mardi 15 septembre 2015

パリから見えるこの世界(32) 国境の町リールで、「科学の形而上学化」について再考する



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 『パリから見えるこの世界』 第32回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde »


医学のあゆみ (2014.9.13) 250(11): 1063-1068, 2014

ご一読いただければ幸いです






lundi 14 septembre 2015

分かった時には終わっている



最近、やっとのことでその中に入ることができるようになってきた

もう終わらなければならない時が目前になってである

そこで見えてくるのは、やればやるほど欠けているものが現れるということだ

まさに、無間地獄であり、シーシュポスの苦しみである

そして、このようにやっておけばよかったのに、という思いが湧く

そのためにこちらに来たのではないので、どこか遠くのことのように感じ続けてきた

なかなか手を付ける気にならなかった

しかし、その時が来ると恨み節が出る


逆に言うと、こういう仕事はどうやればよいのかというコツが見えてきたことになる

先日の丸山健二氏の言葉ではないが、「コツを覚えた時にはすべて終わっている」には真理がある

これから先もあると思えば、シーシュポスのように岩を背負って坂を登らなければならないのだろうか

さらに深いコツが現れないとも限らないと思いながら





vendredi 11 septembre 2015

ミシェル・ガラブリュさんの老後



「老後も仕事を辞めることが許されない」という俳優のニュースが目に入った

ミシェル・ガラブリュ (Michel Galabru, 1922、モロッコ・サフィ生まれ)

もうすぐ93歳になるが、一昨日から年末までモンマルトル劇場で芝居に出ている

経済的な理由から立派なキャリアに終止符を打つことができない

俳優の時には収入の半分を税金に持っていかれた 

そして、定年後の収入が僅かだからだ


悩みは経済的なものだけではない

それは孤独である

 兄を若くして失い、昨年医者で作家だった弟のマルクさんを85歳で見送っている

そして最近奥さんを亡くし、絶望を味わった

夜一人でいると、耐えられない

神が善良ならば、それを示してほしい


今は100歳まで生きることは見えてこないという

92歳ということは、いつ死んでも良いということ

記者にこう問い掛けている

100歳の人たちがどんな状態でいるのか見たことがありますか

歩けもしないのなら、そこで止めた方がいいんじゃありませんか



ガラブリュさんが人生を語っているビデオが見つかった

お隣のヴァネッサ・パラディさんにも目が行ってしまうのだが、、








jeudi 10 septembre 2015

ヌアラ・オファオレインさんから 「哲学とは言葉の意味を体得することである」 へ



2008年、癌のために亡くなったアイルランドの作家がいる

ヌアラ・オファオレイン Nuala O'Faolain
(1er mars 1940 à Dublin - 9 mai 2008 à Dublin)

