samedi 4 mai 2013

「観念する」 とは


メーデーの休みは静かな一日だった

その日、これからは毎日外に出ることにしてはどうかというアイディアが浮かぶ

「観念する」 という言葉が浮かんできて、ついにその気になってきた

自分にとって意表を突く言葉は、体に働きかける力がある

気分が向いた時というのではなく、とにかく出ることにした

籠もっていても捗らないだけではなく、体が鈍ってしまうからでもある

それ以外にやることがないという状況にあることに気付くことほど、強いものはないかもしれない
 
2日にビブリオテークに向かった時には体が重くて困った

昨日は少し楽になっていた

気持ちは維持できそうだが、問題は体が付いてきてくれるかどうかになりそうだ



ところで、「かんねん」 を漢字変換して 「観念」 が現れた時、おやっと思った

「観念」 を手元の辞書で見ると、こんな定義が並んでいる

真理、仏の本体などについて考えること

哲学で、純粋の思惟・理性によって把握される普遍的な概念的実在 

哲学で、すべての経験を統制し、最高の統一を得るのに必要な純粋理性概念

これらを求めることがなぜ 「諦め」 のニュアンスに繋がるようになったのか、理解できない

そこには日本的な考え方でもあるのだろうか

興味が湧いている



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