« Le hasard n'existe pas, il n'y a que des rendez-vous » (Paul Éluard)
「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭いだけだ」(ポール・エリュアール)
mercredi 20 avril 2011
本日もヴァカンス、そしてサルトルとスタンダールの関係など
一体どうしたことだろう。
もうその訳を探るのを止めて、その状態に身を委ねることにした。
やる気が起こらないのでそれ以外にやりようがない。
数日前、検索の過程でブログに辿り着いた方からメールをいただいた。こちらも知りたいことがあったので、情報をお願いしたところ丁寧な返事が届いた。そこで関連の本を検索したところ、少なくとも1冊は手元にあることがわかった。すっかり忘れていたのだ。いつもとは違うリブレリーに入り、" Des liens " (つながり) というタイトルがこの場のテーマとも重なることもあり、手に入れておいたものだ。こういう時いつも感じるのは、こちらに来てから自然にでき上がった原則が如何に多くのものを齎してくれるかということだ。それは、その瞬間に何かを感じた本は手に入れるということ。実物がなければ、そういう本に出会っていたことも忘れ、それから先へは広がらないからである。
ところで、その本を探し始めたがどこにあるのかわからない。結局、目の前の机の上に重ねてあるいくつかの山の一番下に見つかった。そこに至るまで本棚の中やその辺りに散らばっている本をひっくり返す過程で、いくつか記憶を刺激する本が現れた。一つは、モーリス・ブランショの 「わたしの死の瞬間」。
L'Instant de ma mort (Maurice Blanchot)
この本は2003年3月、すなわちフランス語を始めて2年目に読んだもの。その不思議の世界に困惑し、フランスの世界に引き込まれる誘因の一つになった20ページ足らずの小説である。今回読み直してみて、どうしてそう感じたのかよくわからなかった。それと内容をよく理解していなかっただろうこともわかった(その時よりは理解力は上がっているだろう)。当時、理系の研究に全神経を傾けていた状態で、何十年振りかの小説を読み、しかもまだよくわからなかったフランス語だったため驚いたのではないか、と今では想像している。
BRUNO CREMER - BALZAC - 「土曜オアシス」 (2005-02-18)
それから、こちらは6年ほど前、BnF で開かれたサルトル展で手に入れた一冊。これが現れた時、以前とは違う感情とともに眺める。それはこの場に移るきっかけにもなったのがスタンダールの日記 (Journal) で、そのスタンダールとサルトルを並べて論じた本 「サルトル、スタンダール、そして道徳: あるいはスタンダールの復讐」 だったからである。こういう結びつきが生れてくるのも嬉しいものである。
Sartre, Stendhal et la morale : Ou la revanche de Stendhal (Paul Desalmand)
サルトルはスピノザとスタンダールになりたかった。哲学と文学を分けたくなかったようだ。フローベールについては3000ページに及ぶ言葉を残しているサルトルだが、スタンダールについての言葉は少ない。スタンダールの 「日記」 について書く計画はあったようだが日の目を見ることはなかったという不思議な関係。著者のポール・デザルマンさんは両者の共通点と相違点を挙げながら、二人の人生、思想、道徳などについて論じている。それを読みながら、ここのテーマと関連することが溢れていることに改めて驚く。
スタンダールの思想の根源を一言で表現するとすれば、" inventer " (考え、創り出す) という動詞で、それは形容詞の " imprévu" (予測もできない) と結び付いているとデザルマンさんは言う。この人生を同じことの繰り返しから救うのは、新しいものを創り出すという行為。同じことをくどくど繰り返す会話ではなく、そこから離れた時にはそれまでと違った人間になったと感じるような創造的な会話。決まった予定に沿って動く団体旅行や人生の歩みではなく、冒険の要素を孕んだ道行。
サルトルにしても、人間とは常に前に進む存在であり、可能性の塊である。今あるものではないのがその存在であり、今あるものはその存在ではない。存在とは、何ものかにより決められているものではなく、世界に投げ出されることによりでき上がる関係性の中で規定されるものである。したがって、存在のエッセンスはエッセンスのないこととも言える。自らの価値や原則を創造していかなければならない義務を負っているのが人間という存在になる。この二人に共通するのは、自由な選択の下、永遠に自らを創造していくことこそわれわれのエッセンスであるという考え方になる。
