自分が投げ出されているこの世界
その全体をどこに見るのか
人それぞれだろう
家族、仕事場、仕事社会、地域社会、国、そして所謂世界
人は自ら見ている世界の中で力を尽くし、幸せを求め、認められようとする
そこに真の自由はない
しかし、この地球を超えた世界がその人の世界の全体だと仮定したら、一体どうなるだろうか
その時、自分を見ているのは自分しかいなくなる
自らの内なる基準に合わせて、もう一人の自分が自分を評価することになる
突き詰めると、その人間だけが残る
何か本質的なもの、精神、思惟に行き着く
突き詰めると、その人間だけが残る
何か本質的なもの、精神、思惟に行き着く
ヘーゲルさんに肖れば、その時、精神は自らに帰還する
自分が自分を振り返ることから意識が生まれ、そこに絶対的自由が訪れる
視線はいつも遥か彼方に向かい、同時に内に向かっている
それは高貴な生き方かもしれない
それこそが哲学的生き方なのかもしれない
そこまで行かなければ、すべては虚しいのではないか
それこそが哲学的生き方なのかもしれない
そこまで行かなければ、すべては虚しいのではないか
そんな想いとともに目覚めたパリの朝
この文章の「自分」を「あなた」に置き換えてみる
すると、全体の印象がガラリと変わり、響きがさらに広がりを見せるように感じられる
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