dimanche 15 mai 2011

昨日の雲のように、あるいは出来事に耳を澄ます


今日は昨日の雲のように、ゆったりと留まっていた。
なぜか3・11前に書いた記事が蘇ってきた。

「出来事」 に忠実に、それが人間への道 (2011-02-27)

今日はこんな具合にバディウさん (1937- ) との出遭いを反芻していた。

出来事にははっきり感じるものもあれば、目を凝らさないと見えないものもある。出来事に対した時、ざらざらとした抵抗を感じる。それを一度自分の中に取り込んで、一人になって考え、自分なりに処理しておくことが大切になる。出来事に耳を澄まして他人に任せない、ということになるだろうか。

専門や仕事を持っているとそこに逃げ込み、考えないでやり過ごすことができる。専門以外に関わらないのを良しとするのが専門家でもある。現代人はこの精神構造に気付かないか、気付いてもそれを変えようとしない。さらに言えば、そのような精神的余裕も与えられていない。自らに照らすとよくわかる。しかし、それがわれわれの社会をいつまでも未熟で活力のない脆弱なものにしているのではないだろうか。どれだけ多くの人がそこから抜け出して考えることができるのか。それが社会の安定感や成熟度や生命力を決めるような気がしている。

これは仕事から離れ、囚われのない時間と心が戻ってきた時に初めて見えてきた景色である。わたしにとっての一つの出来事かもしれない。

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