他の多くの共通点に対して大きな相違点が3つある。それはスタンダールの夢に終わった「生存中の栄光」、「有り余る金」、「自らの能力に見合った女性」 をサルトルは実現したことだとデザルマンさんは言っている。
サルトル展 (2005-06-20)
そして、「ニースのニーチェ」 が現れた。これも散策途中の新しいリブレリーで、今すぐ読むことはないだろうがそういう時が来るだろうと思い、仕入れておいたもの。2年ほど前のことになる。こちらについては、後ほど書くことがあるような予感がしている。同時に、しばらくはヴァカンスではないのかという予感もある。
Nietzsche à Nice (Patrick Mauriès)
mardi 19 avril 2011
映画 「東京原発」 を観る
一夜明けても、なぜかヴァカンス・ムード。
その訳がわからない。
仕方なく、ネットで見つけた 「東京原発」 (2004年)という映画を観る。
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この弛みは Pâques (Easter)のお休みに計画していた旅行を先週中止にしたことと関係がありそうだ。もうその計画のことも忘れていた。
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lundi 22 août 2011
今、ここに戻り映画をチェックしたが、すでに削除されている。
この映画は2-3度観たが、原発を取り巻く状況を余りにも正確に描いているのに驚いた。結局は問題点のもとになるデータの確かさとそれを受け取る側の想像力の問題になるのだろうか。そして、その想像力を働かせるためには自らの中に、そして社会の中に自由な思考空間がなければならない。そのことを意識させる一つに哲学があるはずなのだが、、。
lundi 18 avril 2011
緩んだギアを締め直す

なぜか夏休みにでも入ったような気分で、緩んでいる。
思い直して、徐に記号論に関する以下の2冊に目を通す。
Signs of Meaning in the Universe (Jesper Hoffmeyer)
Biosemiotics: An Examination into the Signs of Life and the Life of Signs (Jesper Hoffmeyer)
それから学会での発表内容について検討を始める。
関連論文に目を通しているうちに、ほんの少しだけやる気が出てくる。
始まったばかりだが、道遠しの感否めず。
dimanche 17 avril 2011
若き日の友人ご夫妻とのディネ
samedi 16 avril 2011
23年前の原発議論を観る

1988年10月の「朝まで生テレビ」で行われた原発についての議論を観る。当時はほとんど無関心であったが、原発の事故が現実のものになった今の時点から眺めると、問題の本質がすでによく表れていたことに驚く。暇にまかせて最後まで観てしまった。
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まず感じたのは、原発の推進は個人がやっているのではなく、会社の人間であるのに対して、反対派は個人のレベルから始めているのではないかと推測されることだ。途中、同様のことを石川好氏が観察している。この点はこれまで何度か触れてきたことにも繋がる。
「専門性と責任の関連を考える」(2010-05-16)
「考えるということ、あるいは一人になること」(2011-03-27)
さらに驚いたのは推進派が政府の代弁までしていることで、会社と政府が一体であることを示している。少し引いて見ると、政府の方針に会社が乗り、その中にいる人たちが推進派にならざるを得ず、その枠の中でしか考えられなくなっているように見える。災害になるようなことはあり得ないし、日本の技術はすべての不測の事態に耐えうるものであるという予想された心情が浮き彫りになってくる。皆さん、同じような表情をしているのも印象的であった。
それから、科学的であるということは論理的に説明ができなければならない。したがって、論理的におかしな説明には注意を要するが、そこに誤魔化しがあると正直に透けて見えることがよくわかる。問題は、それをそのまま流してしまわないで、どれだけ自らの中に留めることができるかになるのだろう。そこで止まることができるかどうかが未来を決めることになるからである。懐かしい顔を眺めながら、好きだとは言えない番組で勉強させていただいた思いである。