彼女は脳腫瘍とその転移の治療を拒否して、68歳で逝った

癌と最後まで戦ったスーザン・ソンタグ(Susan Sontag, 1933-2004)さんとは対照的である

 亡くなる前のインタビュー記事はこちらで、肉声はこちらから聞くことができる

注意を惹いたところを以下に少しだけ紹介したい


彼女はその6週間前まで幸せな生活を送っていたという

その時、右足に異常を感じニューヨークの病院で診断を受けた

その結果は、脳に2つの腫瘍があり、他にも広がっている転移性の癌であった

不治であると告げられた時、ショックと恐怖と治療のことが頭に浮かんだ

治療をどうするのか

治療で感じるだろう自らの無力さ、恐怖、その結果得られる生の質などを考え、治療を断念する


マンハッタンで手に入れたばかりの素晴らしいアパートも全く意味のないものになった

どんな芸術作品に触れても、それまで感じたマジックは消 え失せていた

死後の世界も神も最早信じることができない

すべてが全く意味のないものに変わっていた

辛いのは、この世界から拒絶されたような孤独感である

その彼女にとって人生で大切なもの、それは健康とreflectivenessだと答えている


これから先に大きな希望をもって生活していた時だったため、尚更絶望を強く感じたのだろう

人生で大切なものとして、彼女は健康とreflectivenessを挙げている

本質を突いた深い分析に見える

7年前のわたしは、reflectivenessを思慮深さとか熟考しようとすることと訳している

しかし、思慮深さとはどういうことを言うのか、熟考するとは何を言うのか

そのことを理解していたとは言い難い

その後の7年余りの生活で reflection という営みの意味を体得したと感じているからだ

その経験からreflectivenessを日本語に変換するとすれば、次のようになるだろう

第一に自らを振り返ること、そこから進んで自らを取り巻く世界について振り返ること

そのような状態であり、その状態を齎すことができる能力をも含めたい


それでは、振り返るという作業を何を言うのか

それは、一つのテーマについて自らの記憶、人類の記憶を動員して大きな繋がりを見つけ出すこと

そして、紡ぎ出し、テーマの周りに関連するものを大きな塊として作り出すことである

振り返るという作業、考えるという作業は、思い出すということを意識的にやることなのである

こちらでの8年の生活の中で体得したことの一つが、このことであった

こちらに来る前には想像もしていなかった収穫である
 
このことから「哲学とは言葉の意味を体得することである」というフォルミュールを提出しておきたい


 この視点から今の世の中を見ると、reflectivenessが著しく減弱しているように映る

それは世の中が変わったためなのか、あるいは見る者の視点が変わっただけなのか

それは分からない

ただ、一見豊かさを増しているかに見える物理的な部分を見ても貧しい世界に見えるようになった

そこにreflectivenessの表出が見られないからなのか

それも分からない

いずれにせよ、豊かさとreflectivenessの間には深い関係がありそうだ



ところで、ヌアラさんについてのドキュメンタリー映画"Nuala"が2011年に発表されている

トレーラーを以下に






mercredi 9 septembre 2015

長く続いたジレンマ



こちらに来た当初から、一つのジレンマがあった

こちらの生活が本当のものなのか、仮のものなのか

これを本当の生活にするのか、仮のものにするのかについての迷いであった

日本にいると仮定した自分が本物で、こちらにいる自分は仮のものだと捉えることができた

その場合、余暇のつもりで来ている旅行者のような感覚で、気楽にやればよいことになる

一方、こちらの生活を本当のものだと捉えた場合は、真剣さをもって生活しなければならなくなる

これは、最初の学生生活に似てくる

どれほど真剣にやっていたのかは分からない

しかし、それしか道はないという意味で、真剣さが要求されたということである


フランスでのジレンマが消えたように感じたのは、ここ1-2年のことである

どのような形であれ今の学生生活を終えた時には、専門家の予備軍ということになるのだろう

甚だ心許ないが、そう自らを捉えて動かなければならないような気がしている

これだけ長くやったのだから、そこからは逃げられないという感覚である


まさに今、長い瞑想生活にあった学生が社会に出ようとしている状態にも見える

これから動的生活に入るのか、これまで通り瞑想的な生活に重点を置くのか

それはまだわからない

 しかし、一つの大きな転換点が待っていることだけは確かである






