昨日、ルクセンブルグからパリに戻る車内で読んでいた雑誌にウィキリークスのジュリアン・アサンジさん(Julian Assange, 1971-)とプリンストン大学の倫理学者ピーター・シンガーさん (Peter Singer, 1946-)という二人のオーストラリア人の対論が出ていた。ウィキリークスとジュリアン・アサンジという名前は知っていたが、どのような人物なのかまでは知らなかった。わたしに頻繁に起こっている状態である。ざーっと目を通して印象に残ったところを少しだけ書き出してみたい。
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シンガーさんがこう口火を切っている。哲学者として、この世界をよりよいものにしようとする試みには興味を持っている。情報の透明性と最大限の拡散を目指すウィキリークスもその中に入るだろう。この試みがよりよい政府を生み出し得ること。その一方で、通報者の生命を危険にさらしたり、現在進行中の政治・外交の障害になる可能性がある。このことは、国家に対する国民の信頼を危いものにすると同時に、情報の安全をさらに強固なものにするための出費へと導くだろう。これに対して、アサンジさんはそこに入る前の大前提から考え始める。その問は、一体どういう世界にあなたは住みたいのか。今よりもよい世界とはどのようなものなのか、である。彼はまずこの世界がどのように動いているのかを理解しようとした。そのために、最大限の情報を集めようとする。この情報に対する渇きが若き日にハッカーになった理由だと言っている。そこから彼は二つの結論を導き出す。ひとつは、資金のない状態で、重要で将来インパクトのあることをしようとすると、情報の流れに乗って行動しなければならないこと。もう一つは、行動に至る決断は自分が持っている情報に依存していることであった。
情報がどのように世界を形作っているのか。その解に至るためには、自らの周りを観察し、その結果をまとめて概念化し、そしてその概念に基づいて行動すること。これが難しいのは、現在の世界を構成する要素が以前のように直線で結び付くような関係にはなく、複雑で予測不能な相互作用によって成り立っているからだ。情報に基づいて行動すること、それは取りも直さず世界に対して働きかけることである。それによって、世界のバランスが変わり、新しい世界が現れる。政治・経済のエリートに対抗して民主主義を機能させるためには選挙だけでは不十分で、情報の流れを見ることが不可欠になる。ウィキリークスの目的は、行動の基になるこの世界についての情報を最大限に用意すること、それだけである。
« Pour changer le monde, il faut circuler l'information. »
「世界を変えるためには情報を広めなければならない」
アサンジさんはこんな指摘もしている。インターネットはほとんど資金なしに表現できる開かれた場で、誰でも雑誌の編集者になれる。それはよい点である。しかし同時に忘れてはならないのは、これまでにないほど高度な監視の目が光っているということだ。監視装置とデータを集める企業が秘かにこの場を浸食しているのである。「世界を変えるためには情報を広めなければならない」
道徳について、アサンジさんはこんな考えを語っている。
われわれの中にある道徳的な本能とでも言うべきものは、われわれの祖先が小さな集落でお互いに見張り合いながら暮らしていた時の記憶から生れている。見られていることを意識すると、人はより正直に、より道徳的になるだろう。インターネットでも確かに見られている。シンガーさんが指摘されるように、その環境では例外はあるものの、より道徳的な世界ができ上がる可能性はあるかもしれない。しかし上で述べたように、この場は透明性と同時に監視の場でもあるということだ。これはこの文明にとって致命的な結果を齎すかもしれない。われわれの行動を分析し、操作しようとしている権力が背後にあるからである。
小さな町で育った経験から、全員が知り合いであるという環境はしばしば抑圧的なものであると考えている。その社会の規範に矛盾しなければ全く問題ない。しかし、異なる規範に従う場合、その社会のコンセンサスに反旗を翻す場合、居心地の悪い難しい状態に陥るだろう。全員が受け入れる道徳的規範を危険だと思う理由がそこにある。
道徳はわたしがいつも考えていることではない。人に向かって、あなたはこうすべき、などと自分の世界観に合う行動を押し付けることなどできない。それぞれが自らの信念に基づいて最後まで行くしかない。その結果を充分に考え、責任を取るという前提で。
ぼくも、インターネットに興味を持って、2冊ほど、関連書を翻訳しましたが、アサンジが出てきたときには、本当にびっくりしました。そのラディカルさと果敢さにです。ですが、反対勢力に対して、あまりにも、無防備だったように思いますね。アサンジのインタビューを読むと、情報の生産と消費について、かなり、ナイーブな考え方で行動していたような気がしました。情報は、実体としてそこにあるものが流通するのではなく、受け取り手との共作の側面もあります。また、情報は知の問題とも関連し、知はイデオロギーや信の問題とも関連してきます。このあたりの問題に、興味を持って、以前、まとめたペーパーがあります。もし、お時間が許せば、お読みいただければ幸いです。
RépondreSupprimer「情報とイデオロギー、あるいは知と信の問題について」
http://blog.goo.ne.jp/delfini2/s/%BE%F0%CA%F3%A4%C8%A5%A4%A5%C7%A5%AA%A5%ED%A5%AE%A1%BC
興味深いペーパーを紹介いただきありがとうございます。
RépondreSupprimer情報に関しては、生物学でも大きな分野になっており、また分野によってもその意味合いが異なってきますので興味を持っているところです。情報は切り取られたものであり、送り手の恣意が加わるというのはその通りだと思います。また、受け手の側がそこに加わってくるというのもそうだと思います。生物学の領域での情報伝達においても、同じ物質が受け手(細胞)の状態が変わると違うシグナルが生じ、細胞の態度が変わるということがあります。受け手の解釈で情報の意味が変わってくることになります。
これは以前から感じていることですが、情報発信者の心理の中に自らが権力を行使しているというポジティブな意識がどこかにあるのではないかということです。特に、その情報が権力や特定の団体などと結びつくことになると本人が考える場合に断片化の恣意性が増すのではないかと疑っています。真の意味で独立して考えている発信者が非常に少なく、どこかに寄りかかっているために迫力が伝わってこないという印象を持っています。
「カノッサの屈辱」を読みながら、日本の政治家と天皇の僕としての官僚の対立が想起されました。このような構造のあるところには当然起こり得る対立でありながら、その骨格が必ずしも透けて見えていないところに問題があるようにも見えます。これも情報の恣意性と関連しているのではないかと思いますが、、。
最近の実例を交えた生活様式のモデル化も面白く読みました。細かいことですが、最後の実証主義のところにある「サン=シモン」は「オーギュスト」ではないでしょうか。
お忙しいところ、お読みいただきありがとうございました。
RépondreSupprimer「独立して考えている発信者が少ない」というお話、そのとおりと思います。マンハイムが言うように、思考は集団あるいは空間に規定されますので、独立して思考することは、意外に、難しいのかもしれません。権力や特定の団体に寄りかかるのは、論外ですが、思考することは、どこかに、自己批判も含めて、批判を含んでいないと、なかなか、独立できないのではないか、とも思えます。批判が感情論に転化しない文化風土は、やはり、羨ましく思えます。
「サン=シモン、コント」でした。失礼しました。