vendredi 15 avril 2011
メディアに出るインテリ

前ブログ AVFP で取り上げたリュック・フェリーさんの "L'anticonformiste" (反画一主義者)の中に、インテリ間の緊張関係が書かれている。日本でも同様の感情の動きが見られるのではないかと思いながら読んでいた。俎上に上がっているのはメディアを活躍の場にしているインテリで、それを批判する側もこれまでに触れたことのある人たちなので、ここで振り返ってみたい。
リュック・フェリーの 「反画一主義者」 を読み始める Luc Ferry "L'anticonformiste" (2011-03-21)
リュック・フェリーさんは、あくまでも哲学と政治学が自分の専門で、それが人生の目的であり、主要な仕事であると考えている。毎日10-12時間仕事をすることを日課にしているのでメディアに出る事を控えていて、依頼を引き受けるのは5-6回に1回とのこと。メディアで活躍するインテリ(intellectuels médiatiques)として出てくるのは、ベルナール・アンリ・レヴィさん(Bernard-Henri Lévy = BHL, 1948- )とアンドレ・グリュックスマンさん(André Glucksmann, 1937- )。彼らを批判的に見ているのはフェリーさんやコルネリュウス・カストリアディスさん(Cornelius Castoriadis, 1922-1997)、そしてアンドレ・コント・スポンヴィルさん(André Comte-Sponville, 1952- )。
映画 Le Jour et la Nuit - ベルナール・アンリ・レヴィ (2006-03-10)
もし・・・が起こっていなかったら SI ... N'AVAIT PAS EU LIEU (2006-09-30)
アンドレ・グリュックスマン - NIHILISME EXTERMINATEUR (2005-07-21)
アンドレ・グリュックスマンによる自由人 L'homme libre selon André Glucksmann (2009-10-30)
アンドレ・コント・スポンヴィル André Compte-Sponville (2007-10-13)
コルネリュウス・カストリアディスという哲学者 Cornelius Castoriadis, philosophe français (2009-05-17)
批判する側はメディアに出ているインテリ、哲学者をジャーナリストと捉えていて、ほとんど接触することがないか、会っても深いところに解きほぐせない緊張があるという。男前で金があり、有名人で女性にもてるユダヤ人の BHL について、スポンヴィルさんは「明らかに才能に溢れ、明らかに二流である」と形容し、フェリーさんも同意している。それから、本を書いて有名になる人と有名になったので本を書く人がいるが、私もスポンヴィルさんも前者に属していると言っている。さらに、メディアに出て道徳や説教を垂れ、余計なお節介をする役目(la mouche du couche)など私の望むものではないとはっきりしている。
jeudi 14 avril 2011
ガリマール展へ

昨日はビブリオテークでの集中が高まらないので、これまで何度もポスターを見ていたガリマール展(Gallimard, 1911-2011 : un siècle d'édition)に寄ることにする。今や世界の出版社になっているガストン・ガリマール(Gaston Gallimard, 18 janvier 1881-25 décembre 1975)が創設したガリマール社が100歳を迎えたのを祝っての展覧会になる。
比較的こじんまりした空間には資料が密に詰まっているという印象。作家の写真にしてもこれまで見たことのないものがあり、少しだけ嬉しくなる。日本人では三島由紀夫が取り上げられている。展示の資料に詳しく目を通すことはなかったが、例えばサン・テグジュペリの「星の王子様」の初版に使ったご本人の手になる絵があったり、ロダンが挿絵を書いているボードレールの「悪の華」のやはり初版本、ロジェ・マルタン・デュ・ガールが「チボー家の人々」のために書いたガーディアン紙によればメニューのような(折りたたむようになっている)全体の流れの献立、などなど文学に詳しい方にとっては興味深い資料が詰まっているのではないかと想像しながら濃い空間を味わっていた。残念ながらほとんどが豚に真珠状態だったが、ビデオ・コーナーは充分に楽しめた。ヘッドフォンを付け、以下の方々のお話を聴く。
