samedi 16 avril 2011

23年前の原発議論を観る



1988年10月の「朝まで生テレビ」で行われた原発についての議論を観る。当時はほとんど無関心であったが、原発の事故が現実のものになった今の時点から眺めると、問題の本質がすでによく表れていたことに驚く。暇にまかせて最後まで観てしまった。

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15


まず感じたのは、原発の推進は個人がやっているのではなく、会社の人間であるのに対して、反対派は個人のレベルから始めているのではないかと推測されることだ。途中、同様のことを石川好氏が観察している。この点はこれまで何度か触れてきたことにも繋がる。

 「専門性と責任の関連を考える」(2010-05-16)
 「考えるということ、あるいは一人になること」(2011-03-27)

さらに驚いたのは推進派が政府の代弁までしていることで、会社と政府が一体であることを示している。少し引いて見ると、政府の方針に会社が乗り、その中にいる人たちが推進派にならざるを得ず、その枠の中でしか考えられなくなっているように見える。災害になるようなことはあり得ないし、日本の技術はすべての不測の事態に耐えうるものであるという予想された心情が浮き彫りになってくる。皆さん、同じような表情をしているのも印象的であった。

それから、科学的であるということは論理的に説明ができなければならない。したがって、論理的におかしな説明には注意を要するが、そこに誤魔化しがあると正直に透けて見えることがよくわかる。問題は、それをそのまま流してしまわないで、どれだけ自らの中に留めることができるかになるのだろう。そこで止まることができるかどうかが未来を決めることになるからである。懐かしい顔を眺めながら、好きだとは言えない番組で勉強させていただいた思いである。


Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire