jeudi 3 mai 2012

遠くに感じた科学の発表現場で考える



昨日は朝から久しぶりのコレージュ・ド・フランスへ。
From mice to men and bench to bed と題したコロックを聴くために。
フィリップ・クリルスキー教授がオーガナイズする最後のコロックになる。
演者はお一人を除いて教授の教え子や共同研究者とのこと。
そのせいかどうかわからないが、会場は閑散としていた。

第一線の研究者が次々に出て、新しい事実の報告をしていた。
それを聴きながら、現役の時にはあったであろう感情の昂ぶりがないことに気付く。
以前にも感じたが、科学の現場との距離がさらに広がっているからだろう。
守るべき範囲も広がっているからかもしれない。

発表者の方も専門家に話す時には細かいことを説明しない。
専門外の人がわかるような話し方をしない。
仲間内の語りになっている。
しかし、実際にはその領域にいる人は聴衆の中でも僅かであることが多い。
会場のほとんどの人は理解していない可能性がある。
つまり、研究者は先鋭化した専門家になることによって科学から疎外されるのである。

ひょっとすると、今の科学者は深いところでこの矛盾を感じているのではないだろうか。
それがより広い視点から科学を見てみたいという願望に繋がっているのではないか。
 と同時に、これは素人の目から見える科学の現場の景色に近いはずである。
もしそうだとすると、素人が科学を理解するのは大変なことである。
素のわれわれが科学を受け入れることは、ほとんど不可能ではないか。
その上で、一体どのようなやり方で科学を考え、語っていけばよいのだろうか。

以前にも増して美しく見えるスライドを追いながら、考えさせられる時間となった。




人間が素の状態で感じることのできる喜びがある。
そのためのトレーニングは必要ない。
謂わば、誰でも味わうことができる本能的なものである。
 それとは別に、長い間鍛えなければ味わえない悦びがある。
科学もその一つだろう。

本能的なものが不安定なのに対して、こちらは安定し、持続するように見える。
精神の安定、静けさこそが人間の幸福だと考えたのはエピクロス。
一人のエピキュリアンとして、持続する喜びを齎すものは大切にしたいと考えていた。


会場では 「哲学と免疫学」 セミナー・シリーズの世話人を昨年までしていた方と会う。
彼女はクリルスキー教授の下でドクターをとり、オランダで実験+理論免疫学を研究中。
元気そうであった。





 「詩 --- 音と意味との間に横たわるこの躊躇い」

帰りのメトロでポール・ヴァレリーさん(Paul Valéry, 1871–1945)のこの言葉に出会った。





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