Louis-Ferdinand Céline (1894-1961)
Annie Ernaux (1940- )
Georges Duby (1919-1996)
Michel Foucault (1926-1984)
Jean Genet (1910-1986)
Simone de Beauvoir (1908-1986)
Élisabeth Badinter (1944- )
Milan Kundera (1929- )
Le Clézio (1940- )
Pascal Quignard (1948- )
Michel Tournier (1924- )
Georges Bataille (1897-1962)
Francis Ponge (1899-1988)
Jorge Luis Borges (1899-1986)
Yukio Mishima (1925-1970) 最初と最後に少しだけフランス語で話していた。自分の内と外の境界をしっかり意識し、そのような話し方をする日本では珍しい人ではないかという印象を持つ。
会場が理想的な場所にあり、まだ聞いていない人もいるので、もう一度このコーナーに座ってみたいと思いながら会場を後にした。
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(20:50)
その後、クンデラさんの数十年前のインタビュー・ビデオを観た。どこかに発表されたのだろう。ベルナール・ピヴォーさん(Bernard Pivot, 1935- )がクンデラさんの言葉として、人間には4種類あると言っていることを確かめている。第一のタイプは大衆、不特定多数の人の前に出たがる人。第二は具体的な人、知り合いとの集まりを気に入っている人。第三は、愛する人の目がなければ生きて行けない人。そして、第四が実際には存在しない人の目とともに生きる夢見がちな人。最後の範疇には、例えば、もう亡くなった父親の目とともに生きるような人も入るとクンデラさんが付け加えている。その上で、ピヴォーさんはあなたは最後のタイプではないかと問い掛けている。それに対してクンデラさんは、必ずしもそうではない、それは秘密だと答えていた。
mercredi 13 avril 2011
リセの新しい哲学教育
日本における哲学教育を考えなければならない、などという想いが浮かんだこの朝。昨年11月の世界哲学デーで国民教育相のリュック・シャテルさんが話していたリセにおける新しい哲学教育のことを思い出す。
「世界哲学デー」 を発見(2010-11-18)
国民教育省(Ministère de l'Éducation nationale)のページでその詳細を調べてみた。これまでリセの最終学年には哲学があったが、その目的は二つある。一つは判断をする時に深く考える(これまでもよく出てきたキーワード "réfléchir")やり方を学ぶようにさせること、もう一つは哲学文化への入門編を提示することである。今年のラントレからリセの一般コースの1年目と2年目、さらに技術コースの2年生(1年生は来年のラントレから予定)にも哲学が加わることになったようだ。この実験的教育の特徴は、哲学と科学・文学・芸術などの他分野を絡ませる学際性(interdisciplinarité, multidisciplinarité)、個人の自律を促すそれぞれの生徒に寄り添った教育、それから各分野の関連性を発見させ、知の一貫性を感知させる教育の3本柱で、それらにより生徒を知的成熟へ導き、学際性を取り入れることにより学校での学習により明確な意味を与え、哲学の実践に親しむこと。最終的には、分析力を磨き、正確な概念への関心を高め、知的責任の意味を知ることを目指している。
関連ページに今年のリセ最終学年の文学に関する情報が載っていた。
必読書は以下の如し。
● 偉大な作品(中世から古典主義時代)
Gargantua de Rabelais
● 口語と映像(文学と映画)
Tous les matins du monde de Pascal Quignard
Tous les matins du monde (めぐり逢う朝)d'Alain Corneau (film)
● 文学と討論(文学と歴史)
Mémoires de guerre, Tome III (Le Salut. 1944-1946) de Charles de Gaulle
● 現代文学(フランス人、あるいはフランス語による)
A la lumière d'hiver de Philippe Jaccottet
