mardi 7 juin 2011

この修行時代をどう見るか




この朝も静かな雨が降っていた。
出るのを止めにして連続の庵の時間になった。
まさに洞窟生活である。
時間が漂っているのでいろいろな想いが浮かんでくる。


今年の2月に日本で学会があり、そのために考えをまとめて発表した。その会がなければおそらく考えなかったことで、横道にそれた感じだ。しかし、いかに横道でもその途中で留まったままでいると、どことなく落ち着かないものである。丁度そんな時、考えたことと関連する会がニューヨークであることがわかり、それに合わせてもう少し深めてはどうかという気分になる。それ以来、いつもの通り手探りの作業を続けている。さっぱり捗っていないが、これまでもそうだったので諦め気分である。ただ、そんなにいろいろな世界を覗いていて大丈夫?という疑問も生れている。こんな疑問も論文を抱えている学生ならではのものだろう。

不思議な感じなのである。今の学生時代を本当のものとして捉えるのか、余技として捉えるのかがあやふやであることに気付き始めている。それは、こちらの時間をそれまでとは断絶したものとして捉えるのか、連続したものとして見るのかという問題にも還元される。そして、その捉え方によりこれからの気持ちの持ち方が変わってくるのではないかという感触である。断絶したものと見た場合、これからは今の専門を軸に歩むことになるだろうし、そうでなければ別の世界を覗いてきた好事家としてやっていくことになる。あるいはまた、その両者が混じり合ったような気分になるのかもしれない。いずれにせよ、観光気分で始めた学生にこんなことを考えさせるだけの時間が流れたということで、感慨深いものがある。


時の流れは実に不思議である。
今はこの貴重な時間を修業時代として味わい尽くすことではないだろうか。
これからどんな考えに収斂していくのかを眺めながら。



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