mardi 8 septembre 2015

ハッチンズ著 『偉大なる会話』 のこと、再び



こちらに来て1年目に日本に帰った折、学生時代の書棚からこの本を見つけた


大学に入った年に手に入れたもので、よく読まれた跡が残っていた

自由学芸と訳されていたリベラル・アーツという響きに心が躍ったのだろう

それ以来、この本のことは忘れ去られていた

しかし、身の回りから消えたように見えたこの経験はどこかに残っていたのかもしれない

この本に再会した時、実に懐かしい感情が蘇ってきた

いつものように、今こうしているのはあの経験が関係しているかもしれないという考えも浮かんだ

いつの時代でも哲学を専門とする人はマイノリティである、という言葉には真理 がありそうだ

哲学にはどこかとっつき難さがあり、秘密結社のように映る集団にも違和感がある

そして何よりも、それがなくても不自由なく生きていけるからである

一方、哲学や文学を含む自由学芸に触れると言った場合はどうだろうか

それほどの抵抗感は持たないのではないだろうか

ただ、その対象が古典ということになれば、話は少し違ってくるかもしれない

古典の場合、話し言葉で書かれた現代人の本とは違 い、理解するための時間が必要になる

そのため、忙しい現代人が面倒だと感じても何の不思議もない


この本を読んだ時に覚えたもう一つの抵抗感がある

それは、どこか上の方から「これは読まなければ駄目ですよ」と諭されているように感じたからである

「必読書100 冊」などと銘打たれると、それだけで読む気が失せるところがあったからである

これはすべての人の理由になっているとは思えない

しかし、上に挙げた理由とともに何らかの影響を及ぼしているのではないだろうか
 
いずれにせよ、古典との対話を薦めるハッチンズ博士の主張が広がっているようには見えない


その道になぜわ たしが入ることになったのか

それは、科学から離れることになったことと関係があるだろう

その時、リベラル・アーツという言葉が蘇ってきたのである

それまで意識には上らなかった普遍に対する熱のようなものがふつふつと湧いてきたのである

それは、古典の中にしかわたしが求めるものはないという確信に変容していった

ひょっとすると、このようなことは生まれて初めてのことだったかもしれない

そこから、欲することを欲することになり、そうなると止まるところを知らなくなる

それは嬉しい大転回であった

ほぼ半世紀を隔てた因果関係が見えたと言うつもりはない

ただ、こういう繋がりが見えてくるのは、実に味わい深いものがあるということは言えそうである






dimanche 6 septembre 2015

これは slow thinker としての生活か



「私には、例えばハクスレーのような賢い人にいちじるしい、事物をすばやく把握する能力も機知もない。それで私は批評家としてはだめである。人の論文や著書を読むと、初めはたいてい敬服する。よほど考えた後でないと、その弱点がわかってこない。私には長い純抽象的思索をやってゆく力はいたって乏しい。それだから哲学や数学をやっても、とても成功はおぼつかなかったと思う」
「総決算して良い方の部に入るのは、注意を逃れやすいような事物に気がつき、それをこくめいに観察することにおいて、一般の人にまさっていると思う。また事実を観察蒐集するために勉強することは、ほとんど極度に達した。さらにずっと重要なのは、私の自然科学に対する愛好心が変わらず、しかも熱烈であったことである」

 こう書き残したのは、ダーウィンであった

これを読んだ時、懐かしく思い出したことがある

ニューヨークの研究所で恩師だったイギリス人EAB博士の言葉である

博士も自分のことを、頭の良い才気煥発なタイプではなく、slow thinker であると診断していた

そして、ダーウィンのような科学者を目指していると付け加えた

それ以来、どこかで slow thinker という生き方に興味を持った

その時まではこの逆を目指しているように感じていたが、その変更が儘ならなかったからである

残念ながら、この傾向は現代社会に溢れているのではないだろうか


そして、パリでの生活を振り返ってみると、それは slow thinker としての生活ではなかったのか

そんな思いが巡る

しかし、パリ生活がEAB博士の言葉に押されたという自覚はない

手元の記憶からも消えていた

 ただ、このような出来事がどこかに堆積していて、その全体がこの体を動かしたのかもしれない

過去と現在が繋がっているように感じる瞬間、いつものことだが頭の中を涼風が吹き抜ける




samedi 5 septembre 2015

青春を取り戻せ!