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ところで、今日の写真は生存中にプレイヤード叢書(ガリマール社が出している)に入ったミラン・クンデラさん(ル・モンド特集記事から)。今日立ち寄ることになったガリマール展のビデオ・コーナーで、もう少し穏やかな顔をしていた若き日のクンデラさんがチェコ語訛りの強いフランス語で語るのを見て、急に親しみを覚える。遺伝学の父メンデルと同じ町の生れ。展覧会については明日触れたい。
「世界哲学デー」 を発見(2010-11-18)
国民教育省(Ministère de l'Éducation nationale)のページでその詳細を調べてみた。これまでリセの最終学年には哲学があったが、その目的は二つある。一つは判断をする時に深く考える(これまでもよく出てきたキーワード "réfléchir")やり方を学ぶようにさせること、もう一つは哲学文化への入門編を提示することである。今年のラントレからリセの一般コースの1年目と2年目、さらに技術コースの2年生(1年生は来年のラントレから予定)にも哲学が加わることになったようだ。この実験的教育の特徴は、哲学と科学・文学・芸術などの他分野を絡ませる学際性(interdisciplinarité, multidisciplinarité)、個人の自律を促すそれぞれの生徒に寄り添った教育、それから各分野の関連性を発見させ、知の一貫性を感知させる教育の3本柱で、それらにより生徒を知的成熟へ導き、学際性を取り入れることにより学校での学習により明確な意味を与え、哲学の実践に親しむこと。最終的には、分析力を磨き、正確な概念への関心を高め、知的責任の意味を知ることを目指している。
関連ページに今年のリセ最終学年の文学に関する情報が載っていた。
必読書は以下の如し。
● 偉大な作品(中世から古典主義時代)
Gargantua de Rabelais
● 口語と映像(文学と映画)
Tous les matins du monde de Pascal Quignard
Tous les matins du monde (めぐり逢う朝)d'Alain Corneau (film)
● 文学と討論(文学と歴史)
Mémoires de guerre, Tome III (Le Salut. 1944-1946) de Charles de Gaulle
● 現代文学(フランス人、あるいはフランス語による)
A la lumière d'hiver de Philippe Jaccottet
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ところで、今日の写真は生存中にプレイヤード叢書(ガリマール社が出している)に入ったミラン・クンデラさん(ル・モンド特集記事から)。今日立ち寄ることになったガリマール展のビデオ・コーナーで、もう少し穏やかな顔をしていた若き日のクンデラさんがチェコ語訛りの強いフランス語で語るのを見て、急に親しみを覚える。遺伝学の父メンデルと同じ町の生れ。展覧会については明日触れたい。
mardi 12 avril 2011
科学とは論理的な説明を人を選ばず求めるもの
今日は免疫学のセミナーに出掛ける。免疫学の教科書には自然免疫と獲得免疫という二つの異なる機構があると書かれている。獲得免疫はリンパ球(T細胞、B細胞)によって担われ、一度出会ったことを覚えていて、二度目には初回よりも素早く効果的に反応する「記憶」があり、微生物の細かい特徴を識別する「特異性」がある。一方、自然免疫には記憶も特異性もないとされ、マクロファージ、多核白血球、NK(natural killer: 自然殺傷)細胞などにより担われている。今日の演者は、マルセイユで研究しているNK細胞の世界的権威のエリック・ヴィヴィエさん。
お話の結論は、自然免疫と獲得免疫という二つの機構を分けている記憶と特異性について考え直さなければならない結果が蓄積してきていること。つまり、二つの機構の境界が曖昧になってきているということになるだろうか。記憶について見ると、NK細胞の半減期は大体17日だが、ある実験系では1-2ヶ月後でも活性が見られるという。この場合、記憶をどう捉えるのかが問題になるだろう。つまり、単に寿命が長いだけでよいのか、それともリンパ球の場合のように、機能的にも亢進していなければならないのか。それから特異性については、NK細胞と雖も手当たり次第に細胞を殺すわけではない。感染などのストレスによる変化が出ている細胞や腫瘍性の変化を起こした細胞を選択的に殺傷するので、特異性がないとは言えないとヴィヴィエさん考えている。ただ、その特異性はリンパ球の場合のように認識する対象の個別の違いをすべて識別できるわけではない。その上で、NK細胞にも特異性はあるが、対象を認識するレセプターが作られる遺伝子レベルの機構がリンパ球とは異なっており、特異性に関する両者の違いはそれだけであるというのがヴィヴィエさんの主張であった。NK細胞の場合にはリンパ球のような遺伝子の組み換えに因る多様な特異性を認識するレセプターを持っているわけではないが、特異性はあるということだろう。記憶の場合と同様に、特異性についても言葉の定義が問題になりそうだ。
