jeudi 8 décembre 2011

「科学から人間を考える」 試みのまとめをする



昨日のこと。今回東京で始めた小さな試み 「科学から人間を考える」 に参加された方から届いたメッセージをまとめて読み直す。そうしているうちに、これをわたしだけで留めておくのはもったいないと思い始め、専用サイトに公表することにした。それを読んで考えていると、次に向けての改善点などが見えてくる。このような二方向、三方向の流れが新しい道を探し出す上で大切になるのだろう。

第1回のまとめは、こちらです。

今回参加された方の多くはブログ経由で、当日このブログについての感想を伺ったり、ブログをもとに書かれたエッセイを手渡していただいたりと身に余る言葉を味わうことになった。中にはパンフレットを置かせていただいたアテネ・フランセやポスター掲示をお願いしたいくつかの大学で情報を得て参加された方もおられ、ブログの外に働きかける大切さにも気付いた。

改めて、試みに参加された皆様、コメントをお寄せいただいた皆様に感謝いたします。



9 commentaires:

  1. 何回か、コメントを入れてましたが、認証文字を入れ忘れて、反映されていなかったようです。

    面白い試みをされておられますね。今度の大震災とそれに続く福島原発事故で、科学技術について、根本的に考えてみたくなり、少し、まとめてみました。お時間のあるときに、お読みいただければ幸いです。自然科学や科学哲学がご専門のpaulさんが、どうお考えになるか、興味のあるところです。

    http://bit.ly/vSjyYv

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  2. 冬月様
    コメントありがとうございます。
    論文のあるサイトに行ってみましたが、次のメッセージが出てきました。
    「閲覧するドキュメントを取得できないか、ドキュメントを閲覧する権限がありません」

    やり方が悪いのでしょうか。

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  3. すみません。

    http://blog.goo.ne.jp/delfini2/e/fa4f15f6c9065471724aa0c8551870cb

    の「科学技術の合理性について―時間と空間の概念をめぐって―」から入れるでしょうか。

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  4. お示しのページから入ってみましたが、なぜか同じメッセージが出てきます。他の方法はあるでしょうか。

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  5. これで入れると思うんですが...

    名前にリンクを貼りました。もしだめなら、お手数ですが、もう一度、おっしゃってください。

    たびたび、恐縮です。

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  6. 今度は見ることができました。
    これから読んでみようと思います。

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  7. 冬月様

    興味深い論文を紹介いただきありがとうございます。物理学が中心になっているため、わたしの理解には限界がありますが、この領域でどのようなことが問題になっているのかの感触を得ることができました。また、詳細なまとめや生の資料が取り上げられており、これからの参考にしたいと思います。

    科学における真理が発見なのか発明なのかというのは、科学に対する見方が問われる大きな問題だと思います。わたし自身もこれからいろいろな領域を対象にして考えていかなければならない点を確認していました。

    マルクーゼのテーゼについてのところですが、おそらくこのテーゼに同意する人ばかりではないと思います。反対側の考えと意見を戦わせるようにするとより立体的になるのではないかと思いました。

    それから、最後の「存在論的な科学」ですが、今ひとつイメージが湧きませんでした。ナイーブな科学者としては、主体抜きに何かを見ることはできるのか、さらに言えば発明などできるのかという疑問も出てきます。あるいは主体と客体が一体になるというのはどのような状態なのか。興味はありますが、もどかしさを感じたのも事実になります。論文でもそのあたりのイメージがはっきりしないとのことでしたが、お考えを伺うことができれば幸いです。よろしくお願いいたします。

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  8. ■どうもお忙しいところ、お読みいただきありがとうございます。

    さて、ご質問の「存在論的な科学」についてですが、ぼくにも、イメージがまだはっきりしません。これを考える時には、Wissenschaftのもともとの意味に立ち戻る必要があろうかと思っています。「存在論的科学」というときの「科学」とは物理学や生物学、経済学や社会学といった「個別科学」ではありませんし、また、そういった個別科学の「総合」でもありません。学の体系というほどの意味だと捉えています。また、ここで、「存在論的」と言ったのは、「存在のありよう」を全体的に問題にするという意味です。

    学の体系は、カテゴリー批判を展開することで、存在のありようを体系的に把握するというイメージが、ぼくにはあります。マルクスは、社会的カテゴリーを、存在や実存の反省的諸規定だと述べましたが、この意味では、「生産」や「労働」などの社会的カテゴリーを批判的に問題にすることは、存在そのものを問題にすることにつながります。たとえば、『資本論』の副題は、政治経済学批判ですが、やはり、学の批判を通じて、社会的存在そのものを問題にしたのだと思います。

    近代は、資本主義、宗教、科学技術の三要素が、重要ですが、マルクスの時代には、キリスト教批判と資本主義批判が、折り重なるように進められました。宗教批判の論理を用いて、社会構造批判を行ったとさえ言えるように思います。現在、資本主義は、グローバル化と科学技術によって、新しい段階に来ていますが、昔のキリスト教批判の位置に、現存の科学技術があるように、ぼくは、感じています。

    原発は、その象徴的存在で、原発の存在論的分析という発想で、仕事をしている中沢新一氏などもいます(『日本の大転換』)。ただ、この本は学の「総合」という視点しか持ち得ていないために、先に述べたカテゴリー批判を通じた体系的な存在分析という機制は取られていません。

    マルクスは、「社会的カテゴリー」を問題化しましたが、今、問題なのは、むしろ、「自然的カテゴリー」ではないかというのが、ぼくの考えです。時間や空間といったカテゴリーは、価値中立的で、すべての人に役に立つといった衣装をまとっていますが、自然的カテゴリーは、実際には、特定の集団の利益になり、特定の集団を代弁することになっていた。これが原発問題で、はっきりしてきたことだと思います。科学技術の成果は成果として認めつつも、そもそも、「自然」と「人間」は、倫理(善悪の区分)や孤独(死の認識の有無)といった点で決定的な差異があり、その差異を内在化できていないのが現存の科学技術ではないでしょうか。

    今後、ヘーゲルやマルクス、ルカーチといった人たちの仕事を検討しながら、存在論的科学について、考えを深めていければ、と思っています。

    また、他方で、気になっているのが、Wissenschaftとはもともと異なる、体系的でない知のありようで、具体的には、ジンメルやアドル、ベンヤミンなどを源泉とするエッセイの系譜です。これも、断章や短い文章ながら、Wissenschaftに劣らぬ根源性を持っていると思っています。

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  9. 早速、お考えをお送りいただきありがとうございます。なぜかスパムに入っていましたが、これまでにも経験があったためすぐに気付くことがきました。コメントを読んでの感想のようなものを以下に書いてみます。


    「存在論的な科学」は個別の科学でもその総合でもないとのこと。「存在のありようを全体的に問題にする学の体系」として捉えるのであれば、これこそ本来の哲学に任されている領域に通じるような印象を持ちました。

    「学の体系」がその批判(カテゴリー批判)を通して存在のありようを把握するのだとすれば、学の中の学、すなわち現在行われている個別科学ではなく、個別科学、ないし個別科学の集合の営み、あるいはその対象について観想・批判することが余儀なくされるという印象があります。もしそうだとすると、わたしが考えている哲学の営みに近いと思います。問題はそれをどのように進めるかで、それによって向かう先は違ってくるとは思いますが、、。

    現代人は意識するしないに関わらず、科学的でないとされるもの(科学で確認されないもの)に対しての目は完全に閉じられているように見えます。それは人間の意識や思考を著しく狭めているのではないかと思っています。科学の中では思考するものの、科学という営みを相対化するという視点が薄弱になり、真の意味で自ら考えることをしなくなっているように見えます。最初の枠を科学が作ってくれているため、考えることを科学に任せてしまっていると換言できるかもしれません。このような状況は科学自体が批判の対象になり難いという意味で、その外にあるべき哲学的視点が重要になるのだと思います。

    科学技術がその中に倫理を取り込むことができるのか、という問に対しては、現在行われている個別科学の中では非常に難しいという感触があります。なぜならば、現場の科学者の興味はそこにはなく、科学の中での成果を上げるところにしかないからです。今回の免疫学会では、科学をその現場で行われていることに限定せず、哲学や歴史などの周辺領域を含めた全体として見ることが重要になる点を強調しました。その際、細胞内にある一つの蛋白として科学を見るのではなく、他の機能を持つ蛋白(哲学などの)を含んだ細胞全体を科学として見直す必要があるのではないかという比喩を用いました。ここで問題になるのは、これらのタンパクがどのように相互作用するのが健全な細胞として成立するために求められるのかということですが、これはこれからの大きな問題になるのではないかと考えています。

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