« Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)
「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ」(ポール・エリュアール)
samedi 9 juillet 2011
トランペットに思わぬ対比を見る
昨日は定期検診に午後から出掛ける。予定の時間から1時間半遅れての診察になった。全く驚かず、イライラもしなくなっている。気が長くなったというよりも、その時間を使えばよいだけの話だと割り切れるようになっただけなのだろう。こういう境地になったのもフランスに住んだお陰なのだろうか。最近読み始めた本に喜んで向かう。こういう場所は集中力が否が応でも高まるからだ。
帰りのメトロでも想定外のことが待っていた。駅を出て暫くしてからアナウンスがあり、止まったかと思うと今度は後ろ向きに動き出した。フランスのことなので、後ろの運転席で運転しているのではないかと心配していた。出た駅まで戻るとまたアナウンスがあるが何を言っているのかわからない。周りの人に聞いてもわからないと言う。ホームの向かいの電車に乗り込んだり戻ったりの繰り返しをやらされた後、元の電車に戻ると動き出した。
帰ってから届いたばかりの本をバルコンで読み始める。これもニューヨークの会で発表された方のものなので、非常によくわかる。と言うよりは、その話について行きましょうという意欲が湧いてきて途切れないと言った方が正確かもしれない。
暗くなってきたので、昨日のブログ記事にあったマイルスの窓を開け、彼の音楽を芋づる式に聞いていた。その中に、フランス人制作になるドキュメンタリーが現れ、マイルスの話に惹き込まれて Part III まで行った時、突然こんなことが頭に浮かんできた。
クラシック音楽のトランペットが直線的、理性的、客観的、科学的、官僚的、決定論、機械論、還元主義、物質主義などの言葉を連想させるのに対し、ジャズのトランペットは複雑、自由、カオス、予測不能、主観的、生気論、哲学的、精神的、全人的などの言葉が当て嵌るのではないか。そして、ジャズトランペットの方が人間を幅広く表現でき、圧倒的な魅力を持っているように見える。それはこのジャンルや演奏家だけではなく、楽器自体も生き生きとしているのではないか。
このような対比が浮かんだのは、3つのことが結び付いたためではないかと思っている。一つは、もちろんマイルスのドキュメンタリー。二つ目は、その前に読んでいた科学と哲学の本。そして最後は、昨日観ていたシカゴ交響楽団のトランペット奏者アドルフ・ハーセスさん(Adolph "But" Herseth, born July 25, 1921) のアトリエのビデオである。ハーセスさんは金管の素晴らしさでは定評のあるシカゴ響で1948年(27歳)から2001年(80歳)までの53年間に亘って演奏したという伝説の方で、もうすぐ90歳になる。その昔、趣味でクラシック音楽のトランペットをやっていた当時、その演奏に惹かれたものである。その実績とは別に、アトリエでのトランペットから出てくる音やお話に深みとでも言うべきものが欠け、今ひとつ面白くなかったこと、また並んでいる多くの楽器も余り生き生きとしてはいないという印象が残っていたことがこの対比の背景にあるような気がしている。
一夜明けると特に目新しい対比には見えないかもしれないが、科学と哲学に関する言葉が浮かんできたことが自分にとっては新鮮だったようだ。
ゲオルグ・ショルティ ― シカゴ妄想 (I-IV) (2005.3.27-4.3)
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