お話の中に "revisité (revisited)" という言葉が何度か出ていたが、これはある現象がその後の科学の発展に伴い見直しを迫られる場合に使われる常套句である。ある意味では、科学を特徴づける言葉とも言える。今回はNK細胞の研究を通じて、免疫系の見方に修正を加える必要が出ている現状を垣間見る思いであった。講演もそうだったが、その後でお話した時にも感じたのは、ヴィヴィエさんの「思考が滑らない」ということ。論理を一つ一つ積み上げるように話を進める様を眺めながら、科学とは単に結果を出すだけの営みではなく、どのようにしてその結果に至ったのか、そしてその結果は何を意味しているのかを誰もが納得できるように言葉を正確に使い説明すること、その説明は人を選ばずに(権威と言われている人だろうが、そうでなかろうが)求められること、つまり科学とは民主的な営みであることを改めて感じていた。そのことを理解し実践する人たちが集まる空間はわたしの頭の中をすっきりさせてくれる。いつものように気持ちの良い時間となった。
lundi 11 avril 2011
朝を味わい、午後は読み

朝日と飛行機雲を今日もたっぷり味わう。
朝はのんびりしたい気分。ネット・サーフしている時、このブログと見紛うような「パリ断章」という本が出ていることを知る。著者は愛知教育大学で仏文を教えている山中哲夫さん。その抜粋がネットにあったので朝日を浴びながら読む(I、II、III)。耳に馴染んだ名前が出てくるので、なぜか懐かしい感情が湧いてくる。
それからチェルノブイリの後遺症について見ている時、「プロジェクトX」が引っ掛かり、松本市長の菅谷(すげのや)昭さんに辿り着いた。この番組、当時見ているような気がする。ベラルーシに旅立つ前に自らに向けた問い掛け。よくわかる。今、政治の世界にいることは知らなかった。
午後から研究所のビブリオテークへ。明日紹介がある科学論文をPDFにして読むこと。それから昨日読んだところをまとめることを考えていた。途中、強烈な警報音が鳴る。皆さんしばらくは反応しなかったが、" Il faut sortir ! " という声とともにビルの外に出た。所長さんの姿も見える。少し待っているとその音が止まり、再び中に入った。どなたも警報音の理由がわからないようであった。途中眠くなるが、何とか最後まで行った。
dimanche 10 avril 2011
終日の読み

昨日同様の快晴。終日籠り、読む。
Débat › Vivre et penser le temps des catastrophes (Le Monde)
Qu'est-ce qu'une nation ? (Ernest Renan)
Re-Engineering Philosophy for Limited Beings (William C. Wimsatt)
Systems Biology: Philosophical Foundations (Edited by F.C. Boogerd, F.J. Bruggeman, J.-H.S. Hofmeyr, H.V. Westerhoff)
など。
外に出なくとも集中できるような精神状態の作り方がわかったような日曜日。
samedi 9 avril 2011
これからのテーマのエッセンスか
vendredi 8 avril 2011
歩みを止める効果

こちらに移るという中には流れを変えるという意味があり、気分に任せて書くという中には歩みを止める効果があるように感じている。毎日書く必要がないんですよ、と自分に言う効果は計り知れない。結果としてそれが毎日になろうが、である。
ところで、昨日のルナンさんに関する昔の記事を読み直している時、その昔こんなことを書いていたのか、という想いでゆっくり読み返すことができた。もちろん細かいことは忘れているが、読むうちにほとんど蘇ってくる。実に不思議な時間である。これまで昔の記事を引用することはあったが、じっくり読み返すことはほとんどなかった。読むべき人が動いているので致し方なかったが、こうして歩みを止めた状態で読んでみるとこれまでの時間が凍りついているように見える。対象が固まり、観察者も動きを止めているので解析しやすいように感じる。
