vendredi 16 décembre 2011

フィンキールクロートさんによる 「フランス人とは」 再び (II)


昨日に続き、フィンキールクロートさんのお話を聞いてみたい。


「共に生きることの危機」 と移民との関係はよく言われるが、フランスは最も古くから移民を受け入れている。最近の異常さは、家族で移民するケースが増加していること。ここでフランス人とは一体誰なのかを自問することになる。フュステル・ド・クーランジュ (1830-1889)は、「人間は理念、関心、愛情、思い出、希望の共同体を持つ時、同じ人たちと一緒にいると感じる。それこそが祖国を作るものだ」 と言った。われわれの理念、関心、愛情、思い出、希望の共同体とは何なのか。

人によっては、この問自体が最早正統性を失い、国家のアイデンティティも20世紀に信用されないものになったと考えている。そして彼らは、われわれを区別するすべてものは差別へと導くので、そこに踏み込むべきではないと言う。フランスにはすべての人種的、宗教的、性的なアイデンティティを可能にする実質的なものは何もないと考えているのだ。

現在の状況は、一方でこのような共同体がなくなり、他方では移民の側もフランス文化の指し示すところを自らの中に取り込もうとする傾向が減少しているように見える。例えば、フランスに住むチュニジア人の大部分は、フランスの価値に反する主張をするナフダEnnahda) に投票している。

それから慎み、礼儀、他者に対する敬意は、自己の表出への歯止め、欲動の制御、自己愛の修正を迫るものである。これが失われつつある。aidos の死とも言えるかもしれない。

悲観主義者と言われるが、われわれは確かに自立・自律を勝ち取った。旅行者になることを勝ち取ったのだ。旅行者こそ、人間の未来である。

また、過去を大切にするあまり現在に鈍感になっているとか、わたしがアイデンティティの概念を固定化し、永久不変であるかのように考えているとも言われている。私はこの15年ほどの間、人の文章を集めていて、今や完全にその陰に隠れてしまいそうである。現在と過去の問題については、シモーヌ・ヴェイユ (1909-1943) の言葉を引用したい。
「未来と過去の対立は不可解である。未来はわれわれに何も齎さない。命さえも含めたすべてを差し出すのはわれわれの方なのだ。未来の建設のために。問題は差し出すためには持たなければならないことだ。それは過去から受け継ぎ、われわれが消化、同化、再生した宝しかない。人間の心の欲求を満たすには、過去ほど重要なものはないのである」

フランスは他とは違う特別な国である。おそらく、フランスは国民に何かを齎すことができるだろう。しかし、フランスがどういう国であるのかを忘れるとすれば、その何かは見えてこないだろう。


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未来に繋がるためには、過去を研究する中から学び取った知が重要であることはわかる。理念、関心、愛情、思い出、希望を共有するにもその知が必須であり、そこからしか共有できる世界観は生れてこないはずである。この中で、慎み、礼儀、他者に対する敬意の大切さには触れているが、それはフランスに特徴的なものではないだろう。フィンキールクロートさんは一体何をフランス的なるものの本質と考えているのだろうか。



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