今日は午後から散策へ
少し歩くと汗が噴き出すほどの暖かさであった
そう言えば、昨日の夜も20℃ほどあり、バルコンで時を眺めていた
近くのカフェで2時間ほど、昨年ニューヨークであった学会の資料に目を通す
それからさらに歩き、別のカフェへ
論文の骨格についてぼんやりと考えを巡らす
その時、こんな考えが浮かんできた
こちらの乾燥した気候の快適さについては何度も触れている
快適さのもう一つの要素に、乾燥した思考があるのではないか
論理で説明しようとするのが基本にあるためか、それ以外が削ぎ落されているように見える
科学が多くのものを削ぎ落としているように
まず、そのやり方で「こと」に当たる
そこにすっきり感が生まれる
それでも埒が明かない時、湿った感情が顔を出す
それでも埒が明かない時、湿った感情が顔を出す
そんな順序になっているのではないか
科学に身を置いている時には、いろいろなものを捨象していたためか、すっきり快適であった
しかし、それでは物足りなくなる
何かが欠けたままになっていることに気付くことになった
そのアナロジーで行けば、今の快適さは単なる序章にしか過ぎないのか
いずれ欠けている何かが見えてくるのだろうか
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