前回、ホームストレッチに入っていると書いた

そろそろ鞭を入れなければならない時だろう

しかし、何しろ駄馬

変に気合を入れると、おかしくならないとも限らない

ここは少し違った心理作戦が必要になりそうだ


ことここに至っては次のように叫び、気持ちを高ぶらせたいところだ

「青春を取り戻せ!」

いろいろなことを考えず、純な気持ちで向き合え、という程度のことである

弾力性を失った心に活を入れる鞭のようなものかもしれない

 効果ははなはだ疑わしいのだが ・・・




lundi 31 août 2015

人は la dernière ligne droite に入っていると言うのだが・・・



学生生活も大詰めを迎え、人はホームストレッチに入ったところではないかという

本来であれば、本人がそう感じていなければならないはずなのだが・・・

 なかなか思うようにはいかない

7年前の今頃はマスター1年目のメモワールを終え、ほっとしたところだった

当時を思い出すと、必死に立ち向かっていたことが分かる

 こちらに来て最初のミニメモワールを書き上げた時、異常な昂揚感を覚えた

しかし、主観的に見るとあの昂揚感を超えるものはそれ以降ない 

客観的には、少しは前進していると思いたいのだが、、、

今回、「こと」を終えることができるのかどうか

それは神のみぞ知るという状況に入ってきた



夜、バルコンに出る

暗い夜空に鰯雲が広がる

今夜の月は非常に明るい

素晴らしい夜だ





mardi 18 août 2015

Closer to Truth、あるいは宇宙、意識、意味



宇宙、意識、意味についての哲学的対話を以下のサイトで観ることができます


お暇の折にでもお楽しみください



ところで、わたしのパリ生活を総括するに相応しい表現が見つかった

« bayer aux corneilles »

「何もせず、ぼんやり空を眺めて時を無駄に過ごす」

こんなぴったりの表現が飛び出すとは、驚きである






dimanche 16 août 2015

パリから見えるこの世界(31)「 倫理と道徳、そして医学教育における人文・社会科学を考える」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 『パリから見えるこの世界』 第31回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde »


医学のあゆみ(2014.8.16) 250(6,7): 529-533, 2014





lundi 3 août 2015

わたしの生理



学生生活の締め括りの時を迎えている

にも拘らず、なぜかその気にならない

学生としては、大きな悩みである

しかし、少し離れて見れば、学生としてだけ生きているわけではない

それが最初の学生時代と違うところだ


今年に入ってからは、"que ça" (それだけ) の精神でやってきた

それがどうも逆効果だったようである

そのやり方はわたしの生理には合わなかったように見えるからだ

逆に言うと、この過程でわたしの生理が分かったということでもある


今日、偶然にも他のことに意識を集中している時、気分が明るくなったのでそのことに気付いた

 「それだけに集中」などということは、わたしにはできそうもない

その上、体にも悪い

ぼんやりとは感じていたそのことを、やっとのことではっきりと理解したことになる

 それにしても、ちょっと遅すぎるのではないか






jeudi 30 juillet 2015

ハトの心と会話する



バルコンには偶にハトが寄ってくる

しかし、殆どは1分もいればすぐにどこかに飛んでいく

今日のお昼時、ハトがいることに気付き、鳴き声に似せて低い音で口笛を吹いてみた

するとどうだろうか

不思議な音が聞こえると感じたのか、首を横に振ったり、体に嘴を当てたりと落ち着かなくなった

そして、何度も後ろを振り向いたりし始めた

結局、20分くらいその音に付き合ってくれたのではないだろうか

 何かが通じているのでは、と思いたくなる時間であった





mardi 28 juillet 2015

ある建築家の設計哲学



東京オリンピックの競技場で揉めているという

問題をフォローしているわけではない

しかし、なぜか最初のブログ「ハンモック」で取り上げたフランスの建築家の話を思い出した

その建築家はケ・ブランリ美術館の設計哲学を問われて、こんなことを言っていた

2006年のことである


それは、他者の文化・文明のための区域(territoire)を創造すること、建物というよりはそのための場所(territoire)というイメージで事を進めること、全的な建築 "une architecture totale" とも言えるものである。公園が全体の三分の二を占め、ギャラリーはセーヌ川の曲線と共鳴し、テラスはエッフェル塔の日陰になるという素晴らしい立地条件である。建物が平凡なので、色や光、細部で勝負した。

アフリカ・オセアニア文化の美術館では、例えばマスクなどはそれが本来あるべきコンテクストから抜き取られて、芸術作品として展示されることになる。しかし、彼は芸術作品として扱わないと言う。そのものが感情を揺さぶる力を維持していること、またそのものがある状況(踊っている人の顔にあるマスク)を想像することが重要になるので、そのための映像や文献も用意している。人類博物館とアフリカ・オセアニア博物館の統合をこの美術館はしている。

