dimanche 23 septembre 2012

日本の余韻の中、『文明の生態史観』 に目を通す


今回の日本では古本屋に足を運ぶ時間は取れなかった

それどころではなかったということだろう

 ただ、普通の本屋さんを見かけると入り、気になったものを手に入れた

荷物を二つ持ち帰ることができるようになったことも、抑制を失わせる原因になっている

 その中の一つに、梅棹忠夫氏 (1920-2010) の『文明の生態史観』が含まれていた

最近、この本のことに触れたコメントをO氏からいただいていたからである


昨日よりも寒い今朝のバルコン、最初の方に目を通す

「東と西のあいだ」
「東の文化・西の文化」
「文明の生態史観」

今回初めて読み、生態史観なるもののポイントがわかる

と同時に、今回の日本で取り上げたテーマの一つと関連していることに気付き、驚く

「文明の生態史観」 の中で、系譜論と機能論について論じているところがある

 系譜論では、文化の要素の由来を問題にして論じる

それに対して、機能論は今ある形がどのようなデザインになっているのかを論じ、要素の由来は視野に入れない


この対立は、生物学において機能をどのように見るのかの対立と重なって見える

長い生命の歴史の中で機能を考える進化を前提にした見方と梅棹氏の言う系譜論

そして、今ここにあるシステムの中での機能を考える見方と梅棹氏の機能論

梅棹氏は、系譜論を排して機能論に組する

これほどまでに二者択一でよいのだろうかと思うくらいだ

さらに、現代人の共通ののぞみは 「よりよいくらし」(生活水準の上昇)で、「心の平安」はそれに及ばないと言っている

そこで必要になるのは、技術であり精神ではない、と断言している


この二つの選択、底で繋がっているように見える

それは、今わたしが抱いている考えとは必ずしも相容れない

これが書かれたのは戦後12年の1957年

当時の時代の空気が反映されているのだろうか


梅棹氏が世界史を勉強したいと思ったのは、人間の歴史の法則を知りたいからだという

これは偏見かもしれないが、日本人からはなかなか出てこない願望のように見える

この点には共感するものがある




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