その状態で見直すと、結構いろいろなものが詰まっていそうである。これからの時間、新しく取り込むのを少し控え、これまでの6年間に触れた中から好みのものを選び、それを少しずつ深めていくのも面白いのではないか。そんな考えが過っていた。その時、朝日を浴びた窓ガラスの反射が横のビルの壁にほんの一瞬映し出され、そして消えた。
jeudi 7 avril 2011
エルネスト・ルナンさん、再び現れる

フランス人であるとは COMMENT PEUT-ON ETRE FRANCAIS ? (2007-03-16)
エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (2007-03-20)
エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (II) (2007-03-21)
エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (III) (2007-03-22)
昨日は午後から街に出た。ビブリオテークではなく、久しぶりにカフェで読みたい気分になったからだ。落ち着く前に散策をする。途中立ち寄ったリブレリーを覗いている時、4年前に書いた記事のことが浮かんできた。その中で話題になっていたエルネスト・ルナンさんがソルボンヌで行った演説 「国家とは?」 が目の前に現れたからである。この本にはユダヤ人問題についての演説も収められている。
Qu'est-ce qu'une nation ? : Suivi de Le judaïsme comme race et comme religion
この本の解説にシュロモー・ザンド(Shlomo Sand; born 10 September 1946, professor of history at Tel Aviv University)がこんな言葉を書いている。この場のテーマにも関係がありそうなので控えておいた。
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Le « génie » est, semble-t-il, à 90% la résultante d'une curiosité intellectuelle jamais assouvie, et celle du hasard pour les 10% restants.
『天才』 とは90%が決して満足しない知的好奇心の結果であり、残りの10%は偶然の結果のように見える。
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「国家とは何か?」 の演説が行われたのが、1882年の3月11日だという。この日付に何らかの意味を見出そうというのではないが、不思議なものを感じていた。
mercredi 6 avril 2011
アン・マリー・ムーランさんの 「王子の医者」 Au débat autour du livre "Le médecin du prince" d'Anne Marie Moulin

Dr. Jean-Yves Moisseron et Dr. Anne Marie Moulin
先日、前ブログAVFPで何度か触れたことのある哲学者にして医学者のアン・マリー・ムーランさんから自著をテーマにした débat があるとの紹介をいただいた。昨年出した Le médecin du prince : Voyage à travers les cultures 「王子の医者:文化を超えた旅」である。メールをいただいた後、早速手に入れ初めの方だけ読んでおく。この週末、その会に出掛けた。お店が変わると注意を引く本の種類も変わってくる。おそらく、受け取る方の状態が変わってくるのだろう。始まる前に1冊手に入れる。会はリブレリーの地下で行われ、20人ほどがベンチに座ると混み合った感じになった。
会は写真左の経済学者で中東の専門家モワスロンさんの導入で始まり、ムーランさんが自らの考えを述べた後、質疑応答となった。本の対象になっているのが、世界(アフリカ、中東、アジアなど)の王室に医者として仕える外国人で、謂わば外交官のような役割を担いながら、王室の個人的な情報にも近い存在。もともとこれらに地域に興味があり、時代も超えれているので想像力を刺激される。日本も取り上げているとのこと。ディスカッションの中に、50肩は日本的な症状だというムーランさんの言葉に少し驚く。聞き間違いではないかと思い確かめたところ、俄かには信じがたいがフランス人には肩こりはないとのこと。
