vendredi 13 janvier 2012

クロディーヌ・ティエルスランさんの目指す形而上学




再び、ルクセンブルグからの車中で読んでいた雑誌の一つを取り上げてみたい。昨年、コレージュ・ド・フランスの哲学教授に選ばれたクロディーヌ・ティエルスランさんのインタビュー記事である。

彼女については、以前にここで触れたことがある。そこには、フランス哲学からは離れて見える領域を専門とする彼女が選ばれたことで問題視する声が上がっていること、それから彼女の掲げる 「科学的実在論的形而上学」 なるものの意味するところに、わたし自身が興味を持ったことなどが書かれている。ル・モンドの記事を読んでのものだった。



今回のインタビューは雑誌ル・ポワンの特集号に出ていたもので、彼女の営みがこのように紹介されている。
現実は物質だけなのか。精神の性質とは何か。これらの形而上学的問についてフランス哲学は沈黙したままである。その沈黙を破ろうとしているのがクロディーヌ・ティエルスランさんである。彼女は正義、道徳、論理だけではなく、ニューロン、原子などという形而上学にとっては新しいテーマを取り上げ、知の間にある障壁を取り除こうとしている。すべての現実について哲学は厳密さを以って探求する義務があると彼女は主張している。

力強い紹介である。次に、彼女の発言を聞いてみたい。
わたしの講座を「知の形而上学と哲学」と名付けました。コレージュ・ド・フランスに「形而上学」という名前が入ったのは初めてです。それがなかったのは、これまでの哲学者がそれを自然にやっていたからではないでしょうか。エミール・メイヤーソン(Émile Meyerson, 1859-1933 )が言ったように、われわれは「あたかも呼吸するように」形而上学をやっています。形而上学とは存在するものについての解析、つまり存在一般についての科学です。例えば、ものの性質、時間、空間、精神と身体の関係などの。

コレージュ・ド・フランスの教授に選ばれた時に巻き起こった抗議について聞かれて、こう答えている。
あなたの話を聞いていると、群衆がわたしの当選に怒りの声を上げるために街に繰り出したように聞こえますが、ご安心ください。モーティエのルソー(1712-1778)のように小石を雨あられのように投げられてはいません。また、イギリスのデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)邸に亡命しなければならないという状態でもありませんでした。コレージュ・ド・フランスの選考は一般大衆の希望に必ずしも一致するものではありません。それはむしろ健全な状態です。アンリ・ベルグソン(1859-1941)もエティエンヌ・ジルソン(1884-1978)も選ばれた時には大衆に良く知られていたようにはわたしには見えません。

コレージュ・ド・フランスには時代の好みに逆らうという役割もあるのです。フランソワ1世がコレージュ・ド・フランスを創設したのは、ソルボンヌの保守主義に対抗するためだったのではないでしょうか。わたしはフーコー(1926-1984)、デリダ(1930-2004)、ドゥルーズ(1925-1995)に連なるフランス思想の典型的な代表者を選ばなかった教授会に感謝しています。もちろん、わたしはイギリスの哲学を近くに感じています。しかし、あまり良く知られていませんが、フランスの哲学にも合理主義の素晴らしい伝統があるのです。わたしが霊感を得るのはむしろそちらの方です。




中世の哲学者に興味を持つ理由について
中世への興味を強調したのは私が最初ではありません。1989年にパリ第一大学に来てアベラールPierre Abélard, 1079-1142)やドゥンス・スコトゥスJean Duns Scot, John Duns Scotus, 1266-1308)の講義を行った時、少しだけ孤独を感じたものです。フランス語訳ではなく、ラテン語やドイツ語訳のテクストにしばしば当たらなければなりませんでした。しかしそれ以来、中世哲学の研究は爆発的に発展しました。フランス語圏には、アラン・ド・リベラ(Alain de Libera, 1948- )、クロード・パナッキオ(Claude Panaccio, 1946- )、シリル・ミション(Cyrille Michon)というような才能あふれる人がいて、幸いなことにすべてが研究専門の職を選ばず、大学で教えています。中世がわたしにとってのモデルであるのは、厳密さの技術、反論と反応によって進む議論の対立が形成されたからです。

彼等がよく議論していた「普遍」の問題を例にとりましょう。普遍とは何か。いろいろなことについて言えます。例えば、机や布が白いなどと言う場合の白色。問題は、この白色、あるいは正義、美などが一体どのような性質であるかを知ることです。この普遍性が個別のものに実際に存在するというのが実在論(réalisme)の立場で、わたしの立場でもあります。もう一方は、概念、言葉、言語の約束事にしか過ぎないとするのが唯名論(nominalisme)の立場です。

中世には、例えばドゥンス・スコトゥスのように実在論に近い非常に緻密な議論があります。普遍の問題には言葉、概念、「もの」の三角関係があり、最近の知の理論と形而上学の中心課題です。わたしは、論理学、物理学、形而上学のレベルにおける現実(実在)と言えるものが何なのかという問題に再度挑んでいます。

イギリスの哲学とフランス哲学との乖離について
17世紀からイギリス思想と所謂大陸の思想との間に断絶があります。それはジョン・ロック(1632-1704)や経験主義者まで遡ることができます。しかし、この断絶は実質的なものというよりは見掛け上のものでしょう。ヒュームルソーを読み、フランス人はロックを読んでいました。状況が変わったのはハイデッガー(1889-1976)がフランス人のモデルになった時ではないかとわたしは考えています。

哲学のやり方について
哲学は知に関わるすべての営みと同じように、科学的になり得るし、そうでなければならないと考えています。科学は物理学者や生物学者のためだけのものではありません。哲学においても(科学的)探究の精神状態のなかで、誤りに注意し、方法を選びながら仕事ができます。その上で、わたしは科学が「もの」の実在が何から成っているのかについて発言する時、科学が最上位に来ると考えている科学主義者(scientiste)には反対します。もちろん、科学知や現代の発見については知っていなければなりません。だからと言って、科学に騙されていてはいけないのです。

この発言が一つのポイントだろう。彼女が「科学的」と敢えて銘打った形而上学の行く先が示されているように見える。さらに、哲学と科学がそれぞれの優位性を争うのではなく、お互いが同じ平面に乗って、この世界の現実について語ることが大切になるだろう。ただ、そのためにはお互いが相当努力をしなければならないことも、また確かである。それぞれの枠の中で満足してはいられないからである。


社会的、道徳的問題、さらに昔の哲学者のテーマだった「幸福」の問題について
わたしの仕事において倫理的、社会的次元は中心的な位置を占めていないかもしれませんが、常にそこにあります。われわれの行動をよりよい方向に導くことのない思想に時間を割く意味はないでしょう。コレージュ・ド・フランスの最初の講義は「知の価値」を取り上げ、知の社会的価値について検討して終わりました。次回のテーマは、可能性として「もの」に備わっている性質(dispositions)と情緒の関係についてです。

現在、快楽と苦痛の関係についても研究しています。幸福に対する哲学的研究は膨大なものがあります。しかし、ここでも現代科学、特に神経科学の成果には注意深くなければなりません。幸福というようなテーマでよく起こることは、ナンセンスなことをたっぷりと話したり、当たり前のことを敢えて説明しようとすることです。そこで満足することはできません。

思想と行動との結び付きという点も大切になる。哲学が内に含む大きな要素ではないかとも思う。倫理とは行動の哲学である、と言い換えた時、抵抗なく倫理という言葉がわたしの中に入ってきた。こちらに来てからの話である。科学的に哲学を進めながら、そのベースに社会的、倫理的な視点を保っておくことが欠かせないのかもしれない。





彼女の考えている先はぼんやりと見えてくる。しかし、その輪郭を掴むためには、以前に読み始めて頓挫している Le Ciment des choeses : Petit traité de métaphysique scientifique réaliste をさらに読み進めなければならないだろう。すぐにその時間が取れるとは思えないのが残念である。




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