今回の日本滞在では辻邦生の文章に触れ、昔の印象と比べてみたいと思っていた。本棚を見ると 「西行花伝」 などの歴史物しかなかったので、現代を語っている作品を探すことにした。普通の本屋さんで辻の本を見つけるのは難しいことがわかる。仕方なく古本屋に向かう。そこでもなかなか見つからない。駄目かと思ったその時、小さな折りたたみ式の椅子が置かれているところがあり、それを避けてみると彼の作品群が現れた。その中から 「時の終わりへの旅」 を手に入れる。
昨日の朝は雨模様。近くのカフェまで出掛け、彼の日記を読み始める。お昼にいったん戻り、午後再び出る。久し振りにシガーをやりたくなり、適当な店を探すがなかなか見つからない。これも諦めかけたその時に、道に出た席のあるコーヒーショップが目に入る。それにしても、東京の街のこんなところでわざわざシガーをやろうなどというのは、別世界から来た人間だけだろう。異星人の気分でいた。2時間ほど、道行く車を眺めながら表題のエッセイを読み終える。道行く人も眺めたが、なぜか楽しそうには見えない。以前にも感じたことだが、まだ街を勝ち取っておらず、人間が街から疎外されているように見えるのだ。
ところで、以前に指摘された辻の文体との類似だが、自分ではなかなかわからない。ただ、記憶に残っている表現の回りくどさやそこからくる眠気を誘う退屈さは今回は感じなかった。それどころか、ものの感じ方や見方に通じるものがあるのではないかとさえ思えた。例えば、彼はこんなふうに詩が生れる人生をよきものと考えていることが見えてくる。
「もしよしあしを言う価値基準があると、それだけでこの絶対的な跪拝の原点をこわすことになり、<詩>は生れてこない。あらゆる人がそのままで<深い人生>を現わしているとする絶対肯定の、シェイクスピア的静けさ、générosité こそが、つきない<詩>をつくる。この自己放棄と評価的規準の放棄---絶対肯定・足もとへの感動的跪拝が<詩の源泉>となる。・・・
・・・<すべての人生の姿>を<よきこと>として---<乞食>や<浮浪者>や<ヒッピー>や<悪党>の深い礼賛者として---決して新聞的教育者的道徳教にしたがうのではなく、<すべてをよし>とする<無>となることによって---<この世>を両手で<なんていい奴なんだ、お前は>と叫びながら douceur を感じつつ抱きしめるのである。
ぼくらを縛りつけ<詩>から遠ざけたのは、この評価的な対象化する態度でなかったろうか。すべてがよく、すべてが美しく重く面白いのだとする態度を、どこか放埓な無責任なものと考える考え方が、ぼくらから<詩>を奪っていたのではないだろうか。
その理由はおそらく教育的な要素や立身出世型、追いつき追いこせ型の生き方・考え方が社会に充満し、ぼくらもそれに染まっていて、<遊び>を遠ざけていたことに関係があるであろう」
今が目的で常に完了し、完全なエネルゲイアと今は目的に至る過程であり、常に未完成なキーネーシスの対比を身に沁みて理解し、エネルゲイア的生を生きたいと昨年考えた。このエネルゲイア的生と<詩>が生れる生は地下で繋がっているのではないだろうか。
永遠を視野にエネルゲイアを取り戻す (II) (2010-01-02)
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