« Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)
「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ」(ポール・エリュアール)
mercredi 20 juillet 2011
真実に迫る意志と複眼
妙齢の美女か、魔法使いの老婆か。
一つの絵でも見方によって全く違う姿が顔を出す。
両方が見えることもあれば、一方しか見えないこともある。
人間の認識はこれほど危いものである。
情報 information の語源はラテン語の動詞 informare に由来する。
心に形を与える、教える、導く、という意味になる。
つまり、情報とはそもそもある意図を以って発せられるものであることがわかる。
情報操作とは、本来の意味から言えば redundant になることを前ブログで触れた。
「情報操作」 という言葉に込められた欺瞞 (2011-02-05)
ところで、フランスでは日本の政治状況を知るために、ネット (ニュース、個人ブログなど) に頼っている。拾い読みにしか過ぎないが、マスメディアの内容は大同小異。楽しく、平穏に暮らしましょうというスタンスのものが多く、根本的な批判は少ない。一見厳しい批判をしているように見える時は、みんなが同じようにやっている時だ。一方、個人ブログは、分析型のものから客観性を装っているが意図は明らかなもの、ぼやき、アジテーションまで多様である。個人のブログなので偏っているのは当たり前だろう。それだけに、振り返ってみると読みたいものを読んでいることが多い。聞きたくない意見には耳を貸さないようになる。判断の元になる情報を集めているつもりだが、実は相当偏っている可能性がある。
こんなことを考えたのは、24時間流れるテレビを見ながら、あることに気付いたからだ。それは、フランスで描いていたイメージがあっさりと掻き消されていることだった。日本では日常の景色が入ってくるので政治の世界が遠景に下がっていく。そんなに厳しく考えなくてもよいのでは、という気分にもなる。忙しく働いている人がテレビだけに頼っていると、流れに任せることになりかねない。断片しか伝えられないので、日常的にサブリミナル刺激を受けているようにも見える。断片をつなぎ合わせるだけの時間がないと、そのイメージだけで判断することになる。
状況はネットの世界も同様で、そこからまともな情報を得ていたかと問い返せば、上で触れたように答えは甚だあやしい。今の立場から見ると、それが偏っていなかったとは言えないのである。どちらがまともな姿を伝えているのかがわからなくなり、さらに真実などそもそも捉えられるのかという疑問にまで至るのだ。
それでは何を頼りにすればよいのだろうか。一つは真実に辿り着くのは不可能に近いことを理解すること、それを理解した上で真実に迫ろうとする意志を確認することではないだろうか。この確認は、事が起こると一色に染まり、熱狂する傾向の強い日本という空間では特に大切になるだろう。一つのものを異なる角度から眺め、いろいろな姿を探そうとする複眼が不可欠になるだろう。日本を外から見ている人たちの観察には参考になることが多い。外国語を学ばなければならない理由がここにもあるように見える。
時差ぼけの夜。
皆寝静まった中、静かにテレビを眺める。
そこにはヨーロッパの懐かしい景色が流れていた。
オックスフォード、アムステルダム、クラクフなど。
落ち着いた街並みや人々の暮らしを綺麗な映像とともに味わう。
この時間帯にテレビを見ると真実に迫ることができるかもしれない。
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