samedi 7 mai 2011

「遥かな町へ」 がすでに映画になっていたとは Le film "Quartier Lointain"


映画のポスターの繋がりだろうか。昨年、谷口ジローの漫画 「父の暦」 が鳥取で映画化されているとのニュースがあり、前のブログ AVFP で取り上げたことを思い出した。このプロジェクトはその後どうなっているのだろうか。

谷口ジロー 「父の暦」 の映画化 (2010-01-18)

その繋がりで、「遥かな町へ」 が "Quartier Lointain" として作られ、昨年こちらで公開されていたことを知る。予告編の感じでは、原作を読んだ時の感慨を再現するのは難しそうだ。景色と人間が違い過ぎて、その中に自分を投影することが難しいからだ。ただ、全体の雰囲気はよさそうである。一体、最後の場面をどのように処理しているのだろうか。興味が湧いている。「遥かな町へ」 の印象は最初のブログ 「ハンモック」 に残っている。

谷口ジロー (2005-05-18)



Dans le jardin du Monastère de Cimiez


vendredi 6 mai 2011

思うことが違う薄明かりの夜



メインの電気が消えた部屋。そう言えば、数日前のこと。ランプから変な音が出ていたのを思い出す。息絶え絶えの今際の声だったのかもしれない。他の明かりはないかと探すと置いているだけだったスタンドが二つもあることがわかる。それを点け、普段は意識しない机の上の小さなランプも点けると柔らかい光が部屋に溢れた。バルコンに出ると周りのアパルトマンからオレンジ色の明かりが漏れ、中には煙草を吸うためにバルコンに出ている人影も見える。空に目をやると、明るく光る星が数えるほどしか見えない。しかし、目が慣れるうちに弱い光の点が次から次に目に入ってくる。もう20年以上も前に見たアフリカの空から滴り落ちるかのような満天の星を思い出す。

一夜明けるとカーボンコピーのような快晴。ただ今日の空には数えきれないほどの飛行機雲が走り、しばらくすると空が薄曇りになるくらいだった。途中、5センチほどの真っ黒い蜂が轟音とともにわたしの目の前に顔を出した。こんなところまで上がってきてお前さん一体何やってるの、と声を掛けると、すぐに下に降りていった。物分かりの良い蜂だ。

この世では不思議なことが起こる。市役所の公共の空間を担当している助役から手紙が来たので早速開ける。要約するとこんなことが書いてあった。x月y日z時、住所aにおいてあなたは不法廃棄をして調書を取られましたが、公共の空間を適切に使うのが市民の務めです。このことをよくご理解いただきたい。そう言われても、全く身に覚えがない。一体どのようにしてわたしの名前と住所を引き出したのか。フランス語の練習も兼ねて市役所まで出掛けることにした。数か所を回り、結局最初に入った助役のオフィスに戻ると手紙の主は会議で不在だという。可能性はなさそうだったが、ランデブーの予約をして帰って来た。

一日(ひとひ)として同じ日は無し春の宵




jeudi 5 mai 2011

電気が消え・・・



今日も快晴の一日。
粋な計らいの映画のポスターがやけに眩しかった。
昨日のカーボンコピーの一日だった。

と思いきや、帰って部屋の電気を付けるも反応せず。
偶には早く寝よ、ということか。
あるいは、星空でも味わいなさい、という声か。
どんな一日も同じことは無し。
それを愉しむのが人生か・・・






mercredi 4 mai 2011

久しぶりの集中、そしてハーレムからの視線


La servante de harem
(1874)
Paul Désiré Trouillebert (1869-1900)
Musée des Beaux-Arts de Nice


今朝は快晴の中、ビブリオテークへ。
快晴の朝は、気持ちが引き締まる。
その上、久しぶりなので新鮮だ。
昨日のディスカッションの後、一つのテーマを今広げることを止めにした。
そのためか、拡散していた意識が一点に集中してくるのを感じることができた。
このテーマについてこれまでに当たっていた資料を掘り起こす作業がこれから続く。
どんな形が浮かび上がってくるのか、期待しながらの時間になりそうだ。

ニースの淡い香りがまだ漂っている。
ポール・デジレ・トゥルイユベールというバルビゾン派の画家の作品。
その時、静かに誰かが視線を向けているのを感じた。
そこには幼さの中にすでに悲哀が潜んでいるような瞳があった。
彼女がいた。
・・・
なぜか印象に残る姿であった。


mardi 3 mai 2011

庄司紗矢香さんのバイオリンを聴きながらヘルダーリン


Donna in Letto
, 1998
de Fernando Botero (1932-)


今日は教授とのランデブーがあった。2つの小さなテーマを抱えていたが、当面一つに絞って行くことになった。その方が頭の中がすっきりし、一つのことを深めることができるので精神的にもよいだろう。

