« Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)
「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ」(ポール・エリュアール)
vendredi 27 mai 2011
カオスは何かを生み出す母なのか
科学論文の構成として、イントロダクションの後に 「材料と方法」 というのが来て (雑誌によっては後のこともある)、 結果、ディスカッションへと続く。型がしっかりとある。一方の哲学論文だが、未だに型があるのかどうかわからない。今までのところ、それぞれが自由に書いているようにも見える。
ところで、昨日触れたトロント大学のマリオンさんの論文では 「材料と方法」 に当たるものがあり、おやっと思った。その方法がわたしの興味を惹いただけではなく、求めているところに共通するところがある。そして、昨日新たにパリ大学のヤン・サップさんからメールが届いた。驚いたことに、そこに書かれてある疑問もわたしの考えていることと通じ、今週送られてきたパスツールの若手研究者の論文がそこに絡んでくる。今朝届いたデビッド・スコットさんのメールはそれを横から掻き廻し、アン・マリー・ムーランさんからの論文はさらに横に広げるといった具合だ。そして、数名の方がこれから意見を送ってくるとのこと。この目眩くような状態は一体どうしたことだろう。今週は教授とのディスカッションに始まり (もう大昔のように感じる)、ワシントン大学のカール・クレイヴァ―さんからのコメントと続き、上のようなところに流れてきた。そのすべてがどこかで繋がり、地上に渦巻いているように見える。それが一つのうねりになり空に向けて立ち昇らないか、などという妄想が生れるほどである。週の初めには想像もできなかったことだ。
午後から理論生物学のセミナーを聞くため、複雑系研究所へ。
自分の中ではつい最近なのだが、もう2年も前になる (少しずれるが、上で感じたように近い過去が遠くに、遠い過去が近くにあることが記憶の引き出しやすさとも関係するのだろうか) イスラエルでお会いしたエヴリン・フォックス・ケラーさんとフランスのアニック・レズネさんが生物の複雑性について論じていた。物理学の世界との比較、ローバストネスと安定性、創発性と調節、生物学における機能、などなど。ディスカッションの中で、エヴリンさんは言葉の定義をはっきりさせてから話すことを再三指摘していた。そうしなければ、折角の話が噛み合わなくなる。途中、参加者同士が意見を交わす場面があり、エヴリンさんの 「ちょっと道に迷ったようですね」 の言葉が出るまで20分ほど道草が続いた。日本の哲学の環境を知らないので何とも言えないが、おそらくフランスらしいのではないかと想像している。まさにカオティックな今週を締めくくるに相応しい会であった。この状態から何かが生れるのだろうか。これから注目して見守りたい。
以前にも書いたかもしれないが、エヴリンさんは70代半ばだが、声の張りと言い、言葉の正確さと言い、思索の向かう先と言い、素晴らしいのだ。思索が閉じて予定調和に陥るようなことはなく、あくまでも完全に開いていて健康そのものなのである。そうありたいと思わせてくれる姿を体現されている。その彼女はこんなことを言っていた。このように生物学者は事実の記載は詳しくするが、その背後にあるロジック (原理に至るようなものか) や大きな像について語ろうとはしない。科学の論文で想像力を働かせてディスカッションをするとクレームが来たことがあったので、そうならざるを得ない状況があることも否定できないだろう。しかし、科学と哲学が相互作用することにより、より豊かな自然の理解が可能になるのではないかという考えがわたしの中に深く根付いている。今日は現状を観察しているだけでよいか、という思いが立ち上がってくるのを確認していた。
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samedi 28 mai 2011
記憶の引き出しやすさは電車の窓から景色を見ているところに似ているのではないか。遠くの景色はよく見え、近くのものは捉えきれないという。それにしても今週は 「パリから観る」 の面々が続々と浮かび上がってくれたなぁー、という思いとともに目覚める 。
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