samedi 5 novembre 2011

更地から始める、そして目に見えないものを理解できるのか



フランスのものを読むようになり、どうして何の役にも立たないようなことに (もちろん、それまで私が持っていた基準によれば、ということだが) 疑問を持つのか、しかもあらかじめ決められた目標に向かうのではなく、方角が見えないところから歩み始めるのか、という不思議を抱えることになった。それは同時に、人間の精神の中で繰り広げられている目には見えない 「もの」 を言葉にしようして人生を生きている人、あるいは人生を送り死んでいった人たちが山ほどいることを意味していた。

それではなぜ、それまで読んでいた英語の世界ではこのような疑問を感じなかったのだろうか。英語とフランス語文化の本質的な違いなのか、単に触れる順序だけの問題だったのか。英語に触れてから相当の時間が経つ。その結果、英語の世界が日常になり、英語が仕事の言葉、何かの役に立つ情報を得るための言葉になっていた可能性がある。一方のフランス語は生きるために必要な言葉ではなかった。しかも窓口になったのが哲学だったこともわたしの中での抵抗感を増幅する原因だったのかもしれない。

このようなズレを感じた背景には一体何があるのだろうか。ひとつには、更地に枠組みを作るところから始めるかに見える彼らの営みに、それまで感じたことのない自由な精神の動きを見たことが挙げられる。あらかじめ決められた目標に向かうのではなく、目標を決めるところから始める自由と困難。一つの問に一つの答えという直線的な頭の使い方ではなく、いろいろな点を繋ぎ合わせてまとまりを付けるという頭全体を使う運動の面白さ。同様の違いは、直線的な解を求める仏検と複雑系を解くようなDALFの問を実際に体験して感じることになった。




科学の発展を振り返ると、最初は目に見える物を記載したり、分類したりするところから始まる。それがある程度進むと目には見えない領域が現れる。そこでは哲学的な思考が重要だったはずである。飛び抜けた想像力を持つ一握りの天才が貢献した歴史がある。そして、その目に見えない物を見ようとする人間の意志が技術を生み、やがてそれが見えるようになるというのが科学の歴史の一側面ではないだろうか。言い換えれば、科学は物をこの目で見ようとする人間の試みのような気がしてくる。現代においても哲学が目には見えないことについて発言し、科学に貢献することができるのだろうか。それは並大抵のことではなさそうだ。

「科学とは、物を見ようとする試みである」
"La science, c'est un essai de voir des choses."


一方、科学との比較で文系の領域を眺めると、最後まで目には見えない 「もの」 (概念など) を言語化することによりわかったような気分になるところがある。そこには言語の持つ限界があり、特に外から入ってきた者にとって、その理解には大変な困難が伴う。こちらに来て受けた講義で困ったのが、まさにこの点だったことは前ブログでも触れた。翻って、目に見えないものを本当に理解することができるのかという疑問が常に付き纏う。科学者はポンチ絵を頻繁に用いる。その絵を見ることにより、理解したような気になるのだ。これは文系の学問の理解についても当て嵌まるのではないだろうか。つまり、言語化された 「もの」 を自らの頭の中で視覚化できないと理解したと感じないのではないか、ということだ。未だ想像の域を出ないが、科学の領域から入ってきて数年の者にはそう見える。

「理解するとは、ものを視覚化することである」
"Comprendre, c'est visualiser des choses."



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今日のお話は前ブログの記事を合体、校正したものになる。




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