文化の対話という場合、二つのオプションがある
あるいは、フランスが植民地でやったように、すべての人に個別の文化を捨てさせるものである
いずれの場合にも、一つの文明しかないので対話が成立しない
アングロ・サクソンのように文明に文化の意味合いを込めた場合は別であるが、、
つまり、対話は文化の間にしか成り立たないのである
ここで、一つの言語の中における対話について触れてみたい
それは、専門化が進んだことによる使用語彙の多元化である
専門が異なると対話が成り立たなくなるという問題に繋がる
それから、母国語の能力を身に付ける以前に国際語と称せられる英語を教えようとする動きがある
その場合、目の前に広がる現実、文化を語るに十分な母国語を鍛えることが蔑にされる
技術的・専門的には優れているが教養を欠いた人間を作ることが可能になるのである
一般の言語と科学で使われる言語との間にも興味深い違いがある
一般の言語では、一つの言葉に込める意味をどんどん増やしていく傾向がある
それに対して科学では、誰もが誤解なく理解するために言葉の意味を限定していく
紀元前千年、地中海に二つの宗教的な感情が生まれた
一つはギリシャ的なもので、もう一つはヘブライ的なものである
ギリシャの宗教心とは、観察するすべてに神が宿るという内在性 l'immanence が特徴になる
神が自ら創造したものの中に存在するという意味になる
古代ギリシャ語の theos は、そこにある現実という意味であった
つまり、神性は現実にどれだけ近いかが決め手になる
これに対してヘブライでは、現実に存在しないほど神聖なものと考えられていた
ギリシャとは反対に、超越性 la transcendance が決め手になったのである
ギリシャの知の基本は、現実にあるものだけではなく、目に見えないものもあるものにすることであった
それはイデーを生み出すことにより可能になった
ギリシャで生まれた哲学は、瞑想により前に広がる全体を統合する満足を求めたのである
一方のヘブライの伝統では、見えないものを見えるようにすることは神性を剥奪することになる
絶対の神が言いたいことは理解することが難しく、翻訳する人が必要になる
その声は知に関することではなく、道徳的行動に関することである
ギリシャの知は論理であったが、こちらはテキストの解読が中心になる
(続きます)
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