samedi 16 juillet 2011

日本の現状について語り合う



昨日の夜は学会でパリを訪れている鹿児島大学のS氏と食事を共にした。アメリカ時代からの友人になるので数十年に及ぶお付き合いになる。話題は日本の現状に関するものがほとんどを占めた。政府から始まり、マスコミも科学行政を仕切っているところも、大学も学生も何かが欠けているという。芯になるものが見えず、すべてが薄っぺらいという。何かが起こると、少数意見を排除し一つの方向に流れる、あるいは流れるように持って行こうとする動きがあり、しかもそのことに気付いていないことが多いのではないかという。お話を伺いながらそこに通底していると感じたのは、ここで言うところの考えていないということ。ものの見方、考え方としての哲学の欠如とそのために起こる行動の規範の不在になる。

そこから抜け出すには小手先のことでは最早どうしようもないところまで来ているのではないだろうか。教育を問題にせざるを得ない時期に入っているように見える。数代先を見据えたまともな議論が出てきても不思議ではないと思うのだが、そのような声は上がっていない。すべての学科を支える哲学教育も議論の対象になってしかるべきだろう。ただ、S氏は日本人は哲学という言葉に抵抗を示すのではないかとの印象を持っておられた。どの言葉を用いるかは別にして、フィロソフィアの基本に還って考える人間を産み出す教育を措いて、日本の再生はないという思いが益々強くなっていた。その実現可能性について、S氏には疑問符を付けられたが、、。

先日読んだレジス・ドゥブレさんDu bon usage des catastrophes にあった言葉を思い出す。日本という国は地理的にいつも台風、地震などの天災に晒されていて、そこに住む人間は子供の頃からこの世の儚さ、無常感が身に沁みている。つまり、アポカリプスに対する智慧が身に付いているという。その無常観はどんなことをしてもしようがないとして諦める心にも繋がり、ひょっとすると天災だけではなく人間が行っていることについても同じように対処しているのではないかという疑念が生れていた。

日本を離れて4年。偶に覗くネットのニュースだけでは日本の状況の細かな感触は掴みきれていないことを感じる。2-3年目あたりから日本を抽象化した話が多くなってきたが、それは具体的な事象が捨象されていた証拠なのかもしれない。近過ぎても見えないが、遠過ぎても見逃すところがあるということだろう。遠近法を駆使しなければならないのかもしれない。

ところで、科学の後に哲学をやっている者が書いているブログを学生さんに紹介しているとの話が出てきて驚いた。若い方のためになるようなことがあるのかどうかはわからないが、日本からはなかなか辿り着かないブログであることは確かなようだ。

日本を離れ、普段考えていることを 「パリの洞窟で瞑想する修験者」 と心おきなく話していただいたとすれば幸いである。


クラーク精神から近代科学の受容と日本のこれからを考える (2011-06-29)


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一夜明けて、昨日次の記事がそのまま当て嵌まる話が出ていたことを思い出す。それは、事に当たる時にはまず理解しなければならないのだが、なぜか判断の方が先に来て、それをもとに動こうとするところがあるということ。道を誤りやすいやり方になる。

曖昧さに耐えること、そして理解することと判断すること
(2011-05-31)



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