Offenbach (1968)
Robert Pourvoyeur
(1924-2007)
Robert Pourvoyeur
(1924-2007)
昨年、今の領域に入ってから初めてエッセイを書いた(BioEssays 33: 552-554, 2011)。それを目にしたカナダのドナルド・フォースダイクさん(Donald Forsdyke)から、ご自身の論文とともに挨拶メールが届いた。免疫学の実験的な研究をやりながら、理論免疫学や免疫学の歴史を研究されている方である。言ってみれば、わたしの大先輩に当たる方と言えるかもしれない。そのフォースダイクさんから新年の挨拶が届き、いくつか論文が紹介されていた。本日、その中の一つ、トーマス・セデルキストさん(Thomas Söderqvist)の論文に目を通してみた。
この論文ではご自身の経験を交えながら伝記のジャンルを分析している。ご自身の経験とは、前ブログでも取り上げた免疫学者ニールス・イェルネさん(Niels Jerne, 1911-1994)の伝記執筆である。ブログの記事を見たセデルキストさんから連絡が入り、何度かやり取りがあったことを思い出す。
現代の科学者の伝記を書く中で、なぜ書くのか、それは何かのためになるのか、という疑問が生れ、そこから伝記のジャンルを分析し、これからの方向性を提唱している。まず、執筆の動機から以下の7つのジャンルを挙げ、それぞれについて解説している。
あくまでも恣意的な分類になると断っているが、最初の6つは理解できる。最後のジャンルは彼が執筆の過程で気付いたものだという。お国の哲学者セーレン・キェルケゴールさんは 「学者の場合、私生活と研究生活が別物であることが多い。重要なのは研究生活である」と言っている。しかし、セデルキストさんは考える。個人の私生活が公的な研究生活にどのように反映しているのか。個人の内面の表現としての研究生活という視点で科学者を描けないか。その解析が研究の倫理を考える上で参考になることはないか。アリストテレスの倫理でも行われている人生のあゆみや人間性をどのように形作るのかという省察をすることにより、科学の世界でどのように生きるのがより良い科学者人生となるのかという問に解を与えるような伝記が可能ではないか。
そこで嬉しいことに、このブログではおなじみのピエール・アドーさん(Pierre Hadot, 1922-2010)が登場する。哲学には大きく二つの流れがある。一つは、体系や概念、理論に重点を置く哲学で世界の成り立ちや知の体系を考える。もう一つは、生き方を観想する哲学で真理や徳を実際に生きる実践の哲学である。アドーさんは後者の道を重視すべきとの考えだった。セデルキストさんはこの二つの考え方を科学の営みにも応用することを提唱する。つまり、自然界を理解するためにどのように科学を進めたのかということと一人の人間として自己とどのような向き合い、科学者としての自己を形作って行ったのかという両面から描くことである。そうすることにより、科学者だけではなく一般の方の生き方を考える上での示唆を与えることができるのではないかという思いがあるようだ。
科学者の立場から見ても、キェルケゴールさんが言うように、専門の部分でどれだけの貢献があったのかだけが問題になるのがこれまでの流れであり、これからもその傾向は強まることはあるにせよ、弱まることはなさそうである。この現象は、一人の人間の全体が消え、その人間の専門家としての部分だけが評価の対象として浮かび上がるという現代を象徴するものと言えるだろう。それで本当によいのだろうか。この状態が続くと、人間が本来持っているかなりの部分が間違いなく死んでいくのではないだろうか。そのことに気付くかどうかは別にして。もちろん、これは科学者だけの問題ではないはずである。
Söderqvist, T. 2011. The seven sisters: Subgenres of Bioi of contemporary life scientists. J. Hist. Biol. 44:633-650
この論文ではご自身の経験を交えながら伝記のジャンルを分析している。ご自身の経験とは、前ブログでも取り上げた免疫学者ニールス・イェルネさん(Niels Jerne, 1911-1994)の伝記執筆である。ブログの記事を見たセデルキストさんから連絡が入り、何度かやり取りがあったことを思い出す。
イェルネという科学者 Le scientifique dit Jerne (2008-06-08)
現代の科学者の伝記を書く中で、なぜ書くのか、それは何かのためになるのか、という疑問が生れ、そこから伝記のジャンルを分析し、これからの方向性を提唱している。まず、執筆の動機から以下の7つのジャンルを挙げ、それぞれについて解説している。
1) 科学史の一つの方法として
2) 科学知の成立過程を理解する方法として
3) 科学という営みの理解を増進するために
4) 一つの文学作品として
5) 偉大な科学者への讃歌として
6) 個人的な尊敬や愛の表現として
7) 科学者の生活を倫理的側面から分析し、科学の中でいかに善く生きるのかを考えるために
2) 科学知の成立過程を理解する方法として
3) 科学という営みの理解を増進するために
4) 一つの文学作品として
5) 偉大な科学者への讃歌として
6) 個人的な尊敬や愛の表現として
7) 科学者の生活を倫理的側面から分析し、科学の中でいかに善く生きるのかを考えるために
そこで嬉しいことに、このブログではおなじみのピエール・アドーさん(Pierre Hadot, 1922-2010)が登場する。哲学には大きく二つの流れがある。一つは、体系や概念、理論に重点を置く哲学で世界の成り立ちや知の体系を考える。もう一つは、生き方を観想する哲学で真理や徳を実際に生きる実践の哲学である。アドーさんは後者の道を重視すべきとの考えだった。セデルキストさんはこの二つの考え方を科学の営みにも応用することを提唱する。つまり、自然界を理解するためにどのように科学を進めたのかということと一人の人間として自己とどのような向き合い、科学者としての自己を形作って行ったのかという両面から描くことである。そうすることにより、科学者だけではなく一般の方の生き方を考える上での示唆を与えることができるのではないかという思いがあるようだ。
科学者の立場から見ても、キェルケゴールさんが言うように、専門の部分でどれだけの貢献があったのかだけが問題になるのがこれまでの流れであり、これからもその傾向は強まることはあるにせよ、弱まることはなさそうである。この現象は、一人の人間の全体が消え、その人間の専門家としての部分だけが評価の対象として浮かび上がるという現代を象徴するものと言えるだろう。それで本当によいのだろうか。この状態が続くと、人間が本来持っているかなりの部分が間違いなく死んでいくのではないだろうか。そのことに気付くかどうかは別にして。もちろん、これは科学者だけの問題ではないはずである。
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