« Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)
「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ」(ポール・エリュアール)
jeudi 7 juillet 2011
チャールズ・サンダース・パースの人生
こちらに来る前どころか、こちらに来てからもつい最近までは全く縁のない方であったチャールズ・サンダース・パースさんがいくつかの繋がりで浮かび上がってきた。この機会に、まず彼の人生を振り返っておくことにした。
彼はアメリカのプラグマティズム(彼自身は後にプラグマティズムとの差を強調するためにプラグマティシズム pragmaticism と呼んでいる)の創始者にして論理学、言語学、記号理論、数学の研究家、さらには精神と物質には連続性があるとする一元論を唱えた哲学者でもあった。生前に発表された作品は極めて少ないが、生涯に残した原稿は2万ページとも10万ページを超えるとも言われる。
彼は1839年マサチューセッツ州ケンブリッジ生れ。父親のベンジャミンはハーバード大学の数学教授。この父親から知的な刺激を受けて育つ。哲学的、科学的問題をあくまでもひとりで考えるという彼の生涯に亘る習慣は、若き日の環境に因る可能性が高い。また、そこに彼のオリジナリティの源泉があるとの見方もあるようだ。10代前半で論理学の教科書を吸収し、16歳からの3年間でカントの純粋理性批判を読み込んだ結果、その論理の幼稚さ故、カントの哲学体系は否定されなければならないと考えたほどで、生涯の思索は論理に照らしたものとなる。
ハーバード大学で化学を修めた後、1859年(20歳)から1891年(52歳)までの32年間、米国沿岸測量局に勤める。この間、彼の仕事は科学的な測定の実地と理論に関するものであった。この経験が後に彼を科学的決定論から遠ざけることになったとされる。
1879年(40歳)から1884年(45歳)までジョンズ・ホプキンス大学数学講座で論理学を教える職を得るが、彼の2度目の妻ジュリエットがジプシーで、しかも結婚前から一緒に生活していたこともあり職を失う。彼がアカデミックなポジションに就いたのはこれだけである。ハーバードでは彼のことをよく思わない人が1869年から1909年の長きに亘り学長でいたため、就職は叶わなかったという。
1887年(48歳)には親の遺産でペンシルヴァニア州ミルフォードに2000エーカー(8平方キロ)の土地を購入。そこを Arisbe と名付け、終の棲家となる。1891年(52歳)に沿岸測量局を辞めた後は、翻訳やコンサルタントのような仕事をして生活するという経済的には苦しい後半生になった。ウィキの記載によると、最後の20年余りは冬の寒さをしのぐこともままならず、原稿を書く紙にも苦労したという。この間、救いの手を差し伸べていた人の中に、大学時代から親交のあったウィリアム・ジェームズ(1842-1910)がいた。そして、1914年、極貧の中、ミルフォードで74年の生涯を閉じている。
Inscription à :
Publier les commentaires (Atom)
Aucun commentaire:
Enregistrer un commentaire