ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)は自然の名の下に文化を中傷するようになる
なぜ文化の人ルソーがそうなったのか?
彼がジュネーヴからフランスに行った時、フランス人の洗練された動きに違和感を覚える
厳しい躾け、洗練された作法について考えた末、文化によって自発性の破壊が齎されるとの結論に至る
そして 『エミール』 において、自発性が自律的に育まれるような教育を提唱する
厳しい躾けとしての文化、外から押し付けられるもの、そして規則の厳守は彼の目にはカトリック的に映ったのである
それとは反対に、自己の真の表現を彼は主張する
この過激な考えに危機感を持ったミラボー(Honoré-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau, 1749-1791)が本を書く
それが 『女性の友』 (L'Ami des femmes)で、その副題が「文明論」(Traité de la civilisation)
文化とは、野蛮な人間を社会の一員(civis)に変えるために使うもの
社会で快適に暮らすためには、人間は磨かれなければならないとミラボーは考える
ここで、文化(culture)よりは文明(civilisation)が市民を作るという意味で適切な言葉となる
磨くというところから文明は polis と繋がる
磨きをかけること(polissage)、礼儀正しさ(politesse)の意味において
このようにして、文明には圧力をかけて社会的人間を作ること、文化には人間性の自然な発露というニュアンスが生まれる
フランス人にとっての文明は、自然を超える普遍的なもので、複数の文明はない
全人類が原始的な状態から抜け出して文明化される方向への運動なのである
したがって、植民地に対しても一つの文明を押し付けることになる
それに対して、イギリス人は土着の文化をそのままにし、彼らに統治させるという態度をとる
フランス人とは異なり、文明を複数のものと考えているからである
イギリス人の文明には文化のニュアンスがあることになる
この違いは庭の作り方にも表れている
フランスの庭園は文明化のイデオロギーのように幾何学的に作られる
フランスは自分の国でさえ六角形(L'Hexagone)と言うのである
一方のイギリス庭園は、木を刈り込むことをしない
(続きます)
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