dimanche 23 décembre 2012

バディウさんによる現代フランス哲学 (2)



昨日のバディウさんの「現代フランス哲学」の分析の中に形の問題が出てきた

 哲学と形の創造との間には密接な関係がある

それは哲学自体の形をも含む

新しい概念だけではなく、哲学が使う言葉の創造である

20世紀のフランス哲学における顕著な特徴として、哲学と文学との関係がある


(3)哲学と文学の関係

この問題を少し長い時間軸で眺めてみる

例えば、18世紀のヴォルテールルソーディドロは文学者であるとともに哲学者であった

17世紀のパスカルも文学と哲学のどちらに属するのかわからないし、20世紀のアランも同類だろう

20世紀前半には哲学者と超現実主義者が接触した

思想と形の創造、生活、芸術との新たな関係をお互いが模索していたのである


最初は詩的なプログラムだったが、50-60年代には哲学的プログラムが準備された

哲学自体が文学的な形を見つけ出さなければならなかった

すべての哲学者が独自の表現を求めたのである

フーコー、ドゥルーズ、デリダ、ラカン、サルトル、アルチュセール、、、

そして、哲学と文学が、概念と生の経験が混然一体となったような新しい表現法が創られた

そのことにより、文学的な生に概念が与えられることになったのである


そこから生まれた主体は、デカルトに由来する理性的で意識を持った主体でも内省的な主体でもない

もっと曖昧で、もっと生や体に結びついた、より創造的で生産的な、もっと大きな力を含んだものである

それこそが、フランス哲学が見つけ、表現し、考えようとしたものであった

そこで重要になってきたのが、意識よりさらに広大な無意識を発見したフロイトの精神分析である


(4)哲学と精神分析の関係

ということで、20世紀後半のフランス哲学は精神分析と議論することになる

それは20世紀初頭からの二つの流れに対応する

一つは、ベルグソンに始まる実存主義的生気論で、サルトル、フーコー、ドゥルーズに繋がる流れ

もう一つは、ブランシュヴィック、アルチュセール、ラカンの概念の形式主義の流れ

この二つの流れを跨ぐのは、概念を持つ存在としての主体である

フロイトの無意識が、まさにそこに関わってくる

哲学と精神分析との関係は愛を伴った共犯関係であると同時に憎しみを伴う競合関係になったのである


ここで3つのテキストを挙げてみたい

一つは、バシュラールが1938年に出した『火の精神分析』

ここでバシュラールは、フロイトに見られる性を夢に置き換えた新しい精神分析を目指した

二つ目は、サルトルがその最後で「実存的精神分析」を提唱した『存在と無』(1943)

この中で、フロイトの実証的な精神分析に対して、真に理論的な精神分析をぶつけた

サルトルにとっての主体とは、根源的なプロジェ、存在を創り上げるプロジェであった

三つ目は、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』(1972)

ドゥルーズは「スキゾ分析(schizoanalyse)」と呼ぶ新たな方法で精神分析を行うことを提唱したのである


バディウさんによると、「現代フランス哲学」のプログラムには共通の特徴が見られるという

第一に、最早概念と存在の乖離がなくなったこと

彼らは、概念が過程であり、出来事であり、創造であり、生きていていることを示したのである

第二に、哲学を現代の中に組み込んだこと

つまり、哲学をアカデミアから取り出し、生の中に循環させた

性的、芸術的、政治的、科学的、社会的な現代性の中に哲学を投げ入れたのである

第三に、知の哲学と行動の哲学との対立を捨て去ったこと

つまり、理論と実践の垣根を取り払ったのである

第四に、哲学を政治哲学を経由せずに、政治的な場面に置いたこと

 それは、政治について省察するだけではなく、新しい政治的主体を可能にするために「関わる」ことを意味した

第五に、主体の問題を再び取り上げ、内省的な主体を捨てたこと

意識に還元できない主体、すなわち心理学では解析できない主体を相手にすること

長い間フランス哲学のプログラムの半分を占めていた心理学を叩きのめすこと


そして第六には、文学とは異なる新たな哲学表現を創造すること

18世紀に続き、アカデミアやメディアを超える哲学者を再び創り出すこと

その表現と行動で現代の主体を作り変えることが、フランス哲学のプログラムであり、野心である

それは、哲学者を賢者以外の者にすること

瞑想と内省に明け暮れる教授然とした哲学者に別れを告げること

そして、彼らを戦う作家、主体の芸術家、創造を愛する者、哲学的闘士に創りかえることであった




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