帰りに寄ったリブレリーで庄司紗矢香さんの Bach & Reger というCDを聞き、手に入れる。バッハとバッハの崇拝者で忘れられがちなマックス・レーガーの曲を並べている。今聴きながら書いているが、なかなかよい。

Johann Sebastian Bach
(1685-1750)
Max Reger (1873-1916)
庄司紗矢香 (1983-)

ニースもよかったが、夜の8時半くらいには暗くなっていたような気がする。
明るい夜長を味わうには少し寒いがパリがよさそうだ。




大学を出て、近くのプレスに入る。そこで原発を特集した哲学雑誌 Philosophie Magazine が目に入る。その中に南北の問題に触れている記事があり、フリードリヒ・ヘルダーリン (1770-1843) の 「ヒュぺーリオン」 (1797、1799)が取り上げられていた。

若きヒュぺーリオンの道行を謳った詩で、南と北の対比が見られるという。自然の愛(南の人 sudiste を暗示)と意思への欲求 (北の人 nordiste)、詩と哲学、芸術と理性、燃えるような宗教と冷たい理性、熱い南のエジプトと寒い北のドイツ。丁度その中間に位置するのが、真善美が調和して結び付いているアテネ。南では歩くのを覚える前に跪き、話す前に祈ることを知らなければならない。それに対して、北では人間である前に理性的精神を持ち合わせていなければならず、子供である前に知性を備えた大人でなければならない。知性と理性が北の主人なのだ。

やっとヘルダーリンを読んでみたい気分になってきた。
リブレリーで Hypérion を仕入れ、読み始める。



lundi 2 mai 2011

「埴谷雄高独白 死霊の世界」 を観る


Villa Médicis, Rome, 1981
Willy Ronis (1910-2009)


どうも日本語の音に飢えているようだ。昨日は3時間くらいだろうか。暇にまかせて一昔前のNHK・ETV特集を観る。

埴谷雄高独白 死霊の世界 (1995年:平成7年)
 
当時その一部は見ており、最初のブログ 「ハンモック」 でも取り上げている。
埴谷 雄高 (2005-04-13)

とにかく、いろいろなことを言っているが、よくわからないことが多い。ただ、わかるところはよくわかる。そこでは同質のものを感じているのだろう。氏が亡くなる2年前の独白なので、80代半ばの肉声。単に精神的な力強さが残っているだけではなく、どこかに機嫌の良さがある。alacrité を持っているとでも言えばよいのだろうか。

まず感じたのは、科学の影響を受けていること。科学を自らの思索に生かそうとしていること。特に、天文学、物理学、宇宙論だが、生物学も出てくる。語りの中から反応したところをいくつか。

「文学には量はない。点数はつけられない。質しかない。科学は量に変換できなければ成り立たない。だから文学を恐れる必要はない。相手を納得させさえすればよいのだ。ただ、相手から下らないと思われたら終わり。質の深さが問題になる。人格も同じ。だから、なかなか書けないのだ」

「ゲーテは、生と宇宙の謎を解くためにわれわれは生を受けたのだと言ったが、そこから文学が生まれたのだ。なぜ宇宙はあるのか、なぜ人類はあるのか。無限の中の私を考えないと駄目。思索の背景に宇宙論がないと駄目。漱石が梶井(基次郎)に劣るのは、それがないから」

「人間はどこかに向かう過渡期の中間者。まだまだ完成されていない。頭髪と陰毛をまだ残して人間になりそこなった存在。それで女体を見ると、先ず陰毛に目が行く。まだ獣から脱却していない。それだけ困ったところに生れている。こんなことを書くと、埴谷さん酷いなと言われるが、、、」

「人を殺すのではなく、人の頭の中を変えるのが革命。レーニンもスターリンも自分の頭が変わったから革命家になったのに、このことを実践しなかった」

「なぜ書くのか。わたしの場合は妄想が主体だが、なぜ妄想するのかと問われれば、内的自由の追求と答える」

「自分の思い出を書くのではなく、人類を変えたいと思って書いている」

「すべての人間が詩人にならなければ人間に真の幸福はない。これから人類を救うのは文学だけ。信じることを忘れた醒めた人間を文学によって変えることが真の革命になる。気迫としてはそういうことである」

埴谷雄高 (1909年:明治42年-1997年:平成9年)

まさに、気迫の人であった。




à Nice



dimanche 1 mai 2011

小川洋子さん裸になる、そしてブレーズ・サンドラールさんのことなど


5月に入った。本当に時の流れは速い。先週金曜のル・モンドは読書特集。久しぶりだ。わたしに関係した方の話題がいくつか出ていた。まず上の写真。「小川洋子が脱ぐ」 という記事。原稿零枚日記 (2010) が Manuscrit zéro として訳されたのを機に、芦屋の自宅でのインタビューとなったようだ。強迫観念、不安、幻想、一見安穏に見える日常など、作家の内的世界が描かれているとのこと。