コマーシャリズムを全く感じない、肩に力の入らない落ち着いた感じの良い会であった。
アン・マリー・ムーランさんを聞く (2010-09-30)
アン・マリー・ムーランさんとの対話 (2010-10-26)
mardi 5 avril 2011
「パリから観る」 から移住、そして新たな第一歩

思わぬ展開になった。新しい場所を作るのは負担になるのでどうしようか考えていた。朝のバルコンは思いもかけないアイディアを運んで来てくれる。それは、これまで資料を保存するような感覚で続けていたこのブログに移動するというものであった。思い返せば、2005年2月に「フランスに揺られながら」、2007年3月には「パリから観る」を始め、そして2011年4月からはここ「パリの断章」に移り新たな歩みをすることになった。これからは少し長いスパンで世界を眺めながら、ゆっくりと書いていきたいと考えている。この場がどのような雰囲気を醸し出すようになるのか。こればかりはいつものように予想もできない。今日のところは新しい方向が決まり、すっきりした気分である。
これまで通りの独り言になりますが、よろしくお願いいたします。
lundi 4 avril 2011
dimanche 3 avril 2011
長い旅の始まり
jeudi 31 mars 2011
新分野での最初の論文
早いもので日本の年度の変わり目に当たる3月31日になった。今週初め、新しい分野に入って初めて書いたエッセイが受理された。科学論文ではない初めての発表になる。もう2年ほど前に読んだ本について自分の考えをまとめられないかと思い、昨年それを読み直していた。そして今年に入り論文にしておきたい気分になった。今月に入りエディターに問い合わせてみると、OKの返事が来た。早速原稿を送ったところ、この月曜に最終決定が届くという流れだった。実際のやり取りは2週間程度だったが、そこに至るまで1年以上かかったことになる。自然科学の分野に置き換えれば、当て所もなく1年以上実験していたようなものかもしれない。こういう自然発生的なやり方がこの身には合っているようだ。新しい分野での小さな第一歩のようにも感じられ、実に不思議な気持ちだ。
jeudi 10 mars 2011
ローラン・セガラという研究者、古書、殺人 Laurent Ségalat, les livres anciens, et le meurtre

午後のカフェで帰ろうとして立ち上がった時、丁度目の位置にリベラシオンが見える。ぱらぱらと眺めていると有名な研究者が殺人犯か、というような記事がある。
Le sort d’un généticien français repose sur une marche funèbre (08/03/2011)
記事の主人公は、ローラン・セガラ(Laurent Ségalat)というリヨンで研究していた46歳の世界的に有名な遺伝学者とのこと。ピンと来る名前ではなかったので、早速どんな人なのか検索して驚いた。この方の写真を探してみると、見慣れた画像が溢れていたからだ。最初の数枚がご本人のもので、残りのかなりの部分はわたしのブログからの写真である。そこでブログを検索したところ、セガラさんの本が1冊引っ掛かってきた。買ったことは覚えているが、まだ手を付けていない本だったので著者の名前は記憶に残っていなかった。この一冊が Google に拾われていたようだ。
La fabrique de l'Homme : Pourquoi le clonage humain est inévitable (2008)
ところで、事の経過はこんな具合だ。ローランさんの父親は5万冊にも及ぶ希少本、古書の収集で有名で、スイスのローザンヌで書店を経営している。現在70代半ばで、健康を害している。ローランさんも研究の傍ら、そこで仕事もしていたという。事件は昨年1月、ローランさんがローザンヌ郊外の父親宅で継母が血まみれになっているところを発見し、明らかになった。警察への連絡もローランさんがしている。盗みの形跡もなく、状況証拠からローランさんが捕まり、現在まで身柄を拘束されている。ただ、はっきりとした動機はわからず、今後の裁判の行方に注目が集まっているという事件になる。
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