dimanche 27 janvier 2013

ミシェル・セールさんによる 「技術と認知における革命」 を聴く



今朝、メール・ボックスに amazon.fr から案内が入っているのを見つける

普段はゴミ箱行きなのだが、なぜか覗いてみた

そこにミシェル・セール(Michel Serres, 1930-)さんの本が紹介されていた

Petite poucette (Editions le Pommier, 2012)

興味を覚えたので関連するお話を探したところ、出てきたのが「新しい技術:文化的、認知的革命」である

上のビデオはその最後の部分になる

以下に、簡単にまとめてみたい


人類の技術的な変革を時間、空間、新しい技術の扱い方の3つの視点から分析している

時間的に見ると、口述から筆記、筆記から印刷、印刷から現代のディジタル化の変化があった

この過程で、人間が持っている記憶、想像、理性という認知能力に関わるところに変化が見られた

昔は多くのものを記憶しなければならなかったが、その能力が次第に失われてきた

記憶を外に置くことができるようになり、記憶する必要がなくなったからである

最初は本であり、今ではコンピュータの中にある

四足歩行から二足を失った後、多くのものを得た

記憶を失ったことでわれわれは何を得たのか

それは知的な営み(特に創造性の発揮)に集中できるようになったことではないのか


Saint Denis, Notre Dame de Paris


この説明に興味を持ったのは、ブログを始めた今から8年前に気付いたことと繋がっていたからである

 その時、ブログが恰も外付けのメモリーのように感じられたのである

セールさんはさらに先を行き、脳機能のすべてが外付けになり、われわれは頭を失った存在だと見ている

この状況を説明するために、サン・ドゥニの頭(La tête de St. Denis)を例として出している

パリ(当時はルテティア)の最初の司祭サン・ドゥニが信者と集会を開いている時、ローマ人が侵入し首をはねた

その時、奇跡が起こる

サン・ドゥニは自分の首を取り上げて相手に差し出したという

われわれは今、この時のサン・ドゥニと同じ状態にある

毎日、自分の頭を目の前に置いて暮らしているというわけである


わたしなりにその先を解釈すると、こうなるだろうか

事実はすべて目の前に蓄えられている

事実を知りたければ、そこに行けばよいだけである

そうであれば、事実そのものを語ることにわれわれの脳を使うことにどれほどの意味があるだろうか

そうではなく、目の前にある事実について考えを巡らすことに脳の使用法を変換する必要があるのではないか

わたしの言う 「知識で終わる世界から知識から始まる世界への転換」 という言葉とも重なる

これを敢えて言えば、哲学的な頭の使い方ということになる

技術的な変革をしてしまったわれわれに求められるのは、哲学ということになる




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