小川洋子 「ブラフマンの埋葬」 "L'ENTERREMENT DE BRAFFMAN"
(2006-11-06)
映画 「薬指の標本」 "L'ANNULAIRE" DE DIANE BERTRAND (2006-12-04)



「放浪の」(errant)と形容される人間に興味がある。ニーチェもそうだが、サンドラールさん (1887-1961) もその範疇に入るだろう。今回、「旅立つ」 という彼のアンソロジーが出たことを " Cendrars, tout au bout du monde " (サンドラール、地の果てまで) というタイトルの記事が紹介していている。パリの自宅での写真もなかなかよい。

Partir : Poèmes, romans, nouvelles, mémoires (Quarto, 2011)

「わたしはオフィスの人間ではない。未知なるものの声に逆らうことができなかった。書くということはわたしの性質とは正反対のもの。蠢く街を想いながら壁に囲まれ原稿用紙を埋めて行く作業は地獄に落とされたようなものなのである」



ブレーズ・サンドラール BLAISE CENDRARS
(2006-09-17)




それから広告欄に懐かしい方の顔が出ていた。もう6年前になる。パリを訪れた時に入った小さなリブレリーで、自著の宣伝のためお客さんを待っていたのがこのデュトゥルトゥルさんだった。お元気で活躍中のようで嬉しくなる。

小さな出会い - ブノワ・デュトゥルトゥル BENOIT DUTEURTRE
(2005-06-22)


samedi 30 avril 2011

蜂谷道彦という医者 L'Histoire de Dr. Michihiko Hachiya



昨日は、用事を済ますために街に出る。途中、プレスに入ると Science & Vie という科学雑誌が目に留まる。日本の原発事故の特集で、そこで一体何が起こったのかから始まり、原子炉と放射能の科学、チェルノブイリの教訓、原発事故の歴史などが詳しく出ているので、参考書代わりに手に入れる。早速カフェで目を通すと、最後にこの方の日記が紹介されていた。

蜂谷道彦 (1903-1980) (岡山医療ガイド、2006.9.6)

まず、ご本人の紹介に使われている冒頭の写真が一世代前の夫婦の姿を彷彿とさせ、懐かしさが襲う。蜂谷氏は広島逓信病院院長で現役を終えられた方。日記は1945年8月6日の生々しい記述から始まり、9月30日で終わっている。この雑誌で10ページほどで、抄訳とはいえ当時の様子が鮮明に浮き上がってくる。記事によると、当時この日記の出版は抑えられていて、ご本人は日記が日の目を見ることはないと思っていたようだ。1951年に朝日新聞社から出版。その後、アメリカ、フランスなどでも翻訳されている。半世紀を経てもその人間的、科学的な力は色褪せることはないと紹介されている。注によると、この内容は1955年10月号と2005年8月号の Science & Vie 誌でも取り上げられている。













vendredi 29 avril 2011

マセナ・ヴィラでフリードリヒを発見



Falaises de craie sur l'île de Rügen
(1818)


ニース最終日。メサナ美術館の入場券をもらうためにブティックに立ち寄った。少しだけ本が置いてあったので覗いてから入ることにした。そこでカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich, 1774-1840)というドイツの画家の小さな画集が目に入った。ニーチェつながりではないと思う。氷のような白さとこの絵の中の物語に惹かれたようだ。彼らはそこで一体何をしているのだろうか。そんな不思議な感覚が襲っていた。



Le peintre Caspar David Friedrich
(1809-1809)
de Gerhard von Kügelgen


そして裏表紙がフリードリヒの友人、ゲルハルト・フォン・キューゲルゲン (Gerhard von Kügelgen, 1772-1820) の手になるフリードリヒであった。若き日のこととはいえ、何という挑戦的な面構えをしていることだろう。早速、中を見ることにした。



Caspar David Friedrich dans son atelier
(1819)
de Georg Friedrich Kersting


最初に出てきたのが、こちらも友人のゲオルク・フリードリヒ・ケルスティング(Georg Friedrich Kersting, 1785–1847) が描くフリードリヒである。あっさりとしたアトリエで、あっさりしたパレットを持ち、何を思うフリードリヒという感じで、一気に親しみが湧く。



Sur le voilier
(vers 1819)




La lune s'élève au-dessus de la mer
(vers 1822)


ここに描かれた人間は一体どんな会話をしているのか。
あるいは、そこには沈黙が流れているだけのか。



Le voyageur au-dessus de la mer de nuages
(vers 1818)


そして、この男は何を思うのか。この絵にはどういう意味があるのか。どこかで見たウィリアム・ブレイク(1757-1827)にも似たような構図があったような記憶もあるが、当てにならない。とにかく、どの絵にも何か一言差し挟みたくなるのだ。そして、風景もよい。



Prairies près de Greifswald
(vers 1822)




L'abbaye dans la forêt de chênes
(1809)




Nuages passant
(vers 1820)




L'entrée du cimetière
(1825)




Paysage de montagne avec arc-en-ciel
(vers 1810)




Autoportrait
(1800)


思わぬところから現れたこの画家のことを少し調べてみたい。
そんな気分でニースから帰ってきた。


jeudi 28 avril 2011

ニース美術館とマセナ美術館にて




昨夜遅く、ニースから無事パリに到着。今日はニースの残り香の中で、パリの日常に戻る気にならない。意外な効果を齎しているのに驚いている。ヨーロッパの魅力にはいろいろあるだろうが、今回確認したのは「旧市街」と「広場」と「カフェ」の3つであった。

昨日はニース美術館とマセナ美術館を訪問。まずニース美術館(Musée des Beaux-Arts de Nice)に向かった。予想に反して、こちらも坂道が待っていた。ただ、マティス美術館ほどではなくホッとする。1階を見終わり、2階に上がると懐かしい顔が現れた。ジュール・バスティアン・ルパージュ(Jules Bastien-Lepage, 1848-1884)の3人の家族である。オルセーから譲り受けたのか、一時的なのかはわからないが、こんなところにいたのか、という思いで暫し眺める。



Portrait de « mon grand-père » (1874)




Portrait de la mère de l'artiste (1877)




Portrait du père de l'artiste (1877)


また、ニースでも暮らしたことのあるラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877-1953)の作品が30点くらい展示されていたのも嬉しい出遭いであった。比較的こじんまりした美術館であったが、2時間ほど時を忘れる。

ジュール・バスティアン・ルパージュ Jules Bastien-Lepage (2008-06-14)




それから坂を下り、海岸沿いのイギリス人通り(Promenade des Anglais)を散策。デジュネも地中海を眺めながら簡単に済ます。イギリス人の散歩道沿いにあるマセナ・ヴィラ (Villa Masséna) の中のマセナ美術館へ。予想もしなかったことに、古いニースの姿を写真と絵画を見ることができた。



Nice vue de la pointe du Lazaret
(François Bensa, 1811-1895)




Nice vue de la hauter des Baumettes
(Paul Guigou, 1834-1871)




Promenade des Anglais
(Emmanuel Costa, 1833-1913)





途中、日本人と思われる女性が、これは昔のニースの本当の姿ですか、と英語で尋ねてきた。展示品をじっくり見たがよくわからず、こんなんであれば面白いという思いで、おそらくそうではないかと答える。

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samdi 30 avril 2011 

パリに戻り、前ブログAVFPで取り上げたビデオ 「ニーチェの哲学人生」 を見直したところ、上の景色が写真で現れた。ニーチェが生きた19世紀末のニースの海はこんな姿をしていたことがわかる。






André Masséna
(1758 à Nice-1817 à Paris)





mercredi 27 avril 2011

市役所、そしてシャガール、マティス、考古学美術館の外巡り、さらにニーチェのユートピア



どういうわけだろう。朝起きると再びあの同じ坂を上る気がしなくなっている。一つにはそれが仕事のように感じられることだ。即興性を大切にしている身としてはよく理解できる。もう一つはシャガールもマティスにしてもそれぞれ青森とパリで見ていることを思い出したことである。

シャガール 「アレコ」 とアメリカ亡命時代 CHAGALL ET ALEKO (2006-08-19)
ルクセンブルグ美術館 - MATISSE: UNE SECONDE VIE (2005-06-27)

今どうしても、という気分ではなくなった。体力があればどうということもないのだろうが、最終日なので汗をかかないで済ませたいということかもしれない。ということで、ここでは心浮き立つニース市役所と昨日の美術館周辺を振り返っておきたい。



















よい社会、正しい社会とは。共感と共有と感動とから適度な距離を取り、力を弄ぶことも感情の棄損もない関係や愛の活力と友愛を維持し、差異と多様性と意見の交換を尊重する共同体。ニーチェはニースに来てからそれまでに考えていたユートピアに目覚める。それは共感を持つ人たちを集めて自分のコロニーで自らの哲学を教えるというもの。ニースはヨーロッパのどこにもない光に溢れ、隠遁者の求めを満たすに充分な広さが安く手に入る。そこでヘレネス(Hellènes)の新しいアカデミーの建設を夢見ていた。古代ギリシャのエピクロスのジャルダンを彷彿とさせるユートピアである。