mardi 6 décembre 2011

パリに向かう機内、rapprochement の気分が襲う



成田を飛び立ってしばらくすると、予想もしなかった多くの実りを齎してくれた今回の時間が静かに意識下に沈んで行く。日本にいると、ざわざわといつまでも漂っているはずのものが目に見えなくなる。ヘッドフォンからはクリスマスソングが流れ始めた。子供の頃信じていた仕掛けが見えない世界の記憶が蘇る。それまで読んでいた仕入れたばかりの本の余韻がそれに重なる。むのたけじさん96歳が易しい言葉だが力強く語っている 「希望は絶望のど真ん中に」。誤魔化さず、小賢しさを捨てて 「もの」 を観、単純に、しかし理路整然と考え、そしてそれを生きる、という極当たり前のこと。これが如何に難しいことか、日本の歴史が教えてくれる。

解放感の中、これらのすべてを全身で感じていた時、なぜか rapprochement という言葉が浮かんできた。この言葉の気分とはこんなものではないのかという想いとともに。気分の底には訳もなくありがたいという気持ちとぼんやりとした希望のようなものが横たわっている。特にわだかまりがあるわけではないので和解というニュアンスよりは、むしろ積極的にいろいろなものを結び付けてみたいという願望に近いものだろうか。それは軽い昂揚感を伴っていた。

夕方、無事に書斎のパリに戻った。


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vendredi 9 décembre 2011

この朝、rapprochement という言葉を再び口を衝いて出た。上の記事では個人的な視点からわだかまりはないので和解ではないというニュアンスがある。だが、少しだけ引いてみるとわだかまりを個人的なものに限定する必要がないことが見えてくる。これまでいろいろな事情で接触がなかったものが再び接触を始めるということを含めてもよい。例えば、学問と生活との乖離、科学と哲学という一方通行の関係、科学の領域とそれ以外の世界との間の相互理解の難しさなどのわだかまりを解くということもその中に入るだろう。

そう考えると、上の記事に書いた 「いろいろなものを結び付けてみたい」 という時の 「いろいろなもの」 とはそこら辺に転がっているものではなく、これまでわだかまりがあったものを指し、その間に橋を掛けてみたいという特別な意志がそこに隠されていたことが浮かび上がってくる。わたしがこちらに来てから試みていることは、ひょっとすると広い意味での和解を意味する rapprochement という言葉に集約されるのではないか。そんな確信に近い想いが浮かんでいた。




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