今日の建築を揺り動かしている問題は、建物が建つところの地理や歴史との対話なしに、土地の人との協調なしに、いつも同じような形を落下傘で落すようなやり方で、このようにして世界を矮小化するのには反対である。仕事はいつも冒険であり、探検でなければならないが、90%のプロは場所に対する意識がない。

  
こう答えていたのは、ジャン・ヌーヴェル(Jean Nouvel, 1945-)さんであった





vendredi 24 juillet 2015

"American Philosopher" が面白い



以前に取り上げたと思っていたが、見つからないのでこの場で改めて観ることにした

"American Philosopher"

哲学に入ったためであることは間違いないのだろうが、実に面白い

アメリカの哲学者の自由な語りが第一の魅力だ

アメリカの哲学の特徴を推測することもできる

そして何よりも、哲学をどう捉えるのかについてのヒントに溢れている

お勧めである





この中で、リチャード・ローティ(1931-2007)さんが哲学における創造性について語っている

 それは、古くからある問いに解を与えることではない

そうではなく、これまでの問いの枠組みを取り払い、全く新しい組み合わせを作り出すこと

全く新しい問いを出すこと、新しい方向性を示すこととも言えるのだろうか

哲学の仕事は解説することではなく、新しい概念を出し、一つの提案をすることだと言う人もいる


ローティさんは20世紀を代表する哲学者として次の3人を挙げ、人々を驚かせた

Philosophy and the Mirror of Nature (Princeton University Press, 1980) の中でのことであった

野家啓一監訳 『哲学と自然の鏡』(産業図書, 1993年)

人々が驚ろいたのは、相対主義者とも批判されたデューイがその中に入っていたからである

その人物をアメリカ分析哲学を代表すると思われていた哲学者が挙げたからである

分析哲学の手法で明らかにできる世界には限界があると考えていたことを想像させる

哲学には道徳的な視点が欠かせないと考えていた証左かもしれない


哲学の使命とデモクラシーの関係について、ローティさんはこう言っている

哲学の使命は民主主義の基盤を問うことではなく、どのように民主主義に貢献できるのかを問うこと

これを人間に置き換えれば、哲学の役割をこう捉えているのだろうか

人間の本質を問うところに留まるのではなく、どのような人間に成るのかに重点を置くべきではないか

彼は、哲学が科学的であろうとする流れにも異論を持っていたようである

 その意味ではマルセル・コンシュさんとも繋がり、わたしの考えにも近いものがある

いずれもが哲学から始め、その中で仕事に集中した人たちではなかった

パースは科学者であり、論理学、数学、論理学、記号論などにも興味を示し、そこから哲学を生み出した

ジェームズも絵画に始まり、医学(解剖、生理学)、心理学などから哲学に至った

その背景が豊かな哲学を生み出したのではないかと指摘する人もいる





mardi 14 juillet 2015

パリから見えるこの世界 (30) 「アトピーと哲学、そしてモンテーニュが試みたこと」

Maison familiale des Montaigne
(23-25 rue de la Rousselle, Bordeaux)


本日は革命記念日だ

だが、現世の出来事には無縁の生活が続いている


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 『パリから見えるこの世界』 第30回エッセイを紹介いたします

« Un regard de Paris sur ce monde »

医学のあゆみ (2014.7.12) 250(2): 165-169, 2014


ご一読、ご批判いただければ幸いです





samedi 11 juillet 2015

ディオゲネス現る

 Diogenes (Detail)


