dimanche 8 juillet 2012

nomade ではなく monade だったのか


先日取り上げたライプニッツさん(1646-1716)のモナドロジー
この世界を構成する最小単位として、部分を持たないモナド(monade)を考える
 それは時空間を占めないという
つまり、モナドは物理的な存在というよりは心的存在と言える
モナドロジーの世界には時間と空間の他に、心の働きをする最小単位の cognitio があるとする
後にライプニッツさんは、時間と空間は cognitio の働きにより創られると考えるようになる

古代ギリシャのデモクリトスさんらが唱えた原子論とは異なることがわかる
原子論でも分割不能の原子を想定するが、それはあくまでも物理的な空間を動き回る存在である

モナドは宇宙の他のモナドの状態を感知できる
世界を内に取り込み、内の状態を変化させることができる
モナドは物理的な世界を超えているがゆえに、自由に関わりを持つことができる
内に存在する規則に自ら従いながら
そして、内なる変化の過程を持続することができるのである

この世界観にはあまり違和感を感じない
これまでノマド(nomade)ではないかと思っていたが、実はモナドだったのかもしれない
あるいは、モナドゆえのノマドだったことになるのか


Jugendbildnis / Portrait de jeunesse (1988)
Gerhard Richter (1932-)


そんな考えが浮かんできた日曜の朝
何の前触れもなく、ネットに繋げてくれるボックスのランプが消えた
線をいじっても、箱を叩いても駄目
この世には意味のないことはないと考えたライプニッツさんに肖って、思いを巡らせてみる

このところ、受け身のままにネットを歩き回っては時間を潰す生活が続いている
そろそろそこから離れて本業に向き合ってみては、というお告げではないのか
 すぐに浮かんでくるのはこの程度である

ということで、今日はカフェからのアップとなった
当分の間、カフェやビブリオテークで時間のある時に綴ることになりそうだ




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