

セミナーの後、大学で免疫、生化学関係の仕事をしている研究者と話をする機会があった。その中に、私の訪問が日本人としては初めてではないかと指摘してくれた生化学の Jadranka Varljen 博士やドイツの Klaus Rajewsky 博士 (現ハーバード大学) のところでポスドクを終え、帰ったばかりの Bojan Polić 博士などがいた。5時過ぎから研究室のメンバーとロヴラン (Lovran) にあるアドリア海に面したレストランに出かけ、そこでゆったりとした夕食をとった後、 ヨットハーバーのカフェで夕闇が迫る10時半くらいまで止め処ない語らいに時を忘れた。リエカは川崎市の姉妹都市で、数年前に川崎市の中学生の交流があり Sanda のファミリーが受け入れたことがあり、今年の夏にはリエカの学生が川崎を訪れることになっているという。クロアチア人の気質として、お金は貯めるよりは人生を楽しむために使う傾向があるとのこと。何か先を心配するようなことを私が言うと、Linda からは "Don't worry" という言葉がいつも返ってきた。日本が遥か遠くに感じられた時間であった。



Biochemistry Professor Jadranka Varljen



Linda and Sanda



A street of Rijeka

クロアチアではリエカから車で20分くらいのところにある観光地オパティヤOpatija) のホテルに滞在した。日本ではほとんど知られていないが、クロアチア国内はもとより、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ポーランドなどの近隣の国から多くの人が訪れていて、活気のあるところだった。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフが別荘をこの地に持っていたとのことで、海岸線に沿って20kmに及ぶ散歩道が建設され、なかなか気持ちのよい散策ができた。機会があれば、また訪れてみたい町となった。


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dimanche 8 mai 2011, 12:34

10年前の記事がそのままこのブログにあるのを見ても全く違和感のないことに気付く。ブログを始めたのは6年前の春のこと。ホームページの記事はその4年前になる。それ以前にはこのような雰囲気のページはなかったような気がする。そう言えば、この記事の数ヶ月前にフランス語に出遭っていた。単なる偶然だろうか。


lundi 9 mai 2011, 08:45

もう一つ気付いたのは、文体が全く変っていないことである。一体、その人の文体はいつ頃でき上がるのだろうか。文体を変えるというのは意識してやらないと相当に難しそうである。そもそも可能なのだろうか。




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