jeudi 1 décembre 2011

「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」 を観る


Les Amants du Flore (2006)


昨日はお薦めをいただいた 「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」 を観に出掛ける。サービスデーとのことで一律1,000円。会場は一杯になっていた。始まってすぐにパリの大学が映し出されると、自分はこの中にいなければならない役者だったことを思い出し、緊張する。今回は日本の社会での活動に注意を奪われ、自らのベースをすっかり忘れていたようだ。

映画には自由奔放に生きようとする人間や生きようとして果たせなかった人間などが出てくる。どこかで折り合いを付けて生きている人間にとっては少々目まぐるし過ぎる。自分を偽ることなく、自由を主張し合う人間が共に生活するのは大変なことだ。サルトルボーヴォワールのような人間でなければできなかったのかもしれない。この映画に出てくるサルトルは動きが俊敏で少し軽く見えるだけではなく、映画の作り自体もやや浅い印象を拭えない。また、若き日のお二人のイメージは必ずしもわたしの中にでき上がっていたものとは一致せず、物足りなさが残った。

それとは別に、先週開いた 「科学から人間を考える試み」 で触れたことがそのまま出てきたのには驚く。一つは、イギリスの哲学者ジョン・ロックの話の中で触れたサルトルの哲学。もう一つは、会の究極の目的に絡めて語ったボーヴォワールの 「女に生まれるのではなく、女になるのだ」 という言葉。先週とこの日が繋がっていたことがわかる。

小雨降る街を散策してはカフェに入るというパリのリズムが少しだけ戻ってきた。それにしても寒い一日だった。


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