dimanche 30 octobre 2011

ベルグソンに感じた違和感、あるいは哲学が目指す二つの道


Henri Bergson (1859–1941)


こちらに来てから哲学をどう考えればよいのかについて、特に科学との関連で思いを巡らせていた。その結果、今の段階での一応の方向性を掴んだつもりでいた。それは、科学の領域に匹敵する新しい知を哲学が加えることは難しいのではないか・・・哲学が生きる道は科学の出した成果について考察を加え、一段高いところにある知を作り上げる過程 に参加する他ないのではないか、というものだった。

ひと月前くらいだろうか。ベルグソンの 「思想と動くもの」 (La pensée et le mouvant)を読んでいた。ところが読み進むうちに、あれっ、これは違うな、という感覚が訪れる。それまでに自分の中にできあがった考えとは明らかに違う方向性が語られていて、一色に染まっている布地に新しい色の染料がぽとりと落ちるのをはっきりと感じたのである。

ベルグソンは科学と哲学に同等の価値を認める。その上で、「哲学者の任務はすでにできあがっている知識を手に入れ、それをだんだんと普遍的なところにもっていき、凝集に凝集を重ねていわゆる知識の統一と呼ばれたものまで進むことだ」 と言えるだろうかと問い掛ける。そして、「哲学を実証科学の綜合に仕上げたり、ただ哲学的精神というものの力だけによって同じ事実の普遍化において科学よりも高いところにのぼれると称したりすることではなくなって」 おり、このような任務は科学に対する侮辱であるばかりではなく、哲学に対してはいっそうの侮辱になると考えている。

それでは哲学の任務はどこにあるのだろうか。1911年、ボローニャでの講演 「哲学的直観」 ではこのような考えを語っている。

「世界を満たしている物質と生命は同時にわれわれの中にあります。すべての事物のなかではたらいている力はわれわれが自分たちの内に感じます。そこにあるものおよびそこでおこなわれているもののきわめて内的な本質がどうであるにせよ、われわれはその一部分なのです。そこでわれわれ自身の内部に降りていきましょう。われわれが触れた点が深ければ深いほど、われわれを表面へ押しもどす勢いは強くなります。哲学的直観はこの接触であり哲学はこのはずみ (エラン) であります」

「科学者は・・・事象を分割することに注意するものであるから、どうしても自然を相手に詭計を用い、自然に対して警戒と闘争の態度をとらなければならないのに反して、哲学者は自然を仲間扱いにしています。科学の方針はベイコンが提出しているように、命令するために服従することであります。哲学は服従も命令もしません。哲学者は同感を求めます。この視点から見ても、哲学の本質は単純の精神であります」

このようなことに気付くと、哲学を学校から引き出して生活に接近させたいと思うようになるとベルグソンは言うが、哲学は最終的には科学の型にいれることができなければならないと考えている。ベルグソンの哲学は科学の具体的なところに入るのではなく、自らの中に入り、生活を温め照らす手段としての哲学になるのだろうか。

実は最初に違和感を感じた時、このエピソードを何度か書こうとした。しかし、書くところまで行かなかった。そうしていると最初に感じた驚きが次第に薄れ、それが当たり前のようになってくる。そういう別の立場があることがわかると、恰も以前からその考えが自分の中にあったかのように錯覚することになる。




Gilles Deleuse (1925–1995)


そして先日のビブリオテークでのこと。ジル・ドゥルーズの書いたベルグソンについての文章を読んでいる時、最初に感じた違和感の意味がわかる次のような一節に出くわした。

科学の根には哲学がある、と言うだけでは不充分である。科学が成長した今、問わなければならないことは、なぜ未だに哲学が存在しているのかという点である。それに対して哲学の側は2つの答えを用意してきたが、それは2つしかないからである。

一つは 「もの・こと」 についての知識を与えてくれるのは科学であり、その点に関して科学と競うのではなく、科学に任せる。哲学がやることは、科学が出した 「もの・こと」 の知識について批判的に観想すること。もう一つの道は、科学とは違う 「もの」 との関係を確立、回復しようとすること。それは 「もの」 そのものに対して問い掛けることのない科学がわれわれから奪い取った知であり、関係である。そして、ベルグソンが選んだのは後者の道だった、とある。

わたしが考えていた哲学のやり方は確かにひとつの道として考えられているが、それだけではないということになる。もう一つのやり方が具体的にどのようなものなのかイメージが湧かないが、以前に触れたことのある 「専門としての哲学」 と 「生き方としての哲学」 との対比に類似したものになるのだろうか。自分の頭で必死に考えようとするベルグソンの営みには科学者の頭の使い方と違うものを感じたことがあるが、今回その背景が少しわかったような気がした。同時に、自分の今いる位置も相対化されてきたように見える。

ここまで来るのにひと月以上かかったが、この日まで待つように仕組まれていたかのようである。日頃感じる小さな抵抗感を忘れずに抱えていると、いつかどこかに導いてくれる。そんな可能性を秘めたわずかのズレをこれからも大切にしたいものである。


学問的哲学と生き方としての哲学 (2011-08-24)
科学万能時代の哲学 (2011-09-27)





この週末から11月1日の万聖節に向けてヴァカンスの雰囲気が街に溢れている。午後、近くの散策に出る。公園の中に入ると秋深しだ。帰り道、子供連れのご婦人に大きな声を掛けられ、驚く。

 「今日パンを売っているブランジュリーはどちらですか?」

トラディションを手にぼんやり歩いている人を見つけたからだろう。店はほとんど閉まっているが丁度空いているところがあり、手に入れたところだった。


今日から冬時間が始まった。



Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire