そろそろ冬に向かってきたようだ。昨夜はほぼ1年振りにマルクス・アウレリウス (121-180) の 「自省録」(神谷美恵子訳) を手に取り、古代ローマ帝国五賢帝のお一人の声に耳を傾ける。
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「まことに人生において出遭う一つ一つのものについて、組織的に誠実に検討しうることほど心を偉大にするものはない。その対象がどんな宇宙にたいしてどんな効用を持っているのか、全体にたいしてどんな価値を持っているのか、人間にたいしてどんな価値を持っているのかを考察し、それが何であるか、どんな要素から構成されているか、現在私にこういう印象を与えているこの対象はどれだけの間このままで存続するか、これにたいしては私はいかなる徳を必要とするか、――たとえば優しさ、雄々しさ、真実、信義、単純、自足、その他――等以上の点を考察しうるように、常々そんなふうに個々の対象を見ることほど心を偉大にするものはないのである」
「人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることができるのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。この場合、それをじいっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分の内に持っていれば、なおさらのことである。そして私のいうこの安らかさとはよき秩序にほかならない。であるから絶えずこの隠家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。そして(そこには)簡潔であって本質的である信条を用意しておくがよい」
「死後の名声について胸をときめかす人間は次のことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消え行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにはその記憶全体が消滅してしまうことを。しかしまた記憶する人びとが不死であり、その記憶も不朽であると仮定してみよ。いったいそれが君にとってなんであろうか。いうまでもなく、死人にとっては何ものでもない。また生きている人間にとっても、賞賛とはなんであろう。せいぜいなにかの便宜になるくらいが関の山だ。ともかく君は現在自然の賜物をないがしろにして時機を逸し、将来他人がいうであろうことに執着しているのだ」
「すべてはかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も」
「『カエサル的』 にならぬよう、その色に染まらぬよう注意せよ。なぜならそれはよくおこることなのだから。単純な、善良な、純粋な、品位のある、飾り気のない人間。正義の友であり、神を敬い、好意にみち、愛情に富み、自己の義務を雄々しくおこなう人間。そういう人間に自己を保て。哲学が君をつくりあげようとしたその通りの人間であり続けるように努力せよ。神々を畏れ、人を助けよ。人生は短い。地上生活の唯一の収穫は、敬虔な態度と社会に益する行動である」
「あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然に従って余生を過ごさなくてはならない」
「自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう」
「宇宙がなんであるかを知らぬ者は、自分がどこにいるかを知らない。宇宙がなんのために存在しているかを知らぬ者は、自分がなんであるかを知らず、宇宙がなんであるかをも知らない。しかるにこのような問題を一つでも等閑に付しておいた者は、自分がなんのために存在するかいえないであろう。しからば、自分たちがどこにいるかということも、何者であるかということも知らないで (むやみに) 拍手喝采するような連中の (非難を避けたり賞賛を求めたりする) 人間 --- こういう人間を君はどう考えるか」
「宇宙の原因は一つの奔流である。それは万物を運び去る。なんと下らぬ小人どもだろう、政治屋でありながら、哲学者のごとく振る舞うとうぬぼれている奴らは。みんな鼻たらしさ。おお人間よ、どうしたのだ。自然がいま要求することをしろ。できるなら、発奮しろ。そして人に知れるかどうかきょろきょろ見回したりするな。プラトーンの理想国家を望むな、どんなに小さなことでも進行すればそれで満足し、その結果は大したことでないと考えるのだ。なぜならば誰が他人の信念を変えられようか」
「高処から眺めよ。無数の集会や無数の儀式を、嵐や凪の種々な航海を、生れ、共に生き、消え去って行く人びとの有為転変を。また昔他の人びとによって生きられた人生、君の後に生きられるであろう人生、現在野蛮民族のところで生きられている人生を思い見よ。どれだけの人間が君の名前を知らないことか。どれだけの人間がそれをさっさと忘れてしまうことか。どれだけの人間が現在たぶん君を讃えていながら、たちまち君を悪くいうようになるであろうことか。記憶も、名声も、その他すべていかに数うるに足らぬものであることか」
「君は多くの無用な悩みの種を切りすてることができる、なぜならばこれはまったく君の主観にのみ存在するからである。全宇宙を君の精神で包容し、永遠の時を思いめぐらし、あらゆる個々の物のすみやかな変化に思いをひそめ、誕生から分解に至るまでの時間のなんと短いことかを考え、誕生以前の無限と分解以後の永遠に思いを致すのがよい。それによって君はたちまちひろびろとしたところへ出ることができるであろう」
「何事が君に起ころうとも、それは永遠の昔から君に用意されていたことなのだ。そしてもろもろの原因の交錯は永遠の昔から君の存在とその出来事を結び合わせていたのだ」
「眼前によこたわるものの一つ一つを注意深く眺め、それがすでに分解しつつ変化しつつあり、いわば腐敗と分散の状態にあること、またあらゆるものはいわば死ぬために生れるのだということを考えよ」
「君に残された時は短い。山奥にいるように生きよ。至るところで宇宙都市の一員のごとく生きるならば、ここにいようとかしこにいようとなんのちがいもないのだ。真に自然にかなった生活をしている人間というものを人びとに見せてやれ。観察させてやれ。もし彼らに君が我慢ならないなら、彼らをして君を殺させるがよい。彼らのように生きるよりはそのほうがましだから」
「健全な目は、なんでも見える物を見るべきであって、『私は緑色のものが見たい』 などというべきではない。これは目を病む者のいうことだ。同様に健全な聴覚と嗅覚は、聴きうべき、また嗅ぎうべきあらゆるものにたいして用意がなくてはならない。また健全な胃の腑はあらゆる食物にたいして、ちょうど挽臼がすべてを挽くようにできている穀物にたいして用意があるのと同じようでなくてはならない。さらにまた健全な精神もあらゆる出来事にたいして用意がなくてはならない」
マルクス・アウレリウス共振 " Pensées pour moi-même " de Marc Aurèle (2010-11-03)
マルクス・アウレリウス MARC AURELE SE MET A ECRIRE A 50 ANS (2005-10-09)
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