  本日のメトロ

この絵にあるのと同じ服装のもう少し疲れたような感じの裸足の男が乗り込んできた

通路を挟んで反対側に座っていた中年女性の二人組が静かに後ろの方に移動した

すぐにこれはディオゲネスだと分かった

今何を思うのか尋ねようとしたが、思い止まった

こういうことが起こることに驚く

パリ8年目にして初めての出来事であった






lundi 6 juillet 2015

ニーチェによる風土と精神との関連


こう蒸し暑いと、ついニーチェの言葉を思い出す


 ***********************************

誰にしろ、何処に住んでも構わないというものではあるまい

ことに全力を振りしぼることが必要である大きな使命を果たさなければならない者は、

この点できわめて狭い選択しか許されていない

いったん土地と風土の選択を誤ると、自分の使命から遠ざけられてしまうばかりでなく、

使命そのものをわが身に授けてもらえないということが起こり兼ねないのである

つまり、彼自らが使命に面と向かうことを一度もしないで終ってしまうわけだ


どんなに小さな内臓の弛みでも、それが悪い習慣になってしまえば、

一人の天才を凡庸な人物に、何か「ドイツ的な存在」に変えてしまうには十分である

ドイツの風土にかかったら、強健な内臓、英雄的素質を具えた内臓でさえも、

無気力にしてしま うのはいとも簡単だ


ひとつ比べ合わせてみて頂きたい

才気に富んだ人々が住んでいたかまたは現に住んでいる土地、

機智と洗練と悪意が一体となって幸福の要素を成していたような土地、

天才がほとんど必然的に住みついていたような土地、等々を

どれもみな空気が素晴らしく乾燥した土地ばかりだ

パリ、プロヴァンス、フィレンツェ、イェルサレム、アテーナイ

----これらの地名は何かあることを証明している

すなわち、天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としていること


私はある自由な素質を持つ秀でた精神が、

たまたま風土的なものに対する本能的鋭敏さを欠いていたというそれだけの理由で、

狭量になり、卑屈になり、ただの専門家になり下がり、気むずかし屋で終ってしまったケースを、

目の当たりに見て知っている


 **************************************************
ニーチェ 「この人を見よ Ecce Homo」 (西尾幹二訳)
  


こちらに来て初めて、大地が揺れない土地に住んでいる幸いを意識するようになった

つまり、それまで天災が日常的に襲う特殊な風土の中にいることに無自覚でいたのである
 
それ以来、気候と精神の関係は想像以上に重要であることに気付くことになった

それは、積極的、意識的に住む場所を選ぶという行為を浮かび上がらせることにもなったのである





samedi 4 juillet 2015

映画 "Still Life" を観る


その時、わたしは機内にいた

それまで音楽を聴いていた

そして、最後の2時間になった時、目に入った 『おみおくりの作法』 という映画を観ることにした


静かな映画である

大きな動きがある時もさざ波にしか映らない

孤独死が中心にあり、その最期を看取る公務員が主人公だ

彼は期待されている以上の仕事をしている

亡くなった人間の人生を復元しようとして考え、動く

そして、最後は葬儀、埋葬を行い、一人で看取るのである

葬儀に参加したがる人間はいないからだ


しかし、これが経済原理には合わないらしい

安く上げるには、埋葬ではなく火葬

葬儀は生きている人のためであり、参列者のいない葬式には意味がない

そんな葬式は死者のためのものではないか

これが行政の言い分だ


彼はある日突然首を宣告される

しかし、取り掛かっていた仕事の完結を見るまでやり遂げる

そして、その人間のために自分が用意していた眺めの良い墓地まで譲るのである




彼の生活ぶりを外から見ると、質素で、簡素で、単調である

しかし、この公務員の仕事ぶりには細部を見逃さない丁寧さがある

静かな拘りと情熱がある

それはどこから来るのか

そのヒントはあっただろうか


映画の最後には二重三重の驚きが待っていた

ここで終わるのかと思った時、虚しさが残った

しかし、最後の最後には救いが待っていた

その時のわたしにはぴったりくるイギリスの匂い漂う素晴らしい映画だった


幸運を齎してくれるのは、やはり偶然なのか

そして、それは必然でもあるのだろうか





わたしがこちらの大学生活で学んだ貴重なことがある

そのことをこの映画を観ながら思い出していた

エディー・マーサン演じる主人公が、教会に一人いて見送っている姿を見た時

こちらの大学の先生が院生数人に対して講義する姿と重なったのである

教室が溢れるようなクールもあれば、2-3人のものもある

しかし、僅かな学生に対しても何ら変わることなく講義をする

それまで数に敏感であった身からすると、それは目を開かされる経験となった

それ以来、以前の拘りがわたしの中から完全に消えて行ったのである