vendredi 11 mai 2012

クロディーヌ・ティエルスランさん再び、「哲学は科学的でなければなりません」

Pr. Claudine Tiercelin (Collège de France)


午前中は雨模様。
時折増す雨音を味わいながら昨日の出来事を思い出す。
意識的に思い出さないと昨日どこからか降りてきたアイディアの核もどこかに逃げていく。
今日はそこから少し先へと考えが巡っていた。
いつものパリのように、午後から晴れ上がってくれるだろうか。


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今年初めにコレージュ・ド・フランスの 「知の形而上学と哲学」 教授クロディーヌ・ティエルスランさんのインタビュー記事 (Le Point) を紹介した。


先日手に取った科学雑誌 La Recherche の5月号に彼女のインタビュー記事が載っていたので、前回と重複しない範囲で紹介してみたい。


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彼女の言う科学的とは、自然科学の研究者や実験者が持っている精神で研究を進めるもので、誤りに注意しながら実証可能な命題を提出することだという。その過程で科学の声を聴くことが重要だと考えている。

このインタビューでも科学と哲学のどちらが知における優位性を持っているのかは重要ではないと繰り返している。両者は明らかに対象も方法も異なっているから だ。哲学の仕事は言語を用いてできるだけ実体に近い概念を作ることである。そこでは、言語と概念と実体の三者関係に常に注意しながら進めることが不可欠に なる。実体に至るためには、物理的な実験だけではなく、非物理的な認知科学の領域の実験をも含めている。さらに、想像できるものと可能性のあるもの、可能 性のあるものと実際にあるもの、言葉の違いと概念の違い、概念の違いと実体の違いを混同しないようにすることも強調している。

科学哲学と知の哲学(philosophie de la connaissance)との違いを次のように説明している。科学哲学は、科学の方法、理論と観察との関係、特定の科学の変遷などを扱うのに対して、知の哲学は対象を科学知に限らず、知の概念そのものやその基盤、論理、推論、証明の本質、信じることとと知との関係などの問題にも興味を示す。

形而上学をどう定義するのかと聞かれて、彼女はこう答えている。形而上学とは実在についての科学で、存在、自由、時間、心身問題、法則の本質、物理的・心理 的因果関係などの問題を扱うものである。つまり、実在の最も深い構造について研究する科学になる。同様に、世界の成り立ちの深い構造を研究する物理学との違いは、物理学者の存在論は必然的に物理主義になるのに対して、形而上学者はこの世界を理解するためにはそれだけでは不十分だと考え、生物学、心理学、社会科学などの多様な学問から存在論を研究する。その背後に、自然は物質からできているのか、あるいは関係やプロセスなのか、アイデンティティを構成する条件とは何か、というような科学者の範囲を超える重要な問題が控えている。

形而上学とは知に関する論理的な営みであり、科学と同じ原理に基づいている。世界の最も根源的な要素を求めている点で、科学と同じ目的を持っている。形而上学者はよく議論すると言われるが、それは学問の基準がないからではなく、見かけに囚われたり、錯覚に陥ることを避けることや目の前のものを虚心坦懐に観ることが難しいからである。この議論も科学精神の下で行わなければならず、科学がすべてを説明すると主張する科学主義や形而上学者が最終決定するという体系に囚われたドグマから自由でなければならない。形而上学者は実験室には行かずオフィスに留まっているが、椅子に座っているだけではない。ある意味で数学者に近い存在である。




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